獣化なお題

モドル

1.不思議な薬



 蝉の鳴く季節。
 護廷ではタチの悪い夏風邪が流行っていた。
「今日は三人欠勤かぁ」
 出欠を確認する木札がこれで十五枚伏せられた。一隊で平均十人程度の欠勤者が出ているらしく、全体では百名以上にも昇っているため、各隊は欠けた人員を埋めるべくいつも以上に働く羽目となっていた。
 加えて猛暑。夏バテ気味に普段以上の労働が重なって隊務の遅れは如何ともし難く、本日有給休暇の筈であった一護他数名の隊員が駆り出され、滞った書類と格闘していた。
「一護、気を付けるのだぞ。暑いからといって腹を出して寝てはならんからな」
「俺はガキか!」
「五十も生きておらぬくせに、充分子供ではないか」
「ロリ顔のお前に言われたくねえよ」
 書類を向いたまま言い合う二人、一護とルキア。
 一護は滴る汗を防ぐべく額に手拭を巻きつけ、いつもより乱雑に手を動かしていた。一方ルキアは手拭を体に巻き付けるなど女を捨てた行為だと反発していたのも最初だけ、今は首に巻きつけている。所用で訪れた白哉がその姿を目撃してひどいショックを受けていたが、本人は知らない。
「黒崎、この書類届けに行ってくれ」
「はぁい!!」
 十三番隊は猫の手も借りたいほどの忙しさ。書きかけの書類をルキアに託し、一護は隊舎を出ていった。

 一番隊から十一番隊、どの隊も通常以上の仕事に追われて声を掛けるのも躊躇われるような状態だった。書類を届けに来ましたと言っただけで睨みつけられ、そこに置いとけと指で示され後は放置。忙しさでいえば特に四番隊がひどかった。過労と夏バテで運び込まれる患者が後を絶たず、卯ノ花隊長が静かにキレていたほどだ。
 最後に十二番隊。ここで書類はすべて配り終わる。
 隣接する技局を見上げ、ここだけはこの忙しさとは無縁なんだろうなあと一護は恨めしく思った。
「あっれえ、一護サンだぁ」
「浦原隊長」
 間延びした声を掛けてきたのは十二番隊及び技局を統括する男、浦原喜助だった。このくそ暑いのに技局の仕事着を身につけて汗一つかかずにへらへら笑っていた。
「ボクに会いにきてくれたんスねえ」
「違う。書類を届けに来たんだ」
「それはご苦労様。どうです、お茶でもいかが?」
「忙しいから帰る。はい、書類」
「ツレないなあ」
「夏風邪が流行って欠勤者続出なんだよ。知ってるだろ」
「ええ、もちろん。夏風邪、がね」
 言い方に何か引っ掛かるものを感じたが、追求する時間が今は惜しい。早く戻ろうと踵を返す一護を、しかし浦原が腕を掴んで止めた。
「なに、急いでんだけど」
「これあげます」
 手の中に握らされたのは飴玉だった。じっと見下ろし、一護は口元をわずかに引き攣らせた。
「‥‥‥‥ありがと。後で食べる」
 技局の人間からものを受け取るな。
 死神なら誰もが知っている不文律である。特に一護はこの男のことを信用していなかった。
 後でこっそり土にでも埋めておこう。
 袖の中に仕舞うと、一護は今度こそ十三番隊へと走っていった。背後では浦原がこれ以上はないという笑みを浮かべていたとは知らずに。


