飼い猫のブルース
03
力尽きて倒れ込む。
泥水が口の中に入り込んできて、それでも起き上がることはできなかった。瞬きすら億劫で、雨の音も次第に遠ざかる。
寒さは感じない。頬にぶつかる雨がなぜかぬるま湯のように温かく感じられた。とても気持ちが良くなって、このまま目を瞑ればどうなるか、ぼやける思考で分かっていても一護はそれをやめられない。
「死ぬで、君」
雨がやんだと思ったら、代わりに声が降ってきた。
その声は冷たくもなければ温かくもない。けれど誰かに声を掛けられるのは本当に久しぶりのことで、一護はあと少しで閉じようとしていた瞼を最後の力で押し上げた。
「名前は?」
一護。
声にはならず、ただ微かに唇が開閉しただけだった。
次第に息を吸うこと吐くことにも疲れを感じ、一護はついに瞼を下ろそうとする。ひどく穏やかな気分だった。
「起き。ボクがまだ話してんのに、寝るやなんて失礼やろ」
横向きに倒れていたところ、蹴られて仰向けにされた。本当にこれが最後だ。一護は下りそうになる瞼を開き、見知らぬ男を睨みつけた。
邪魔をするな、寝かせてくれ。
声なき声でそう言って、一護は何の酔狂か自分に話しかける男を初めて視界に映した。
「汚い顔」
泥だらけだから仕方が無い。それにしても最後の最後でこんな男に絡まれるなんて自分はついていないと、できるものなら一護は溜息をつきたかった。
「なあ、助けたろか?」
何がそんなに面白いのか男はくすくす笑ってそう言ってきた。
「どないする?」
手を差し伸べられた。
それを取れというのか。取れば助けてくれる。本当に?
「ほら」
男の長い指がクイ、と動いて自分を誘う。
どこにそんな力が残っていたのか、持ち上がる己の手に一護は驚いた。そしてそのまま男の手に重なろうとする泥にまみれた己の手を、一護はまるで他人事のように眺めていた。
猫の体に指を這わせば、にゃあとは鳴かぬまでもそれに近い鳴き声を上げた。
肩に噛み付き太腿に爪を立てても文句も言わずに健気に耐える。どんなに手酷く扱っても逆らうどころか逃げもしない。従順で、可愛い猫。
今日はいつも以上に欲を刺激されて、玄関先だというのに構わず押し倒した。素肌に触れればそれは既に熱く、相手も自分を欲していたのだと解釈した。
愛撫もそこそこに膝裏を持ち上げて繋がる体勢に入る。猫は熱に浮かされたようにして、こちらを潤んだ瞳で見つめていた。そういえばまだ唇を合わせていない。
ーーーーにゃおん。
「‥‥‥‥何見とる。あっち行かんかい」
触れ合う寸前にもう一匹の猫が空気も読まずにやってきた。絡まり合う二人をじっと見つめ、もう一度鳴いた。
「失せ」
しかし蘭は言うことを聞かず、生意気な瞳を向けてくる。ギンはその瞳がどうにも嫌いだ。
自分を誰よりも知るあの幼馴染を否応にも思い出し、なんとも小憎たらしい。
「鼠でも追いかけとき」
しっしと手を振れば、蘭は一層煩く鳴き始めた。その鳴き声が怒った幼馴染の声と似通っていて、ギンの苛立ちは煽られる。気にせず行為を再開させてもよいが、幼馴染に見られているような気がしてそれはどうしても憚られた。
「もうえぇ」
てこでも動かない蘭にギンのほうが折れた。
本当に良く似ている。幼馴染に言い負かされた気分がしたが、それは都合良く無視してギンは押さえつけていたもう一人の猫の上から体をどけた。
「あとでボクの部屋に」
猫はくったりと床に体を横たえて、そして小さく頷いた。それを見てギンは満足し、蘭へと勝ち誇ったように笑いかけた。
朝目が覚めて、隣に誰もいないのは当たり前のことだった。
たとえ前日の夜に女と同衾していようがことが終われば帰していたし、傍にいたいのなんて言われた日には嫌悪感も露に追い出していた。
そして最近のこと、目が覚めれば自分の手は隣を無意識に探っている。
