飼い猫のブルース
02
だから貴方はずるいというのだ。
「蘭」
柔らかな猫の体を腕に抱き、頬を寄せればにゃあと鳴く。
「お蘭」
「何やて?」
びっくりして一護は猫を離してしまった。猫は、蘭はたしっと華麗に地面へと着地すると不機嫌そうに一護を見上げて低く鳴いた。
「今、何て言うた?」
「お、お蘭、」
どうしてここに、と一護は戸惑う態度を隠せない。ここはギンの屋敷だからどこに行こうと主の勝手だ。だがここは一護の私室に面した裏庭で、綺麗に整えられた表庭に比べると殺風景だ。愛でるような花は無い。
「猫に、”らん”てつけたんか」
「は、い、」
「知っててか」
「‥‥‥‥?」
何のことか分からなくて、しかし咄嗟に首を横に振った。どうして訝る視線を投げかけられるのか。
「他のにしい、”らん”なんて」
にゃおん。
「らん、」
にゃおん。
自分の名を呼ばれて返事をするとは中々に賢い。
「けったいな奴やな」
自分の名と認識しているのなら仕方が無い。ギンはもう何も言わなかった。
「あの、何か、」
「あぁ。遣いにいってほしいんや」
渡された紙には刻み煙草やら料紙、墨などの日用品。中には遠くの店まで足を運ばなければ手に入らないものも。
すべてを買いそろえるには結構な時間と手間がかかりそうだった。
「あの、これは確か蔵に、」
「早よ行き」
「あ、はい‥‥‥、」
慌てて支度をすると一護は裏口から出て行った。
そして頭上にあった太陽が山の向こうへと消えていく時間帯、一護は重い荷物を抱えていた。
随分と時間がかかってしまった。蘭に昼餉を与えてから今は夕方。今頃しきりに鳴いていることだろう。
ギンが怒って放り出してやしないか気が気じゃない。一護は走って、ようやく屋敷が見えた頃。
「とっとと帰らんかい」
「やぁよ」
ギン以外の声に。
「猫ちゃーん、もっとお姉さんと遊びたいわよねー?」
「オバはんは帰ってメシの支度でもしとれ」
「あぁ? もっかい言ってみな!」
その美しい人は着物であるにもかかわらずギンを蹴り飛ばしていた。脚線美が丸見えだ。
「そんなに気に入ったんやったらそいつ連れて帰ってもええで」
「無理よ。一人暮らしだもの」
「餌置いときゃ勝手に食うやろ」
「駄目。家に一人にしちゃ、可哀想でしょ」
蘭へと頬ずりするその光景に、言葉に、一護はひどくみじめな気分になった。
「そうやって一人にしてちゃ懐かないのも当然ね」
「っさいわ。いつまでおるつもりや、乱菊」
あ。
そうか、そうだったのか。
一護は急にすべてを悟ってしまった。
「せっかく遊びに来てやったのに」
「嘘こけ。酒飲みに来ただけやろ。秘蔵酒、散々飲み散らかしてからに」
一護は踵を返す。
もう少ししてから、戻ることにしよう。
「酔っぱらっちゃったわ〜。泊めてくれてもいいんだけど」
「襲うで」
「あはははは!」
「もう嫌や、この酔っぱらい」
‥‥‥‥戻れないかもしれない。
それから月に数度、あまり意味の無い遣いを頼まれた。
おそらく、だ。あの美しい人が訪ねにきているに違いない。もしかしたら奥方になる人かもしれないと考えた。
にゃおん。
「蘭、」
他の名前にしろと言われたが、やはりこの名が一番似合う。
