ひぐらし鳴いて、男も泣いた
「銀さーん。お客さんですよ」
「はぁ? 依頼主が来るのは明日だろ。それよか新八、あれとって」
「あれってどれですか」
「そことそこの間にあるあれだよ」
「分かりませんよ。熟年の夫婦じゃないんだから」
新八の冷めた視線に仕方なく銀時は立ち上がり、”あれ”を手に取った。
「オメー、俺があれって言ったらこれに決まってんだろ。いい加減覚えろよ」
銀時が手に取ったのは海苔の缶だ。その蓋をかぽっと外すと甘い香りが新八の鼻孔をくすぐった。
「あぁ、糖分ですか」
「糖分ですかじゃないよコノヤロー。そんなんじゃ銀さんの助手とかやってらんないよ」
「お給料をちゃんと頂けたらあれでもそれでも取ってみせるんですけどね」
「新八君、お客さんは?」
給料に言及されると銀時は決まって逃げる。まあ今さらだ、と新八は諦めて玄関で待たせている客を振り返った。
「すいませんでした、土方さん。どうぞ上がってください」
「‥‥‥‥‥マヨラー?」
糖分を口に含み、銀時は嫌そうな声を隠そうともしない。土方は仏頂面で坂田家の敷居を跨いだ。
「カブトムシの次は猫ですか」
「そよ様の大事な愛猫だ。不本意だがお前らにも協力してもらう」
「その上から物言う態度はなんですかね? 頼むんならその額、床に付けてもらいましょうか」
とんとんと床を足で踏みしめてやれば土方は吸おうとしていた煙草の箱を握り潰した。
「誰が土下座なんかするか!!」
「新八くぅーん。多串君お茶いらないってー。今すぐ帰るんだってー」
「えぇ? もうお茶にマヨネーズ入れちゃいましたよ」
今時流行のカフェみたく、お茶の上にはクリームのようにマヨネーズがとぐろを巻いていた。
「誰がこんなもん飲むかっ」
「銀さんがこうしろって、」
「飲めねーってんならマヨラーの称号は捨てるんだな」
訪ねて早々嫌がらせだ。いくらマヨネーズが好きとはいってもお茶にまで入れる趣味はない。
「それでー? その子猫ちゃんを見つけたらいくらくれんのよ?」
「報酬なんてあるか。滅私奉公に決まってんだろ」
「新八くぅーん。マヨネーズの上にケチャップかけちゃって」
「待て待て待て! 分かった、俺のポケットマネーから出す」
「そこまでして探さなきゃならないなんて、お役人も大変だねー」
へっと笑われて土方のこめかみに青筋が浮かんだが、それをぐっと我慢して、渋々「頼む」と声を振り絞った。
首根っこを掴まれた猫がにゃあと鳴く。
「ま、俺らにかかりゃあこんなもんよ」
「猫探しは私達にとっちゃ朝飯前ネ」
「その割りにはなんか僕らボロボロなんですけど」
獣道や狭い路地を通ったせいで万屋の三人は汚れていた。
「あーもー汗かいちまった。乳が痒くてしょうがねー」
「掻くんじゃねーよ! 来いっ、銀時!!」
「ちょっと、引っ張んないでよ多串君」
土方に腕を引っ張られて街の雑踏に消えていく銀時を見送り、神楽と新八は溜息をついた。
「あれで恋人同士だって言うんだからなー」
「男女の仲は歌舞伎町の路地よりも複雑ネ。それに惚れたが負けアルヨ」
報酬の酢昆布をしゃぶり、神楽が分かったようなことを言う。それを聞いて苦笑いしながらも、あれほど不思議なカップルはこの世に二組と存在しないのではないかと新八は思うのだ。
近くの宿に入り、風呂から上がった銀時は部屋へと戻る。そこには上着を脱いで、煙草を吹かしている恋人が胡座をかいて座っていた。
「ちょっと煙い」