温かい肌に触れることもあればそうでないこともあった。眠りに落ちる瞬間、抱き枕のようにして抱えているのに、一護はまるで猫のように音も気配も感じさせずにするりと出て行ってしまう。
今頃は朝餉の支度でもしていることだろうと、ギンは寝返りを打って温もりの消えた空間へと体を寄せた。呼びに来れば布団の中へと引きずり込んで、もう一度抱いてしまおうとまだ眠気の残る頭の中で考えていた。
それから二度寝してしまって再び目が覚めたのは、幼馴染と似た名前を持つ猫がにゃあにゃあ煩く鳴くからだった。
「‥‥‥っさいなあ」
ときどき放り出してやりたくなる。鼠捕りに、という建前で飼ってもいいと承諾したが、ばくばく食べるだけでそれほど役には立っていない気がする。手頃な猫を副官に探させたがどうにも見誤ったようだ。
一護は何をしている。日の高さから見ていつもの朝餉の時間から一刻は過ぎていた。
寝間着のままギンは立ち上がり、煩い蘭を足で追い払うと文句を付けに台所へと向かった。
「一護」
しかしいない。
朝餉の用意は完璧で、居間には膳が並べられていた。ただ一護がいないだけで、それ以外はいつもの朝。
次に向かったのは一護の部屋。
「一護?」
がらんとした部屋は必要な物以外は何も置かれていなかった。自分の部屋よりも殺風景だ。何か趣味は無いのかと考えて、そこで初めて自分は一護のことを存外知らないことに気がついた。
そこに隠れていないと分かっていても、衣装棚を開けてみれば質素な着物が数着掛かっているだけだった。鏡台が無ければ当然化粧台も無い訳で、一護は自分の顔を見たことがあるのだろうかと考えた。
一護は何も欲しがらない。己を飾るもの、例えば着物や簪、紅でも何でもそのどれか一つ、どれでもいい、欲しいと強請られたならばギンは簡単に与えてやれる。
しかし一度もそんなことを言われた覚えは無かった。
「‥‥‥‥どこや」
殴ったことがあった。
しかし怒りのままに暴力を振るっても、一護は非難がましい視線一つよこさない。ただこちらを猫のように、感情を伺わせない瞳で見てくるだけだ。
「一護、」
視界の端で何かが光る。丁寧に折り畳まれた寝間着の上に、ちょこんと櫛が置かれていた。
手に取って見てみれば安物だとすぐに分かる。歯が何本か折れ、彫られた模様も薄くなっていた。それでもなお捨てずに持っているということは。
「‥‥‥‥‥‥」
知らず手に力がこもる。あと少しで砕け散るというところで。
ーーーーにゃおん。
力が抜ける。またアイツかと、苛立ちまぎれに舌を打った。
だが今はどうでもいい。一護がいない。そのことが沸々と怒りを煽って、とにかく見つけてどうにかしてやろうと屋敷中を探しまわった。
「一護!」
次第に声を荒げて名前を呼んだ。自分が呼べばどこからともなく現れて命令を聞いてくれる一護は、しかしどれほど呼んでも出てきはしない。
代わりに答えるかのように蘭が鳴くものだから、ギンはついに我慢が切れて、庭へと足を向けた。捕まえて痛い目に合わせてやれば、自分の胸も少しはすくだろう。
「黙らんかいっ、この」
罵る言葉は出なかった。
昔と同じ光景が、そこにはあった。
差し伸べた手に、その泥だらけの手が重なることは無かった。
「なんで」
寸前で下りた手は、力尽きたからではない。
一護の意志で下ろされたのだ。
「なんでや」
雨の中、横たわる襤褸切れにギンが声を掛けたのは、泥にまみれながらもかすかに見えたオレンジ色に興味を引かれたからだった。
泥だらけで顔の造作はよくは分からない。だが最初からそんなものには興味は無くて、ただこちらを睨みつけてくる茶色の目は気に入った。
助けてやろうかと手を差し伸べてやったが、真にそうするつもりはない。ただ希望をちらつかせてやってそうして手を振り払ってやれば、その目は絶望に一体どんな色へと変化するだろうかと悪戯心を刺激されただけのことだ。
しかし手は重ならなかった。
こちらが絶対的に有利である筈なのに、絶望感に打ちのめされたのは自分のほうだった。