2.微かな違和感



「あれ?」
 朝、くしゃみで目の覚めた一護はもしやと思った。あーあーあーと声を出してみて確信した。
「やっちまった‥‥」
 夏風邪。
 昨日、護廷を走り回って書類を配り、いつもより多くの人間と接したのが原因かもしれない。薬あったっけ、と戸棚を探るが、頭痛薬しか見つからなかった。
 しばし悩んでから、一護は寝間着を脱ぎ始めた。手早く死覇装に着替えると朝食もそこそこに長屋を出る。
 夏風邪といっても声が少し低いくらいで、悪寒も無ければ体もだるくない。これくらいで休んでいては皆に申し訳なくて、一護はいつも通り護廷に出仕した。
 早めに家を出た一護は十三番隊へと行かず、四番隊に寄った。早朝にもかかわらず、すでに多くの死神が動き回っている隊舎に足を踏み入れると、仲の良い隊員を捕まえ薬をねだった。
「できれば即効きくやつ!」
「はぁ、それはいいんですけど、診察を受けてください」
「そんな時間ねえって。な、花太郎、頼む!」
 手を握りしめて懇願すると、気の弱い友人は顔を真っ赤にさせながらこくこくと頷いてくれた。通りがかった第三席が「朝っぱらからイチャつくな」と毒を吐いていったが二人の耳には入らなかった。
 薬を受け取った一護はさっそくその場で飲み、まだほんのり赤い花太郎に礼を言って十三番隊に向かった。始業時間ギリギリで到着した一護は、汗を拭いつついつもの仕事部屋に駆け込んだ。
「遅いぞ、一護」
「ごめん」
「む、声が変だぞ。風邪をひいたのか」
「大したことねえって。さっき四番隊で薬飲んできたから大丈夫」
「無理はするなよ」
 尖った声が労るそれに変わったので、一護は唇をむずむずさせた。体温が上がった気がしたが、恥ずかしさからだろう。そう思って書類作業に取りかかった一護だったが、事態は昼頃に急変した。
「一護、寝るな」
 書類の上に突っ伏して動かない一護を咎めたルキアだったが、ふと訝しげに身を乗り出した。
「一護!」
 無理をするなとあれほど言ったのに。
 ルキアの声を遠くに聞きながら、一護の意識は薄れていった。


3.ふわふわもこもこ



 ケツが痛い。
「ぃいい痛い痛い痛い!!」
「一護さん!?」
「いってぇええ!!」
 飛び起きて最初に視界に入ったのは狼狽える花太郎だった。落ち着いてくださいと駆け寄ってくるが、このケツの痛さはどうしようもない。
 挙げ句の果てには尻だけ持ち上げるという女として、いや人間として致命的なポーズをとり、一護は痛みに悶え苦しんだ。
「い、一護さん、駄目です、そんな格好駄目ですよぉっ」
 両手で顔を覆いながら花太郎が言った。指の隙間が開いている気がしたがそんなこと今はどうでもいい。
 いっそう痛みに襲われ、一護はシーツを掻きむしった。そのとき、一護の尻の辺りがもこっと膨らんだ。
「もこ?」
 なんだ、もこって。
 いつの間にか痛みも消えていて、一護は恐る恐る尻に手をやった。
 そこにはたしかに寝間着を押し上げる、もこっ、としたものがついていた。
「‥‥‥‥‥花太郎」
「どっ、どうしたんですか!?」
「尻になんかついてる」
「え」
「なんだこれ、やばい、ちょっと見てくれ」
 中腰になって寝間着を捲り、下着をずらす一護。軽い気持ちだった。
「キャぁああああああ!」
 女の子そのものな甲高い悲鳴を上げて、花太郎は部屋を飛び出していった。
 残された一護は開け放たれたままの扉を見て、それから自身の尻を見下ろして目を疑った。
「だ、誰のいたずらだ、」
 と思ってしまったのも無理はない。
 だってそうだろう、もこもこの丸くて白い尻尾らしきものが生えた人間がこの世に存在するわけがないのだから。もしくは悪い夢だ、そうに違いない。
 一護は苦し紛れにそう考え、尻尾らしきものーーあくまで断定はしないーーに触れた。
「ふっ、ふわふわしてるっ」
 この感触は知っている。
 生きていた頃、小学校の飼育小屋で。
「うさぎの尻尾‥‥‥‥っ」
 に、そっくりだった。


