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  臆病ノスタルジー  


「あり得ねえ!」
 つるりと綺麗に剃った頭部を抱え、一角は何度も同じ言葉を繰り返し吠えた。
「いい加減認めたら?」
 傍で鬱陶しそうに眺めている弓親はうんざりしたように息を吐き出した。先ほどからかれこれ半刻ほど一角はこの調子だった。
「認められるか! 俺がっ、このっ、俺がっ」
 眦に塗った朱紅のように顔も赤く染まっていた。それを見てタコのようだと弓親は失礼な感想を抱いた。
「あんなガキ、好きになる筈がねえ!!」
 一層吠えると、卓へと突っ伏し、ううう、と獣のように唸った。
 そんなに取り乱しておいて好きじゃないなんてそれこそあり得ないと弓親は思う。今の一角は恋に心をかき乱された男そのものだ。
「ねえ、女性を好きになるなんて今さらだろう。何をそんなに喚く必要があるんだい」
 おかしなことではあるまい、そう言ってやるとがばっと一角が顔を上げた。
「馬鹿やろっ、あいつは他とは違うだろーが!」
「ああ、他の女性とは比べられないってこと。随分と惚れ込んでるんだねえ」
「違えよ! あいつは女じゃねー!!」
 一角の中での女とは細くて柔らかくて乳がでかくて弱い感じだ。だが<あいつ>は細いのはいいとして、目つきは悪いし乳も小さい。男顔負けの腕前に、男なんてお呼びじゃない。
「あの子は立派な女の子だよ。着飾れば可愛らしくなるんじゃないかな」
 普段は目つきの悪い少年といった感じだが、顔の造作は悪くない。弓親にしてみれば中の上あたりだが、ふいに見せる表情は時折目を見張ることもある。それに一番の魅力はあの他人を惹き付ける雰囲気だ。
「ガキだなんて言ってるけど、あれくらいの時期は少女と女性の境目で少しの切っ掛けであっという間に大人の女性になってしまうものなんだよ」
「なんだよ、切っ掛けって」
 一角は女性経験は豊富なくせに、そういう内状は知らない男なのだ。弓親はちょっと揺さぶってやろうと内心にやりと意地悪く笑って言ってやった。
「決まってるじゃないか。男だよ」
 それを聞いて一角は目を見開き、不機嫌そうな表情をつくると視線を逸らした。
「君が違うって言うんなら、他の男があの子を女にするだけだ」
 間違いなく<あの子>は処女だ。それを暗に匂わせて言葉にすると、一角の鋭い視線がぎろりと弓親を睨みつけてきた。だがそんな視線に怯むような弓親ではない。更に言葉を募らせる。
「隣に立っているのが自分じゃないなんて、後悔したときには遅いんだよ」
「うるせえ! 違うもんは違うんだよ!」
 どんと卓に拳を叩き付ける。怒鳴られた弓親は八つ当たりに秀麗な眉を寄せて、心底嫌そうに溜息をついてやった。
「ああ嫌だ。醜い、醜いよ。そうやって自分を誤摩化して、後で泣きを見るといい」
 一角は思い切り渋面をつくり、そして床に拳を突き立てた。








 
「戦うのは嫌だな」
 ふにゃりと笑って一護は言った。
 飲めと勧められるがままに飲んだ一護は前後不覚に陥っていた。上半身を起こしているのがやっとで、今にも卓に突っ伏してしまいそうなほどに。
「のんびり、暮らしてえなあ」
「お前、ほんとに俺らよりも若いのか?」
「隠居するにはまだ早いよ」
 一角と弓親は酔っぱらいの戯言だとさして相手にしていなかった。一護も酒のせいかへらへらと笑っていた。
「痛いのは、嫌だし、斬られたりしたら、痛いだろ、だから嫌だし、斬られたら」
「あーもーいい、分かった分かった」
「お茶貰ってくるよ」
 自分でも何を言っているのか分かっていない一護に苦笑して弓親は席を立った。途端に一護は卓に突っ伏し、体中から力を抜いた。
「頭ん中がー、ぐるぐるしてるー」
「下戸かよ」
 酒を飲んでも一護は顔には出ないたちらしい。ただ目は焦点があっておらず、ぼんやりと視線は彷徨っていた。
 帰る途中の一護を弓親と二人で捕まえて酒場へと引っ張り込んだのだが、どうやら酒に対する耐性がほぼ皆無のようだ。一護の家はどこにあるだろうかと一角は考え、まあ弓親がどうにかしてくれるだろうと楽観していた。
「なあ、一護」
「んー」
「十一番隊に来いよ」
「んー」
「お、いいのか?」
 酒の席とはいえ是と言えばこちらのものだ。約定を取り付けておいて後から迫ればいい。何か書くものはないかと一角は辺りを見渡した。
「これでいいか。おい、ここにちょっと名前書け」
 壁に貼ってあった品書きを勝手に引き剥がすと、弓親の荷物から携帯の筆と墨壺を取り出した。そして何事か書き付けた後、ふらふらになっている一護に墨をたっぷりと含ませた筆を無理矢理に持たせた。
「ここの下だ。黒崎一護、ってな」
「んー」