誰かに手を握られていた。
昨日からふらふらする体や頭は幾分マシになっていて、自分の手を握っているのは誰だろうかと一護は目を開けて、そして目を疑った。
「‥‥‥‥‥‥‥」
自分が仕える主人が手を握って寝台に突っ伏していた。かすかに聞こえる寝息に、眠っているのだと知る。
なぜとかどうしてとかそんなことを考えて、落ち着けと周囲を見渡せば見知らぬ場所に増々落ち着いてなんていられなかった。
起き上がって部屋の外へと出ようとすれば、強い力で引き戻された。
「一護」
旦那様。
そう言おうとした唇はゆっくりと塞がれた。優しく重なるだけで、そして離れていった。
「一護」
この人は誰だろう。
顔は同じだが、仕草がまったく違う。声も、こんなに柔らかくて。そっと大事なことを口にするかのように、自分の名前を呼んだことなど無かった。
「気分は」
「え」
「苦しないか?」
額同士を合わせられ、鼓動が一度大きく跳ねた。
「どないや」
「だい、じょうぶです、」
居心地の悪さに一護は身を捩った。どうやらまだ夢の中らしい。
「体が辛いんやったら、そう言えばええのに」
黙って抱かれるなと叱られた。
手は握られたまま。ギンに一心に見つめられて、一護は訳が分からず視線から逃れるように目を瞑ってしまった。
「あかん。ボクを見るんや」
頬を撫でられ髪を梳かれ、猫にするかのように耳を優しく愛撫された。その仕草だけならまったくの別人だ。目を開いて知らない人間がそこにいても、一護はきっと驚かない。
「逃げたら許さん」
いつもの命令する口調。しかし声が切羽詰まって震えていた。
「でもボクを置いて先に死ぬんはもっと許さん」
握られた手に力がこもり、一護は思わず目を開けた。それと同時に落ちてくる唇。最初と同じように優しく触れ合う。いつもの強引な口付けが嘘のように、労る気持ちがそこにあると錯覚してしまいそうだった。
「一護、一護、」
「は、ぁ、待って、くださ、」
唇は優しいけれど、触れてくる手は性急だった。ここがどこかも知れないのに、このまま抱かれるのは抵抗があった。しかし拒絶なんて出来ない。したこともない。
「今欲しいんや」
熱い吐息で囁かれ、一護の体から力が抜けた。
上に覆いかぶさるギンが己の着流しの腰紐を解いたとき、一護も恥ずかしげに足を開いた。
「えぇ子や。うんと可愛がったる」
どうしてか、嬉しいと感じてしまった。
虚しいではなく、嬉しいと。
「一護」
腰を引き寄せられる。同時に手も握りしめられて、少しだけ安心した。
そして衝撃に耐えようと息を吐く、そのとき。
「ギンー、起きたらこの薬飲ませるようにって卯ノ花隊長、が、」
一護はギンの顔が間抜けなほどに固まる瞬間を初めて見た。
そして乱菊の顔が般若に変わる、そのすぐ後。
「‥‥‥‥‥‥さっさとその変なもん仕舞ってとっとと出てけ!!」
怒声が木霊した。
手を取ったのは一護ではなく、自分のほうだった。
見知らぬ人間に慈悲を乞うよりも、己一人で生きてきたという誇りを一護は取ったのだ。どちらが偉いとか正しいだとかはギンには分からない。ただ自分は選ばれなかった、それだけだ。
しかしひどく傷ついた。
今までのしっぺ返しをされて、自業自得と言えばそうだ。だがよりにもよってこんなみすぼらしい子供にそうされたのが許せなかった。当初は怒りが渦巻いて、散々に苛め抜いてやろうと思っていた。
けれど。
「一護」
この猫のような生き物は思った以上に可愛らしくて。
「一護」
優しくしてやりたかった。しかしその方法が分からない。
気付いてしまった。自分は誰かに、真の意味で優しくなれたことなど無い男なのだと。
「早よ起き」
自分はきっと与えることなどできやしない。
「早よ、帰ろ」
与えられるだけのつまらない男なのだ。
だから一護。
「こんなボクにはお前しか、おらんのや」
拾われたのは自分のほう。