4.外出できない



 それは一護の意思に従って上下左右にぴこぴこ揺れた。
「かわいぃ〜」
 高身長の勇音は見た目にそぐわず可愛いもの小さいものが大好きだった。特にふわふわでもこもこなものに目がなかった。
 それが今目の前で揺れている。思わず手で触れようとしたとき、
「はい、もうよろしいですよ」
 卯ノ花の診察が終わり、一護はふわふわのもこもこをさっと下着で隠してしまった。思わず「あぁ‥‥」と残念そうな声を漏らす。
「ありがとうございます。で、何なんですか、これ」
「尻尾です」
「‥‥‥‥‥人間に尻尾は生えないと思うんですけど」
「でも現に生えていらっしゃる」
「‥‥‥‥‥卯ノ花隊長、冷静ですね」
「えぇ、最近こういう症例が多いのですよ」
「この間なんか、十一番隊のゴリラみたいな隊員から猫耳が生えたんですよ! チンピラに猫耳なんて誰が喜ぶっていう話ですよね!!」
 主従揃って冗談好きときたか。
 一護は乾いた笑みを浮かべながらどこか遠い目をした。寝間着の下では尻尾がぷるっと震えて下がった気がした。間違いなく一護の意思と連動している。
 どうするんだ、これから。
 一護は頭を抱え込み低く唸った。明らかに膨らんだ尻で護廷に出仕できるわけがない。夏風邪といって誤摩化せるのはせいぜい一週間。その間にこれは治るのだろうか。
「黒崎君、耳は痛くありませんか?」
「え? 頭は痛いですけど、耳は特に痛くないです」
「そうですか。個人差はありますが、耳も尻尾も然程間隔を開けずに生えるようですので覚悟しておいてくださいね」
 見つめ返す一護に、卯ノ花はにっこりと笑った。冗談を言っている‥‥‥ようには見えなかった。
 むしろ彼女は怒っていた。
「表向きは夏風邪の流行と言っていますが、実際にはもっと事態は深刻です。風邪の初期症状が現れてその日のうちに意識が混濁、そして四番隊に運ばれてきた隊員たちの耳と臀部に異変が起こりました。えぇ、黒崎君、貴方と同じような異変が」
「じょ、冗談じゃ、ないんですよね‥‥‥?」
 卯ノ花は笑みを深めると、指折り数えて言った。
「猫に犬、中には何でしょう、あの縞々の尻尾は」
「アライグマだと思います、卯ノ花隊長」
「そう、アライグマ。本人は泣いていましたが、女性たちからは大人気で」
「もふもふなんですよ〜!」
 勇音が興奮気味に合の手を入れた。
 一護は放心状態だった。かろうじて理解できたのは、他にも仲間がいるということのみである。
「こんな真似をするのは技術開発局の連中に決まってますよ!」
 ぼんやりしていた一護ははっと目を見開いた。
 技術開発局。浦原喜助。
「でしょうね。けれど分からないのは、彼らはどうやってそれを成しえたかです。患者の話では、怪しい薬は決して口にしなかったと証言していますし」
「食事に混入するくらい、あの連中ならやりかねませんよ」
「だとしたら護廷中の人間に症状が現れていてもおかしくはないでしょう? 勇音も、私も」
 謎は深まるばかりである。
 そのときずっと黙っていた一護が立ち上がった。
「浦原の野郎!!」
 診察台から飛び降りた一護は扉に向かって猛進した。しかし内側から開ける前に、扉は外側から開け放たれた。勢い止まらず倒れ込む一護をがっしりとした腕が受けとめた。
「あ、すいません」
「いえいえ。貴方を助けることができて光栄です」
 支えた体を抱き込んで、浦原は言った。
 寸の間、診察室に沈黙が落ちる。
「あっれぇ? 一護サン、耳は? 尻尾は? まだ生えてないの?」
 そのとき浦原以外の誰もが思った。
 やっぱりお前のせいか、と。


