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  八十一  


 どいつもこいつも嫌いだった。
 自分の機嫌を伺い、へりくだった態度でありながらも心の奥では見下していたのを知っていた。可哀想にと同情して、そして陰では自分を貶していた人達。
 何度も何度も聞いた、”庶子”、”妾の子”。
 噂話をしているところにひょこりと飛び出してやったこともある。そうすれば馬鹿みたいに狼狽えて、それからほっとしたような顔をするのだ。自分がきょとんとした顔で見上げてくるものだから、意味が分かっていないと安心したのだろう。
 馬鹿だな。馬鹿、馬鹿、バーカ。
 知ってるよ。自分がそういう子だって知ってる。
 あのクソ親父が正妻以外に生ませた子供が自分だ。知らないほうがどうかしてる。だって正妻であるとても美しい人は自分を見るときだけ鬼のような顔になるのだから。
 跡取りはお前だと父はとても自分を可愛がってくれる。女だとかはどうでもいいらしい。この歳にして霊圧が規格外に高いと父の知り合いに紹介される度に褒めちぎられる。そんなとき父は自分が一番嫌いな顔をするのだ。
 自分の”もの”を褒められて優越感に浸る醜悪な顔。
 ああ、嫌だ。汚い。そんな顔するんじゃねえ。
 自慢の”娘”を褒められて喜ぶ顔はできないのか。子供に本性見破られてんじゃねーよ。