「あぁ、悪いな」
障子を開けて新鮮な空気を取り入れる。水気を含んだ銀髪にタオルを乗せ、銀時は土方の隣に座った。
「引っ掻かれちまった」
手の甲についた猫の爪痕を土方の眼前にかざす。その手を無言で土方は握ると、煙草を灰皿に押し付けて唇を手の甲へ滑らせた。
「くすぐったい」
舌の感触に銀時は身を捩って逃げようとする。
「二人きりだと優しいのに。ツンデレかね、君」
「お前もな」
いつもの嫌味が抑えられ、甘えてくれる。
宿の浴衣を纏った今は、普段の男らしさは形を潜めていた。銀髪は薄暗い室内で輝くようにわずかな光を反射して、よく見れば顔の造作も悪くない。
これが昼間だと言動と行動で分かりにくくなるものだから、出会った当初は女だなんて知らずに肩を斬りつけてしまった。
「まだ気にしてんの?」
斬られた肩を浴衣の上から何度も撫でる土方を銀時は呆れたように目を瞬かせた。しかし土方は視線を合わせてそして何度目かになるのか分からない謝罪の言葉を口にした。
「すまん」
「いいよ。これくらい」
傷なんてこれだけじゃない。
そう言葉が続くのを土方は知っていた。だから言わせないように唇を塞ぎ、濡れた銀髪は優しい手つきで梳いてやった。
「俺のこと、こんなふうに優しく触んのはヅラくらいなもんだよ」
「俺とテロリストを同列に扱うんじゃねえ」
幼馴染だもの。そう言って銀時は笑った。
「それから辰馬って奴とかね。わしの子供産んでくれんかって真剣に言われたことあるんだよ、俺」
「昔の男の話とかするな」
「多串君の嫉妬する顔ほどソソられるもんはないよ」
離れた唇を今度は銀時の方から重ね合わせた。ぱくっと噛み付き、ぺろりと舐める。年上の余裕か、そのまま流れるような仕草で土方の首に巻かれたスカーフを解いてやった。
「お姉さんに全部任せなさい」
「言ってろ」
からかうような声音にむっと眉を寄せ銀時の体を引き寄せた。押し倒そうとすれば、しかし銀時がふざけて抱き合ったまま畳の上をごろごろと転がった。そうして体が止まれば下にいるのは自分で、してやられたと土方は不機嫌も露に舌打ちした。
「怒っちゃってカワイー。若さってのはそれだけで財産だよ」
「そんなに変わらねーだろうが」
「一歳二歳が大きな差なんだよ」
ベストのボタンを澱みの無い動作で外していき、銀時は猫のように目を細めてみせた。若い男はいい、そう言う銀時にクソババアと言い返してやればまたしても可愛いと言われてしまった。
「ね、多串君」
「土方だ」
くすくす笑って銀時は土方の頬を撫でた。
「いつか若くて良い娘と結婚しなよ?」
「‥‥‥‥‥‥‥っ」
その言葉に、気付けば土方は乱暴に銀時を突き放していた。
「あいたた‥‥‥‥。何? ドメスティックバイオレンス?」
「‥‥‥‥このっ、バカ女!」
きょとんとした顔でこちらを見てくる銀時に苛々が増長させられる。自分が今、どうして怒っているのかこの女は分かっていないのだ。
「どうして俺がお前を抱くのか知ってんのか? どうして、理由が無くても会いに来るのか、分かってねえのかよっ」
「んん? 今日は猫が」
「猫なんて知るか! お前に会いに行ったんだよっ」
「なんで」
「聞くな! 分かれよ!」
叫び、そして項垂れた。
銀時の想いが自分とどこかずれていると知っていた。知っていたのだけれど。
「ごめんね、多串君」
「謝んじゃねえよ‥‥‥、」
泣きたくなる。