5.感情の表現は



 四番隊隔離病棟。
 普段は入院患者の少ない建物だが、夏に入ってから俄に患者が増え始め、今では満室状態となっていた。
「うわ〜あの人のあれ、何ですか、タヌキ?」
「アライグマです」
「猫に犬にアライグマ‥‥‥この差は何だろう、遺伝子かなあ」
 患者たちを前に能天気なことを言う男の神経が信じられない。
 四番隊の面々は諸悪の根源に軽蔑の眼差しを送った。それに気付かないのか気にしてないのか、浦原は一人一人のカルテに見入っている。その顔は科学者のそれだ。
 事件は既に春先に起こっていた。
 毎年行われる予防接種。それに新薬を混ぜていたのだと浦原は悪びれもせずに言ってのけた。
「ただの薬じゃありませんよぅ。それにボクだって鬼じゃないです。無差別に動物にしちゃ可哀想だと思って、条件を設けたんです」
 その条件と言うのが風邪ウイルスである。浦原の開発した薬はそのウイルスに反応して症状を引き起こす仕組みになっていたのだ。
「それに夏風邪なんて馬鹿しかひかないって言うでしょ。だからいーかなーって」
「馬鹿は貴方です」
「そういえば一護サンの病室はどこです? ボク、一護サンに会いにきたんですけど」
 自分への非難はさらっと無視した浦原は、四番隊の隊員に促されてある一室にやってきた。扉を開ける前、うふふっ、と笑っているのが気持ち悪い。
「一護サーン!」
 ベッドには一護が横になっている筈だった。しかし白いそこはもぬけの殻。
 あれれと部屋を見渡すと、‥‥‥‥‥いた。
「一護サン、なんでそんな端っこにいるんですか」
 一護はベッドから対角線上になる部屋の角で、膝を抱えて座っていた。
「そんなの俺が知るかっ、でもなんか端っこ落ち着くんだよ!!」
 これも症状のひとつなのかもしれない。ベッドの上が妙に落ち着かなくて、ついでに物音に敏感になった。食事のし好も変わったと思う。今何が食べたいかと聞かれたら、一護は野菜だと答えている。
 違うんだ、本当はこってりしたものが食べたいんだ。なのに頭に浮かぶのは野菜とか果物とか。
 何より許せないのが、これだ。
「ほんとどーしてくれんだよ!」
 人間の耳があったところにはふわふわの耳。
 片方ずつ掴んで嘆く一護に、空気を読まない男は場違いな声を上げた。
「かっ、かっ、か〜わ〜い〜い〜!!」
 うさぎと言えばピンと立った耳を一護は想像していたが、自分の顔の両側から生えているそれは違う。ふっわふわの垂れ耳である。
「うさ耳超カワイイ! 尻尾もうさちゃんなんですよねっ、触ってもいいですか!?」
 了解を取る前に浦原の手は一護に伸びていた。

 がぶっ!

「イッター! な、何するんですか!?」
「いや、なんか目の前にあったから齧りたくなって‥‥」
 兎の本能。
 そのうち柱とか齧りだすんじゃないかと、一護は少し不安になった。


6.おひるね



 うさ耳うさ尻尾では護廷に行けない。
 仕方なく一護は隔離病棟で過ごす羽目となった。
「ーーーーうん、うん。ちょっと長く入院することになっちまったけど、大したことないって卯ノ花隊長も言ってるし、大丈夫だって」
 伝令神機の向こう側では、ルキアが心配そうな声で様子を知りたがっていた。見舞いに行きたいと何度も言われたが、姿を見られては困ることから、一護は風邪を移すと忍びないと断った。
「お前、仕事中だろ。もう切るからな。ーーーあ、それから風邪には気を付けろ! ぜってえ気を付けろ!!」
 最後にこれだけはしつこく言って、一護は通話を終了させた。
 はあっと深く溜息をつくと、切れ目を入れた着物から覗く尻尾がぴこぴこ揺れた。
 ここでは誰もが獣の特徴を曝け出している。一護の目の前では猫耳猫尻尾のおっさんが歩いていた。他にも多種多様の耳と尻尾をつけた死神たちが闊歩している。今ではもう見慣れた光景だ。
「って、慣れちゃいけねえだろっ、いかんいかん」
 頭を振って気を取り直すと、一護は芝生の上に寝転んだ。
 病棟に隣接された庭は広大で、よく手入れされている。最初にここを見たときは妙な感動を覚えてしまった。
 落ち着く。ものすっごく落ち着く。
 草の匂いが気持ち良い。優しい香りに包まれながら、一護はいつしか眠り込んでいた。
 寝入ってから四半刻ほどが経った頃。寝入る一護に覆い被さる影があった。
「一護」
 ふわふわの耳、もこもこの尻尾。
 影はそれらを見ると、口元をにぃっと吊り上げ舌なめずりした。
 そのとき一護の耳がぴくりと動く。影はすばやく身を乗り出すと、暴れられないよう一護の体を拘束した。
「誰だ!」
「俺だよ」
 至近距離で声を発し、息を呑む一護を見て影は笑った。尖った犬歯がちらりと見えた。
「修兵さん? なんでここに」
「見て分からねえか」
 少し距離をとった修兵は、いつもよりニヒルな笑みを浮かべていた。その顔の両側には三角形の尖った耳と、腰にはふさふさの尻尾が巻き付いていた。
「‥‥‥‥風邪ひいちゃったんだな」
 被害は確実に広がっているらしい。副隊長まで技局の餌食になるとは。
 浦原の奴め、と恨みを募らせる一護の頬を、突如として生暖かい感触が襲った。
「食いてえ」
「は?」
 ぽかんと見上げる一護の鼻に同じ感触。舌で舐められた。
「お前、すっげえ美味そう。食いてえ。食っていいよな」
「はぁ!?」
「いただきます」
 一護に抵抗する隙を与えず、修兵は首筋に噛み付いた。柔らかい肉に歯形が残るほど強く噛んで、それから舌で舐め上げる。突然のことに一護は目を見開いて小刻みに震え出した。まさに震える兎である。
「殺しゃしねえって」
 その声には優しさの欠片もなかった。獣の本能に引きずられている。一護がそうであったように、修兵もまた人間の理性を侵されているのだ。
「い、いやだっ、」
 逃げなきゃ。
 そう思うのに体が完全に竦んでしまって動けない。捕食者を目の前にして、兎の本能が勝てないと訴えている。
「修兵さん‥‥っ、」
 眦から溢れた涙が零れ落ちる。
 哀れ、兎は狼に食べられようとしていた。