 ”私は十一番隊に入隊します。絶対に。マジで”

 こんなものが正式な書類として受理され、一護が隊を変わることが出来るのかどうかは甚だ怪しい。しかし普段から思慮が足りないと弓親に言われている一角にはそんなことは問題とも思っていなかった。
「く、ろ、さ、き、」
「平仮名かよ。‥‥‥‥まあいいか」
「ま、さ、き、‥‥‥‥ぃよーし」
「じゃねえ! 誰だっ、”まさき”って!」
 一護はその後に”いっしん”、”かりん”、”ゆず”、そして”おれ”と書き連ねた。
「黒崎ファミリー、かんせーい」
 けらけら笑って一護は筆を放り出した。
「バッカ、お前の名前だけでいいんだよ!」
「なんでだよー、家族はなぁ、一緒にいなきゃよー、」
 一護は再び筆を手にとると、今度は名前の周りをハート型で囲んでしまった。
「家族はこうでなきゃ、なあ、クリりん!」
「ツルりんだ! じゃねえ一角だっ、この酔っぱらい!!」
 派手なオレンジ頭を叩いてやれば、なぜか一護は卓をぱんぱんと叩いて爆笑した。普段の無愛想が嘘のように陽気な一護に、一角は真面目に相手をするのが疲れてきた。
「お前、そんなんでよく今まで生きてこられたな」
 上司である剣八と同じ更木出身だと聞いている。しかし警戒心は強いものの、一護はそこらの若者と何ら変わらない。いっそ無邪気で無防備なところさえあった。
 剣八は強い。だがそれは自分の力以外を信じていないからだ。己こそがすべて。
 しかし一護はどうだ。子供のように笑い家族を愛していると言う。
「俺はなぁ、一角。案外執念深いかもしんねえよ‥‥‥」
 呂律の怪しい言葉遣い。けれど見逃せない、何かがあった。
「更木で俺を後ろから刺した奴とかなぁ、今でも顔をはっきりと覚えてる」
 腰の辺りを擦りながら一護は笑っていた。子供のような無邪気な笑みで。
「あのときはびっくりして、怖くて、痛くて、とにかく最悪の気分だった。でもなあ、初めて俺を傷つけたそいつの顔を俺は忘れたことなんてねえ。だってそいつが、始まりだったんだから」
 ”おれ”と書かれた文字の上を一護の指が這う。乾ききっていない墨が指で引き延ばされ、”おれ”は醜く歪んでしまった。
「‥‥‥‥そいつとは、また会えたのか」
「あぁ、何年かしてばったり会った。そんで、殺した」
「そうか」
「うん」
 一護は笑う。酒に冒された体は筋肉が弛緩していて、その笑みもどこかうっとりと緩みきっていた。
「でもなあ、特に何も感じなかった。なんせ俺の初めての奴だ。殺せば何か変わるんじゃねえかって期待してたのに」
「変わらなかったのか」
「‥‥‥‥うん。気が晴れるんじゃないかって思ってたけどな、俺は相変わらず戦うのが好きだった」
 片腕を枕にして一護は眠そうな表情で一角を仰ぎ見た。
「そうだよ、俺は戦うのが好きだったんだ。死にたくねえって思ってんのに、それなのに、敵に囲まれるとゾクゾクした」
 無意識か、一護が上唇をゆっくりと舐めた。一瞬目に宿った狂気は一角の見間違いではない筈だ。剣八が見せる、戦いへの喜びと同じ目だ。
 しかしそのすぐ後、一護は空いていた腕で顔を隠してしまった。
「‥‥‥‥‥なんちゃって。全部、嘘だよ嘘。本気にしたか?」
 一角は黙って微動だにしなかった。けれど一拍置いて、一護の髪へと手を伸ばす。
「酔っぱらいが言ってることなんてほとんどが嘘だ。信じるわけねえだろバーカ」
 言って、オレンジ色の髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜてやった。四方に跳ねた髪を笑ってやると、唯一見える一護の唇もくっと吊り上がった。
 そして、震えた。
「‥‥‥‥‥なあっ、俺、今は違うんだ、本当に違うんだよ」
「あぁ」
「戦いなんて好きじゃない」
「あぁ」
「信じて、くれよっ、」
「信じてる。お前は臆病者だ」
 一護が見せたがらない顔を引き寄せて胸板に押し付けてやった。やがて湿り気が肌にも伝わってきて、それが一角をとても優しい気持ちにさせた。
「お前は十一番隊向きじゃねえな。お前みたいな奴は、こっちからお断りだ」
「ひでえ‥‥‥‥」
「戦うのは俺らに任せとけ。お前はゆっくりのんびり暮らしてろ」
「‥‥‥‥‥うん」
 節の目立った指で一護の髪を梳いてやると耳に掛けてやった。そのとき、耳から鎖骨にかけての首筋のラインがやけに一角の目についた。
 引き寄せられるように顔を寄せ、唇を押し当てる。今までこうしてきた女からは当然のように白粉の匂いが漂ってきたが、一護にそんなものはない。あるのは汗の匂いと酒の匂い。ちっとも色気のないそれに、しかしひどく興奮した。
「一護」
 名を呼んで、舌で味を確かめる。しょっぱさの中に、女の味を感じた。
「一角‥‥‥‥?」
 溜息のような一護の声音。そのまま座敷に押し倒し食べるように唇に吸いついた。
 一角が好きな女の唇はぽってりとした感じの甘いやつだ。そして一護の唇は小さくて、つまりは子供のそれだ。けれど柔らかくてとにかく可愛い。自分の薄くて一護に比べれば大きな唇がそれに合わさっていると思うと変な高揚感が沸き起こる。
 舌で子供のような唇を舐めただけで一護は体を固く強ばらせた。それが征服欲と庇護欲を掻き立てる。これからどうしようかと一瞬悩んだが、庇護欲がわずかに勝った。だから後はそっと、優しく唇を触れ合わせるだけにしてやった。
「いっかくぅ‥‥‥‥」
「泣くな。これ以上はしねえから」
「‥‥‥‥ん」
 しかしスン、と鼻をすすって目をこする一護に、一角は衝動的に唇を重ねていた。もうしないと言っていたのに、不意打ちのそれに一護は驚いて小さく悲鳴を上げた。
 そして両手で顔を覆い隠そうとする一護の手を引き剥がし、頬と鼻先、唇に何度も口付ける。その度にぴくぴくと反応する一護を体の下に敷き、こんなに可愛い奴だっただろうかと不思議に思った。
「可愛いな、お前」
 そう言ってやると一護は顔を真っ赤にさせて泣き出した。
「泣くなって。どうにかしたくなる」
 酒と涙と口付けで苦しくなった一護がけほけほと咳き込む。それでも一角は緩めるつもりはないらしく、顔を寄せ涙の味がする一護の唇をしばらく堪能した。