気付かない振りをして付き合っていればいいだけの話だ。そうはできない自分の不器用さと子供っぽさを呪った。
「‥‥‥‥どうして分かってくれねえんだ。昔、そう言われたことがあるよ」
銀時の表情までは分からない。俯いた土方の耳には、その声は懐かしさとやるせなさが感じられた。二人しかいない部屋には外から蜩の鳴き声がかなかなと響いてくる。それが物悲しさを増長させて、しばらくどちらも言葉を発することが出来なかった。
「‥‥‥‥ねえ、結局俺は一人になっちゃったんだよ」
蜩の鳴き声が途切れる。それを合図に銀時がそっと言葉を発した。
「‥‥‥‥だから?」
「また一人になっちゃうかも」
「離したりしない」
銀時が小さく笑った。蔑みとかではなく、ふぅと吐き出された笑みにはどこか悲哀が混じっていたように感じたのは気のせいではない筈だ。
「銀さん、もう若くないんだよ。疲れるのはもう勘弁」
「バカヤロ、気合い入れてけ。年下と付き合うのはそれだけ体力使うんだぞ」
「‥‥‥‥そうだね」
俯く土方の視界に銀時の白い手が映り込んだ。それを握りしめ、顔を上げる。同じ高さにあった銀時の赤い瞳を至近距離で覗き込み、後頭部を引き寄せた。
「過去なんてもんは振り返って落ち込む為にあるんじゃねえんだ」
それでは何だと言うのだ。
銀時の赤い瞳がそう尋ねる。
「たいていの過去は後悔ばっかだ。そういうもんには唾でもかけとけ。生きてるのは今なんだって、開き直ってりゃいい」
「そうは言うけど」
「お前は今、俺の女だろ。昔の男思い出して、落ち込んでんじゃねえよ」
「別に」
「”悪いことした”って顔に書いてる。応えられなかったのがそんなに悪いことか? だったら俺は何だよ。俺もそうやって、お前の罪悪感の中に取り込まれるような男になるのか」
冗談じゃねえ。
吐き捨て勢いよく唇を重ねた。歯が当たり、がちりと音を立てる。その勢いのまま銀時を押し倒して浴衣を剥いだ。
「この傷は俺がつけたんだ。こうやって、愛でていいのは俺だけだ」
「‥‥‥っ、多串君、」
「名前」
「‥‥‥ん、十四郎、」
肩の傷を愛撫するように指でなぞる。他の傷には目もくれない。
消えないように爪を立て、そしてガリ、と噛み付いた。
「もっと、早く、出会ってりゃ良かったね‥‥‥」
「そうだな。もっと早く生まれてりゃ良かった」
そうすれば年上の自分が銀時を今よりもずっと優しく器用に包んでやれたのではないかと思うのだ。
疲れたと溜息をつくこの女を、腕を引っ張ってやるなり背負ってやるなりできたのかもしれない。今でもそうしたいけれど、年上だからと銀時は寄りかかるのを嫌うのだ。
「もっと早く、生まれてりゃあよ‥‥‥‥」
「‥‥‥‥どしたの、何で泣いてんの」
泣いてなどいない。
ただ目が熱いだけで。
「よしよし。銀さんが抱きしめといてやるからよぅ、だからうんと甘えちまいな」
裸の胸に抱き込まれ、何度も髪を撫でられた。
白い肌は冷たさを思わせるけれど、触れればとても暖かい。銀時の胸に顔を埋め、その温もりを求めるように頬を擦り寄せた。
「ああ、もうなんて可愛いんだろうね」
この上なく甘い声音で囁かれ、一層目が熱くなる。
侍が泣くとは何事だ。けれど羞恥なんてものは愛しい女の肌には勝らない。
「銀時」
「うん。もう少し、こうしてようね」
そう、勝らない。
何者も、自分でさえも勝てやしない。
銀時といて何度も感じる敗北感を噛み締めていれば、慰めるようにまた蜩が鳴いた。