「いらね、マズい」
 そう言って膳を蹴ってやった。
「いい加減にしろ!」
 そしたら殴られた。ほっぺたをパチン! て。
 殴ったのは使用人とかじゃなく、この家の長男だ。そして自分は居候。
 ちょっと遡ると、正妻に子供が生まれた。それも男の子。
 自分はいらなくなった。結構簡単に屋敷をほっぽり出された。父は最後まで反対していたようだけど、それは気に入りの”もの”を手放すのが惜しかっただけだ。
 預けられた先は下級貴族の家で、はっきり言って小さな屋敷だった。使用人なんて一人しかいなかった。自分のことは自分でする、それが当たり前なのだと実はここで初めて知ったけどそれは誰にも言っていない。正直、恥ずかしかった。
「痛えな! 何すんだよ、馬鹿、馬鹿メガネ!」
「君はもっと礼儀を学びなさい」
「知るかそんなもん」
「知るんだ。これから」
 説教臭い男だった。ついでに神経質。その四角いメガネみたいな性格をしていた。
「まず食べ物を粗末にしてはいけない」
「あーうるさい」
「片付けるんだ。‥‥‥‥そんなことも自分でできないのか」
 その言葉にカチンときた。自分のことは誰かがやってくれていた。そんなこと、口が裂けても言えなかったから、渋々片付けをした。
 自分が、使用人がするようなことを。そういうふうに思って、父の顔を思い出した。
「‥‥‥‥‥‥っ、」
 帰りたい筈が無い。恋しい筈が無い。
 動きの止まった自分を不審に思ったのか、男が顔を覗き込んできた。
「っな、」
 ”な”がどうした。
 何か言い返してやろうかと口を開いたけど声が出なかった。目の奥が熱くて、鼻がツンとして、喉が痛かった。
「‥‥‥‥すまない」
「‥‥‥‥っう、」
 背中を撫でられて変な声が出た。ジワーっと目の奥から何かが溢れてきて、息が苦しくなった。
「もっと優しく言えば良かったのに、怖がらせてしまったな。すまん」
「‥‥‥ん、っひ、く、」
 耳がキーンと鳴っていた。それでも男の声は優しく響いてちゃんと聞こえることができた。
 頭を撫でてくれるその手が無性に胸を苦しくさせて息を詰まらせた。しゃがむ体勢から力が抜けて、目の前にいる男にぶつかった。起き上がろうにも力はもう入らない。そうしたらそっと体の向きを変えられて膝へと乗せられた。
 滲む視界に映ったのは自分を困ったように見下ろしてくる男の顔だった。まさかつい先ほどまで偉そうにふんぞり返っていた貴族の馬鹿娘(しかも庶子、しかも捨てられた)が泣くとは思わなかったのだろう。
 恥ずかしい。この家にきてから自分はそう思うことばかりだった。
 両手で顔を覆ってひっくひっくとしゃくり上げていたら、ゆらゆらと体が揺れだしたので驚いた。指の隙間からそっと様子を伺えば、男は照れたようにそれでも体を揺らしてくれていた。
 そして思い出す。せっかく慰めてくれていたのにそのせいで涙がぶり返し、今度はワッと泣いてしまった。
「ど、どうした!?」
 思い出した。弟が、こんなふうに父に抱っこされていた。
 自分は一度も、抱きしめられたことなどなかったのに。
「俺、俺っ、」
 前の屋敷ではずっと”私”なんて言っていた。”わたし”じゃなくて”わたくし”だ。笑える。いや、今はまったくもって笑えないけれど。
 泣いてる。何を言われても泣かなかった自分が今、泣いている。
「俺はっ、こんなふうになりたかったわけじゃないっ」
 言ってひーんと泣いた。涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃだ。しょっぱい。
「ほんとはもっと、もっとっ」
 もっと、なんだっけ。
 言葉が見つからない。頭も痛くなってきた。
「俺って何!? なんで、捨てられなきゃなんねえんだよぅっ、」
 邪魔にならないから隅にでも置いといてくれればよかったのに。
「傷つくだろっ、フツー、だって俺、子供なのにっ、子供だったのにっ、」
 霊圧高いから何だよ。
 捨てられてるし。情けない。
「‥‥‥‥ちくしょうっ、ぜってー仕返ししてやる!」
 この無駄に高い霊圧を駆使して隊長に登り詰め、あんな家ぶっ壊してやる。
「やめなさい」
 壮大な復讐劇の始まりは、しかし悲しげな声で閉じられた。
 ぐちゃぐちゃになった顔を拭かれてそれでも零れ落ちてくる涙を丹念に指で拭われた。男が気難しさを超えて深く思い詰めた顔で自分をまっすぐに見つめていた。
「我慢しなさい」
「なんでっ」
「君ならできる。我慢するんだ」
 子供に我慢しろってそれは無理な要求だ。ひどいことをされたらやり返すのが子供の世界のルールだろ。
 そう言ったら眼鏡の奥の澄んだ瞳がくっと苦しげに細められた。
「それは大人の世界でもあることだ」
「だったら」
「だが君は私の家族だ。家族に、そんな真似はさせられない」
 その言葉にまた涙があふれた。
 わざとでかい声で泣いてやったらぎゅうと抱きしめられた。眼鏡が頬に当たって痛い。それを奪って握りしめたらパキリと音を立てて割れてしまったけれど、男は構わず抱きしめ続けてくれた。
「もっと泣いていい。子供は泣きなさい」
 綺麗に後ろに流された男の髪をぐしゃぐしゃにしてやった。それでも怒らずに優しく包み込んでくれるこの人は自分と家族なのだという。
「一護」
 自分の名だ。
 今まで一度として感情を込めて呼ばれたことの無かった不遇の名。
「一護」
 名前を呼ぶのは反則だ。そんなふうに呼ばれて、プライドとかそういうものすべてがどろどろに溶けて消えてしまった。
 四角いメガネの男。
 名前は、‥‥‥忘れてしまった。まあいい、後でまた聞こう。
 今はとりあえず、我慢、すればいいんだろ。