「ちゅっちゅちゅっちゅしてたくせに」
「見っ、てたのか!?」
「全部ね」
 茹でたタコのように首まで赤く染めた一角に対し、弓親はどこか意地悪げに微笑んでいた。
「君、趣味変わった? もっと女女したのが好きだったじゃないか」
「うるせーよ! 俺は別にあいつのことは」
 言いかけて黙ざるを得なかった。弓親がものすごい目で見てきたからだ。
「何? じゃあ好きでもないのにちゅーちゅータコかいな宜しく唇に吸いついたってわけ?」
「違っ」
「弄んだの? 男の本能とでも言うつもりかい、えぇ? ご立派ですこと!」
 ペチーン! と小気味よい音を立てて弓親はスキンヘッドを叩いてやった。それから見下すような冷たい目で一角を見据えた。
「一護泣いてたねえ。タコに吸いつかれちゃそりゃ泣くよねえ」
「タコタコ言うな!」
「まあ君が好きじゃないって言うんならそれでいいんじゃない? 一護のほうも君のことなんてタコの足先ほども想っちゃいないよ」
 っけ、と嘲るように弓親は笑ってやった。いつもの優雅な微笑みを投げ捨て荒んだ態度でいるのは怒っている証拠だ。
「阿散井とか檜佐木とかあと隊長とか? そこらへんがあの子の処女を奪っちゃうよ、ハッハーン!」
「ってえ!」
 形の良い指で弓親は一角の眉間の皺を弾く。それから耳をがしりと掴むと今度は至近距離で怒鳴ってやった。
「そうなる前にちゃんと気持ちを伝えろって言ってんだよこのチキン野郎!!」
「‥‥‥‥‥‥‥」
 付き合いの長い一角でさえもこんなに乱暴な口調の弓親を見たことがない。しばらく耳の痛みを忘れ、一角はぽかんと弓親を凝視した。
 弓親は汚い言葉を使った自分に自分で驚いていたようだが、気を取り直すようにこほんと咳払いした。
「僕はね、結構あの子が気に入ってるんだ」
 あれは原石だ。これからいくらでも変わっていける可能性を持っている。
 美しいものが好きな自分は、一護を色々といじっていきたいのだ。
「そして君になら任せてもいいと思ってる」
「何だよ、それ」
「うーん、兄気取り? 一護を見てると世話してやりたくなるのさ」
 幸せになってほしいと思う。弟が一人できた気分だった。
「あの子は凧だ。細い糸一本でもってるようなものだよ。糸が切れたらもう一度見つけ出すのは至難の業だ」
 普段の優美な物腰に戻った弓親は困ったように眉を寄せた。
「けどあともう少し。今は結構下りてきてるんじゃないかな」
 自慢の眉を指で玩んで、そっと最後の言葉を発した。
「あの子を地面に降ろしてあげるのが君だとすれば、‥‥‥‥僕はとても嬉しい」
 兄気取りというのは本当らしい。
 一角にも初めて見せる慈愛のこもった微笑みを浮かべ、弓親はよろしく頼むよと頭を下げた。


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