7.電車の中で



 人ひとりが余裕で入られる檻の中。
 鉄格子を掴み、唸る男がいた。
「おいっ、副隊長の俺にこんな真似していいと思ってんのか!」
「性犯罪者に身分なんて必要ありません」
「未遂だろ! それにあのときはどうかしてたんだって! 薬のせいだよ薬のせい!」
「言い逃れは許しません。黒崎君がどれだけ怖かったか分かりますか!? ぷるぷる震えてすっごく可愛かったんですから! じゃないや、すっごく可哀想だったんですからね!」
 言い合う修兵と勇音とは別室で、一護は四番隊の友人に慰められていた。
「泣かないでください、一護さん。人参食べますか、あ、桃のほうがいいですか」
 あわや食べられそうになった一護は差し出されるがまま野菜や果物を食べていた。泣いたせいで目がまっ赤になっている。
 花太郎はそんな一護にきゅんと胸を高鳴らせながらも世話を焼いていた。
 可愛いです、一護さん。僕、兎飼おうかな。それで『いちご』って名前をつけるんです。キャー!
 乙女思考な花太郎の傍らで、一護は鼻を啜りながら延々と人参スティックを齧っていた。


8.撫でたらパタパタ



 犬だ。ワンコだ。
 恋次を見た瞬間、一護は思った。
「一護ぉ、俺‥‥‥」
 情けない、と恋次は顔を覆った。副隊長に二人目の犠牲者。今度はワンコ。
 へたれた耳、へたれた尻尾。
 思わず一護は尻尾のほうを握っていた。
「うぉおお!!」
「え、もしかして感じる?」
「か、感じるって、馬鹿、お前、」
「近所の犬は尻尾踏まれても全然怒んないから、神経通ってないのかなって。恋次、痛い?」
 尻尾を掴んで上目遣いに見上げてくる一護といえば、まさかのうさ耳。
 前からちょっと可愛いなあ、と思っていた恋次はみるみる顔を赤くさせた。
「お、お前のほうこそ、どうなんだよ」
「触ってみる?」
 くるっと背中を向けた一護の尻には、まさかまさかのうさ尻尾。丸くて白い、ぴこんと揺れて恋次を誘っている。
「あん!」
「わ、悪ぃ、痛かったかっ?」
 ぎゅっと握ってしまった恋次はうわずった声で謝った。心臓がバクバク鳴っている。
 あん、って言ったよな。やべえ、マジ可愛い。
 恋次の尻尾が心無しか膨らんだ。
「うわ、パタパタ振ってる」
「お、ぉお、」
「恋次、可愛い。ワンコだ」
 可愛いのはお前だ。
 言えたら二人の関係も少しは変わるだろうか。何がそんなに嬉しいのか喜ぶ一護をじっと見つめ、恋次は口を開けた。
 ーーーしかし言えなかった。なぜなら恋次は恋次だからだ。
「あれ、しゅーんってなった」
 もう何も言うな。
 恋次はちょっぴり泣いた。


