間夫を信じて何が悪い

  02  


「一護、すぐ戻るからなっ、だから帰んなよ! いいな!!」
 廊下に響き渡る怒鳴り声を上げた後、恋次は肩を怒らせて廊下の先へと消えていった。ギンは笑みを押し殺し、今まさに恋次が出てきた部屋へと近づいた。
 少し開いた襖の隙間から中を伺うと、目当ての人物は見当たらなかった。しかし確かに人の気配はしていたし、ギンは一度廊下を見渡して誰もいないことを確認すると、部屋の中へと身を滑らせた。
 室内は意外と綺麗に整えられていた。恋次の印象から言って雑然とした部屋を想像していたギンは、物色するかのように辺りへ視線を飛ばした。初めに目に入ったのは狸の人形だった。
 変わった趣味だ。他にも、なぜこんなものがというものが、そこかしこに並べられていた。
「恋次?」
 隣の部屋から襖越しに声がした。隣は寝室。恋次の怒っていた理由を察したギンは、御愁傷様と心の中でそう言って、ゆっくりと襖を開け放った。
「誰?」
「初めましてえ、恋次君の親友のギンですう」
 自分でもなんて嘘くさいとは思ったが、一護のほうは信じたらしい。初めましてと馬鹿正直に頭を下げてきた。
 ギンは人なつこい笑みを貼付けながらも恋次の間夫を観察した。歳の頃は十五かそこら。実際の年齢は知らないが、幼馴染の乱菊が言うには五十は越えていない筈だとのこと。
「なんか用ですか?」
「うん、恋次君がな、君の相手しとってくれってボクに頼んだんや」
 気安い感じで寝室に足を踏み入れると、布団の上に座っている一護の隣へと腰を下ろす。襦袢の上に恋次の派手な羽織を纏った一護は、自分たちと同じ遊君に見えた。
「残念やったなあ」
「‥‥‥っえ、えー‥‥っと」
「恥ずかしがらんでもええよ。お楽しみの最中やったんやろ?」
 一護の顔が引き攣った。耳の先が赤くなるのを見てとって、ギンは笑った。
「可愛いなあ」
「‥‥‥からかってるだろ」
「褒めてんねやで? 一護ちゃんみたいな間夫がおって、恋次君が羨ましいわ」
 本当はそんなこと、塵ほども思ってはいなかった。
 欲望蠢くこの遊廓で、真剣に想い想われているなんて笑わせる。そんなものは簡単に壊れることを先輩である自分が教えてやろうではないか。
「なあ、一護ちゃん」
 客を誑し込むのと同じ声で、淫らに一護へと囁きかけた。一護が息を呑んで体を引いたが、その距離を縮めるようにしてギンは身を乗り出した。
「恋次君はそんなにええか?」
「なんだよ、お前。恋次に頼まれたっての嘘だろ」
「っは、当たり前や。阿散井君には嫌われとるからなあ」
 顔を会わせただけで嫌な顔をされるほどだ。その嫌いな相手に間夫を奪われれば、恋次は一体どんな顔をするのだろう。
 ギンは長い腕を伸ばすと一護の膝に触れ、するりと撫でてやった。
「なあ、ボクと遊んでみいひん? たまには違う蝶々と戯れてみてもバチは当たらんで」
 一部の者から『蛇』と渾名されるギンが妖艶な笑みを浮かべて一護を追いつめる。相手は死神だが平隊員だと言うし、流魂街育ちのギンはそこらの死神に遅れをとるようなことはない。少し乱暴に組敷いて絡み合ってしまえば、あとは相手をその気にさせる自信が充分にあった。
「うんと優しゅうしたる、っわ!?」
「触るな」
 ひゅん、と空気を裂く音がした。本能で首を逸らしたが、次にはもう目の前に刀の切っ先が突きつけられていた。
「なにが蝶だ。蛾の間違いだろ」
「‥‥‥‥‥それは酷くない?」
「酷くない」
 おそらく斬魄刀。それを喉元へと突きつけながら、一護は出ていけと顎をしゃくった。
 その怒りの表情にギンは思わず見入ってしまった。ただの小娘だと思っていたが、今目の前にいる一護は戦士そのものだ。そもそもあの恋次が凡人に入れ込む筈が無いと思い当たった。
「なんで? 阿散井君には内緒にしとくで?」
「そういう問題じゃねえよ。お前のことが気に食わねえだけだ」
「傷つくなあ。ボクはこれでも阿散井君よりも稼いでんねやで?」
「知るかボケっ、とっとと出てけ!」
 刃が一層近づけられて、ギンは溜息をつくと潔くその場を去ることにした。しかし。
「‥‥っ!! てめえっ」
「ほなさいなら。今度は唇にでも、口付けたいものやね」
 すぐそこにあった一護の斬魄刀の刃へと唇を寄せて、ギンは部屋を出ていった。



 騒ぐ客の声や女の笑い声、聞きなれた喧噪の中をギンが歩いていれば、曲がり角で恋次と出くわした。
「ごきげんよう、阿散井君」
「‥‥‥どうも」
 先輩遊君に頭を下げて、恋次がすれ違うそのとき。
「一護ちゃん」
「なんですって?」
 その反応の良さに、ギンはくっくと笑った。
「可愛い子やねえ。口付けてみたら、冷たい唇しとったわ」
 正確には口付けの相手は斬魄刀だが、ちょっとの脚色は許してほしい。
 さあどんな顔をしてくれるだろう。期待を込めて恋次を見れば、意外にも落ち着き払った顔がそこにはあった。
「くだらねえ嘘吐かないでください」
「嘘とは限らんで?」
「嘘です。あいつが俺以外に唇を許すなんてこと、あり得ねえ」
 ギンの口から乾いた笑いが漏れた。
 なんだその自信は。しかし、言い返せなかった。
「それから」
「なんや」
「気安くあいつの名前を呼ばないでください」
「‥‥‥‥アホらし。早よ行き」
 しばし唖然としたが、それを隠して恋次にしっしと手を振った。言われなくとも恋次はすぐに去っていった。その足音が先ほどよりも荒くなっていたが、そんなものでギンの溜飲は少しも下がらなかった。
「アホらしい」
 こんなことなら無理矢理にでも口付けてしまえばよかった。
 珍しくムキになって、ギンはガリリと爪を噛んだ。

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