 それで惚れてしまった訳なのだが。

「八十千和」
「‥‥‥‥兄と呼べと言っているだろう」
「俺のほうが強いもんね」
 そう言ってやったら伊江村はしばし絶句し、そして一護に背を向けて地味に落ち込んだ。
「嘘。うそうそ」
「お前は、私をおちょくって楽しいか」
 楽しい。
 とは言えないので一護は首を横に振って謝った。
「なあ、近々俺、副隊長になるんだぜ」
「ああ、聞いた」
 淡々と返されて一護はむっとした。
「それだけ?」
「おめでとうございます」
 口調が一気によそよそしくなり、一護はガーンとショックを受けたように固まった。
「なんて顔をしている。冗談だ」
 クイ、と四角いメガネを押し上げて伊江村はいつもの調子に戻った。一護は怒ったように唇を突き出すと、無言で伊江村の背中に抱きついた。
「こっ、こらっ」
「誰も見てない」
 見られても構わないが。自分達二人は兄妹のように育っただけで本当の兄妹ではないことなど親しい連中なら誰もが知っている。
 一護は固い背中に頬を擦り寄せた。四番隊といってもその仕事は体力勝負だ、しっかりと筋肉のついた伊江村の体に腕を回して一護は満足げに息をはいた。
「‥‥‥‥もし隊長になれたら、俺と結婚してくれる?」
「駄目だ」
「相っ変わらず固えな。でもそういうとこも好き」
「‥‥‥‥一護、」
 戸惑う声には耳を貸さず、一護は抱きついたまま離れようとはしない。伊江村がなんとか体を離させようとしてくるが、その引き剥がそうとする手を逆に握りんでやった。
「戻ってこいって言われた」
「‥‥‥‥お父上にか」
「何にも変わってなかった。すっげームカついて、でも、我慢したんだ」
 そのとき伊江村が顔だけでこちらを振り向いたので一護はするりと体を離した。繋いだままの手にとても安心した。
「だから一発だけ殴って今までのこと全部チャラにしてやった。偉い?」
「お前という奴は、」
 呆れたような伊江村の表情に、しかし一護は嬉しそうに笑っていた。
「あんたが好きだ。初めて名前を呼ばれたときから、ずっと好きだよ」
「一護、」
「ほらまた。そんなふうに呼ばれたら、惚れちゃうって」
 今さら照れたように一護は伊江村の手を両手でもじもじと握って俯いた。赤く染まった頬と耳、それらが嘘ではないことを訴えている。
「副隊長になったら今以上に見合いしろとか言われるんだ。そうなる前に俺と一緒になろう」
「そういうことは男が言うものだろう」
「言ってくれんの?」
 伊江村は押し黙った。分かってはいたけれど自分が望む答えを相手が言ってくれなくて、一護は深いため息をはいた。
「今日も駄目か」
「お前は私の妹だ。幸せになりなさい、他の、男と」
 言った瞬間、伊江村は眼鏡を奪われた。そして不明瞭になる視界の中、パキンと何かが割れる音を聴いた。
「また割ったな!? お前はっ、気に入らないことがあるとすぐ私の眼鏡を割ってっ」
 これで一体いくつ目になるか分からない。伊江村が目を細めて一護の姿を捉えようとしたとき、そのオレンジ色が思ったよりも間近にあって驚いた。そして驚いた拍子に後ろに下がれば顎に何か柔らかい感触が触れた。
「あ、失敗」
「!!」
 何をされたのか分かった伊江村は瞬時に顔を真っ赤にして己の尖った顎を手で押さえた。
「お前、お前はっ、」
「そんなに怒るなよ。口にだってもう何度かしてるだろ」
 声には悪びれた態度は一切伺えない。一護はぺろりと己の唇を舐めるともう一度、今度はちゃんと唇にしてやろうと迫ってきた。
「来るんじゃないっ」
「俺のこと嫌い? 卯ノ花隊長みたいな女の人のほうがいい?」
「よしなさいっ、」
「こんな俺でも好きだって言ってくれる奴はいるんだ。八十千和は? 俺のこと手篭めにしてーって思わない?」
「‥‥‥って、ご、」
「他の奴には指一本触れさせないけど、あんただったらいいよ。好きなだけ、何したっていい」
 壁際に追いつめて一護は眼鏡をかけていない伊江村にも分かるほど近くで微笑んだ。そして下から覗き込むようにしてそっと唇を重ねた。
 二、三度離れてはくっつき、そして最後に下唇を柔く噛んで一護は顔を離した。
「‥‥‥怒った? でも自業自得だよ。あのとき俺なんかほっとけばよかったんだ。‥‥‥‥俺の名前なんて呼ばなかったらこんなことにはならなかったんだから」
 伊江村の顔が当時を思い出したのか苦しげに歪められる。それを見て一護は泣きそうな笑みを浮かべて踵を返した。しかし、
「私はっ、たとえこうなろうともお前の名を呼んでいた。‥‥‥‥一護」
 引き止められるようにして名を呼ばれ、一護の足が止まる。
「‥‥‥‥馬鹿だなぁ。やっぱり、惚れちまうって」
 自分に対しての恋情なんて無いくせに、そんなことを言う。それこそがその人の優しさなのだけど。
 女心が分かっていない。お固い男に苦笑して、それでも惚れた気持ちは少しも揺らぎはしなかった。
「一護、」
「そうやって、名前を呼んでくれるうちは俺、諦めないから」
 それが嫌なら名を呼ぶな。
 暗にそう言ってやったら一護の惚れた男は唸り、そして結局は名を呼んで、一護を心から笑みにさせた。


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