9.お風呂でポロリ☆



 慣れというものは恐ろしいものである。
 朝目が覚めて耳と尻尾がうさぎでも、一護はもはや驚かなくなっていた。
「一護さん、お風呂から上がったらブラッシングしましょうね」
「いいって、そんなの」
「いけません! ちゃんとお手入れしなきゃ毛玉ができちゃうんですから」
「俺より恋次にやってやれよ」
「興味ありません」
 花太郎がちょっと怖い。
 取り敢えずブラッシングを了承し、一護は風呂に向かった。いくら一部兎になったとはいえ一護は人間である。毎日風呂に入りたいし、入ったとしても体調に影響は無かった。
 裸になって風呂場に入ると、他には誰も利用者はいなかった。庭で散歩する隊員も少なかったので、もしかしたら退院したのかもしれない。
 浦原発端のこの馬鹿みたいな症状、個人差はあるようだがどうやら一週間程度で元に戻るらしい。あくまで目安なので、いつ戻るかは正確には分からないと言われた。
 悩んでいてもしょうがない。ここは前向きに考えるんだ。
 今回、今まで話したことのなかった隊員と知り合えたし、同じ苦労を共有して友達になったりもした。退院した後も会おうと約束した何人かの死神を思い出し、一護は自然と頬を緩ませていた。
 ようは考え方なんだ。浦原のどアホは許せないが、貴重な体験ができたと思うことにしよう。
 よし、と気合いを入れて湯船から上がると、尻尾と耳をぷるぷるっと振って水気を飛ばす。すっかり慣れた動作だった。
 そのとき脱衣場へと続く扉が開く音がした。入ってくる気配に気付いて顔を上げた一護は絶句した。

「一護ちゃん、見ーっけ!」

 そこには狐が立っていた。
 ただし耳は人間で、尻尾もない。目だけが狐に似ている男はにこにこ笑ってこちらにやってくると。
「一護ちゃんてば、大胆やなぁ」
 悲鳴を上げる前に、一護は男に背を向けて座り込んだ。
 見られた、見られたっ、見られた!
「うわぁ、可愛い尻尾」
「来んな! な、なんであんたがここに、」
「それは噂を聞きまして」
 その噂というのがこうである。
 タチの悪い夏風邪というのは真っ赤な嘘。休んでいる連中は四番隊の隔離病棟に移され、実際は奇妙な病に冒されているのだという。その奇妙な病というのが、獣化であると囁かれていた。
 ‥‥‥それはもう噂レベルではなく事実だ。
 一護は顔を覆って泣きたくなった。この屈辱的な症状、当事者以外には誰にも話さず墓まで持っていきたいと思っていたのに。
「一護ちゃんが夏風邪で入院したって聞いて、ボク心配で心配で‥‥!」
 嘘だ。顔は見えないが分かる、こいつ絶対笑ってやがる。
「い、いいからもう出てけっ、噂を確かめられて満足だろ!」
 よりにもよってこの男に見られるなんて。
 間違いなく明日には護廷中に知られているに違いない。断言できる。こいつは浦原と同類、人が嫌がることが何よりも好きなのだ。
「ひっ!」
 風呂上がりの火照った肌に、ひたりと冷たい手が置かれた。
「隠さんといて。ボクと一護ちゃんの仲やないの」
 どんな仲だという台詞は恐怖で声にはならなかった。修兵さんのときといい、今のこの体は強者に対してあまりにも弱すぎる。
 それが一護には悔しくてならなかった。
「可愛い、震えてるんやね」
 細長い指が一護の小刻みに震える耳に触れた。びくんと体が揺れ、一護はますます抵抗する気が萎えていった。
 弱い兎。所詮は食べられるだけの存在なのか。
 ギンの手が前に回り、一護はぎゅうっと目を瞑った。