ギンが護廷へと行っている間は一護にとって自由な時間だ。ふらりと外出しては帰ってくる蘭の後を追って、今日は一護も一緒に散歩に出た。
蘭は賢い。ちらちらと一護のほうを振り返り、ときおりちゃんと着いてこいよと言わんばかりににゃあと鳴く。
その蘭が、突然走り出した。
「待て!」
しかし速い。その瞬発力に着いていけず、あっという間に距離を開けられた。
餌でも見つけたか。帰ってくるとは思うのだが、一護は辺りを見回し名を呼んだ。
にゃおん。
「‥‥‥‥あ、」
あの人だった。
蘭を抱いて、立っていた。
「この仔、”らん”ていうの?」
「えっと、‥‥‥‥‥はい、」
「そう。私は乱菊っていうのよ。似てるわね」
知ってる。
その人との距離は十歩程度。しかし、それ以上は進めない。
「もしかしてギンの知り合い?」
一護は首を横に振って否定した。なぜそうしたのかは分からない。だがそうするべきだと、体が勝手に反応していた。
「‥‥‥‥ときどき、その猫を見かけるので、」
「友達なのね」
「は、い」
家族か、もしくは仲間。
同じ飼い猫。
「その猫。生きてたんですか」
「修兵」
乱菊ばかりに目がいっていた一護は、もう一人いることに初めて気がついた。
「あいつが引き取るって言い出したときは絶対食べられるって皆で言ってたもんね」
知らない人間の前では一護は恐縮してしまう。相手が死神ならなおのこと。
目だたないように俯いて、じっと動かなかった。
「そいつは?」
「この仔の友達だって」
一人寂しげに立つ仲間を気遣ったのか、蘭が乱菊の腕から飛び降りて一護の元へと擦り寄ってきた。それが無性に嬉しくて、一護はすぐさま抱き上げた。
「なんか似てるわね、あんた達って」
他人からもそう見えるのか。悲しいのか、喜んでいいのか分からなくなって、一護は曖昧な笑みを浮かべた。
「猫の名前、”らん”ていうんだって」
「えぇっ、じゃ、市丸隊長が、」
「いや。あいつじゃないわね、きっと」
「じゃあ誰ですか」
「知らない」
「よりにもよって、”らん”‥‥‥‥」
修兵の視線が一護の腕の中にいる蘭に向けられた。蘭は名前を呼ばれるものだから、にゃおんと鳴いた。
「そもそもどうして猫が欲しいって言い出したんですか、あの人は」
「さあ? なんか気だてが良くて人懐っこい猫がいいだとか、色々と注文つけてたわね」
その割にギンには懐いていないと乱菊は笑って言った。
「私が思うによ? あれは絶対女が出来たと見た」
「頼まれて猫を?」
「しかも、しかもよ。あいつ自身は世話してないのよ。この間見に行ったらあの仔がにゃあにゃあ鳴いて食事強請ってたんだけどね、ギンってば何したと思う?」
「やかましいと罵倒した」
「それもしたわ。その後に煎餅でも食っとけって投げつけたのよ。猫がんなもん食べる訳無いっての」
今度蘭を家に残して外出するときは食事を用意しておこう。一護はそう考えて、二人の会話に聞き入っていた。
「つまり、あの家で女が猫の世話をしてるんじゃないかと」
「そうよ。一回目で怪しいと思って二回三回と探りを入れてみたんだけどね。あの狐、尻尾掴ませないったら」
無意識に、蘭を抱きしめる腕に力がこもる。
自分の存在を、知らせていない。
「よっぽど私達に見られたくないのね」
にゃおん!