「そこまでだ」

 声と一緒にぼかっと鈍い音がして、後ろにいたギンが呻き声を上げた。
 後ろを見るのが怖い。そう思った一護の肩に、白い羽織が掛けられた。
「冷やすといけない。早く戻りなさい」
 白い羽織の持ち主はそっと離れると、今度は足下に転がっているギンを思いきり蹴飛ばした。
「なんやのっ、ボクの後を尾けとったん!?」
「悪さをしそうな顔でうろついていたからね。気になって後を追ったら案の定だ」
「いっつもいいとこで邪魔しくさって! しかも拳骨かますなんてひどい人やな!」
「中身の入ってない音がした。こんなことばかりやっているからだろうな」
 嘆かわしい。
 かつての上司はかつての部下に向かって溜息を零した。
「隊舎に戻るんだ。隊長が女性の風呂場を覗いた上に不埒を働こうとしたという不名誉な噂が流れる前にね」
「帰るんならお先にどうぞ。ボクは一護ちゃんと」
 もう一度ぼかっと同じ音がした。
 たしかに中身の詰まっていない音だった。


10.おやすみなさい



 十日目の朝、一護の体は完全に元に戻っていた。
 耳は人間、尻尾は消えた。以前の自分。
 それなのに一抹の寂しさを感じるということは、ちょっとはあの姿に愛着を感じていたからだろうか。
「花太郎、ありがとな。すっかり世話になっちまって」
「一護さん、また何かあったら僕に相談してくださいね。あと僕、兎飼うことにしましたから!」
「‥‥‥‥? そう、俺にも見せてくれよな」
「はい!」
 花太郎は号泣していた。いつでも会えるというのに、不思議な奴だ。
 結局、一護は護廷を一週間以上も休んでしまった。
 学校と同じで、なんだか顔を出しにくい。手みやげくらいは持っていくべきだろうかと考えたが、人数分用意するのは不可能だと思い直して、一護はいつも通り護廷に出仕することにした。
 仕事場に顔を出すと、同僚たちはいつも通りの態度で迎えてくれた。てっきり噂のせいでからかわれるんじゃないかと思っていたのだが、ただの杞憂だったようだ。
「おはよう」
 浮竹隊長が朝の挨拶にやってきた。部屋にいた全員が立ち上がり挨拶を返す。一護も同じように立ち上がり、浮竹隊長のほうを向いて、
「おはよう、黒崎。体はもう大丈夫なのか?」
 固まってしまった。
「‥‥‥‥‥浮竹隊長」
「なんだ?」
「耳の辺りから何かが生えてますけど」
「あぁ、可愛いだろう?」
 ‥‥‥‥たしかに可愛いのですが、明らかに人間のそれじゃないですよね。
 果たして口に出していいものかと迷いに迷い、一護は結局口を閉じた。
 浮竹隊長が可愛いだろうと自画自賛している白くて丸い小さな耳から視線を逸らしーーちなみに尻尾はよく金持ちのおばさんが首に巻いているようなボリュームのあるやつだったーーこれはきっと仮装か何かなんだと一護は思うことにした。悪夢は隔離病棟の中だけでいい。
 浮竹隊長が去った後、入れ替わるようにしてルキアがやってきた。一週間ぶりに見る親友の姿にホっとしたのもつかの間、一護はまたしても硬直した。
「もう体はいいのか、一護」
 ルキアは今日も美少女だった。しかし方向性がいつもと違う。
「お前の兄貴、そういう趣味だったのか」
「何を言っているのだお前は」
 髪の色と同じ猫耳、長くて優雅な猫尻尾。
 一部の男性に「萌え〜」と言われそうな外見で現れたルキアに、一護は驚愕を通り越して白哉の趣味を疑った。
「技局の悪戯だ。お前も被害者だっただろう」
「なんでそれをっ」
「知らんのか? 四番隊が事実を公表したのだ」
 このままでは人手不足で護廷は回らなくなる。そもそも獣化というふざけた症状を除けば通常勤務は問題無い。恥で死ぬわけでもないのだし、獣化だろうが何だろうがきりきり働けと総隊長から命令が下ったのだという
「慣れるとどうということもないぞ。まあときどき、正視に耐えられぬ輩もいるがな」
 今では獣化した隊員たちが瀞霊廷を闊歩しているという。

 今までの俺の苦悩っていったい‥‥‥!

 崩れ落ちる一護に、始業の鐘の音が降り注いだ。
モドル

お題はこちらからお借りしました

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