「っあ!」
苦しくなった蘭が一護の腕から飛び出した。そのまま乱菊の腕へと舞い戻る。
「どうしたの?」
「調子悪いのか? 顔色悪いぞ」
喉が渇いて張り付いていた。返事が出来ずごくりと唾を呑み込めば、呑んだ代わりと言わんばかりに涙が零れ落ちた。
「おい、どうした」
「なんっ、でも、ありませ、」
しゃくり上げる腹筋を押さえつけてもあまり意味はない。漏れそうになる嗚咽にいけないと思い、咄嗟に両手で口を覆い耐えようとした。
にゃおん。
蘭の鳴き声がまるで労るようで、それに一層涙腺が緩む。
どうしてこんなにも泣きたいのかと、自分でも分からなかった。
「大丈夫か?」
慰めるように髪を撫でられ背中を擦られる。耳が痛くて言葉がよく聞き取れなかったが、こうして優しく接せられるのは初めてだった。
「‥‥‥‥‥すいません」
「いいんだ。もう平気か」
「はい」
涙を指で拭われて、それが気恥ずかしかった。ギン以外の男に触れられるのは、一護にとって不思議な感覚だった。
「お前、名前は」
「一護」
呼ばれて自然とそちらを向いてしまうのは猫の習性か。
「ギン!!」
乱菊が金切り声を上げたときにはもう、一護は地面に倒れ伏していた。
「立ち」
「ギンっ、あんた」
「口出し無用や。ボクの持ちもんどう扱おうが勝手やろ」
一護は。
「申し訳、ございません、」
よろよろと立つと着物の汚れを叩いて落とし、気丈にも顔を上げてギンを見据えた。
殴られたのは初めてだった。けれど妙に心は凪いでいた。
殴られた。自分は今殴られた。
それだけしか考えられない。
「なんやその目」
「いえ、」
地面に視線を落とせば蘭がいた。
励まされる。同時に、自分はやはり飼い猫なのだと改めて思う、諦めの心境。
「‥‥‥‥何も。御気分を害されたのなら、謝りま」
「なんで謝るのよ」
なんで。なんで?
飼い猫だからだ。生きるも死ぬも主人の気まぐれ一つ。
「謝る必要なんか無い。理由も無しに殴ったあんたこそ、謝るべきなんじゃないの?」
糾弾する乱菊に、しかしギンはけろりと笑ってみせた。
「分かってへんなあ。言うたやろ、ボクの持ちもんやって」
「なに、」
「雨の日に汚らしい恰好で死にかけてるところ、ボクが拾って助けてやったんや。御恩返しに何でもする言うから、屋敷に置いてやってるん。なあ、お乱。お前はボクが料紙破いただけでも、そうやっていちいち可哀想やて哀れに思うんか?」
「‥‥‥‥‥‥‥このっ」
「駄目だっ、」
振り上げたその拳に、一護は必死になって取りすがっていた。
「離しなさい、この野郎、ぶちのめす!」
「いけないっ、」
「なんでよ、庇うことなんかない、なんて、なんてひどい奴っ」
死神の力は強い。女と言えどもそれは大したものだった。それでもなんとか振り放されないよう一護はあらん限りの力で押しとどめていた。
「いいんだっ、」
「な、に、がっ」
「もう十分っ、」
慰められた。
そう小さな声で言って。
「ありがとうございます」
涙が浮かび頬は腫れ、それでも一護は笑みをつくった。
「あんた、」
ぎゅ、と腕に力を込め、それから一護は乱菊から離れていった。
ギンはもう屋敷へと歩き出している。その後を追えば、蘭が着いてきてくれた。
「行っちゃ駄目よ」
でも。
でも、他に行く場所なんて。
「駄目っ」
無かった。
「ボクが居らん間に悪さしよって」
前を歩いていた人が、気付けば立ち止まり横に並んでいた。
「触れさせよって」
髪を鷲掴みにされた。
「気に食わん」
引き寄せられて、唇を吸われる。殴られたときに噛んでしまったところ、特に狙って歯を立てられた。
しばらく好きに貪られて、それから乱暴に突き放された。
「けたクソ悪い」
先に歩き出したギンの背中を、一護はぼうっと見つめていた。
殴られた頬が熱い。
「なにぼさっと立っとる。早よしい」
「はい」
殴られた理由。
分からない。
でも、あんただって触れさせてたじゃないかと考えて。
「‥‥‥‥‥っ、」
頬の熱さが、目へと移った。