ただ、貴方を想う
「脳、神経、‥‥‥伝達系に異常はありません」
淡々とした女性の声。耳から滑り込み、脳は理解した。
「ヨシ、目を開けるんだ」
別の声。
脳は理解し、筋肉へと指令を出す。
<動け、絶対者の命令だ>
指先がぴくりと反応する。一本二本、固い動きからそれは次第に滑らかなものへとなった。開いては閉じ、閉じては開く。掌を握りしめ、感触を確かめた。
そして命令通り目を開いた。ぼやける視界、二人の人物がこちらを注視していた。
「眼球を右へ」
命令通り、右を見た。
「左、上、下、正面」
真っすぐ見たそこには強い光が。円形の白いライトが自分を照らしていた。
ちかちかと視界を焦がすそれに普通の人間ならば目を逸らしてしまうところだが、真っすぐに見ろと命令されたのだ。逸らしてはいけない。
「視神経は正常のようです」
「では、立て」
膝を起こし、手をつく。上半身を起こそうとしたが、途端にガクリと崩れ落ちてしまった。
すぐさま舌を打つ音が聞こえてきて、胸の辺りがざわざわとした。絶対者が怒っている、うまく立ち上がらなくては。
体中の全神経を集中させて、筋肉をそろりと動かす。力が抜けないように細心の注意を払って上半身を起こした。少し勢いがつきすぎたため脳がぐらぐらとした。
手術台から片足を下ろす。ひやりとした床の感触に肌が泡立ったがそれを無視してもう片方の足も下ろした。支えていた両手を離しても大丈夫だろうか、だが悩んでいる時間などない。絶対者は立てと言ったのだ、この手を離し、両の足だけで立たなければならない。
両足にすべての力と神経を集中させて、両手を離し真っすぐに立った。
初めて立ったことで両足が震えていた。今にも崩れそうだったが、そんなことは許されないのだ。
「動きが遅いネ」
まただ、胸がざわつく。
どきどきと心臓の鼓動が早くなっていって、まさかどこかに異常があるのだろうかと心配になった。
「まあいい。ネム、服を着せて私のところへ連れてこい」
「はい、マユリ様」
マユリ。
それが絶対者の名前。
脳にその名を刻み付けた。何度も何度も。
「名前はどうなさいます」
「面倒くさいネ」
今度は心臓が鉛になったかのように重くなった。
「そうだネ、イチゴでいい。15体目にしての成功体だ」
どうでもよさげに名付けられたが、イチゴはそれでも嬉しかった。
マユリが自分につけてくれたのだ。
存在を生み出してくれた。
「マユリ、さま」
「フン、声帯がいまいちだ」
それはいけない。
イチゴは次に会うまでにうまく喋られるよう練習をしようと決めた。
この人に認めてほしい。褒めてほしい。
傍にいることを、許してほしかった。
「一護さん、こちらの死覇装に着替えてください」
「嫌です」
明らかに丈の短い死覇装の上を提示されて一護はすぐさま拒否の言葉を発した。
「アタシは局長ですよ」
「存じております」
「貴方の父親の上司です」
「残念なことに」
どうしてこんな男が技術開発局の長なのか。始終解剖やら怪しげな物体の発明やらをしている男よりも、自分の父のほうがずっと素晴らしい研究をしているのに。
「お姉さんとお揃いですよ。きっと似合いますって」
権力を盾に迫るのは諦めてやんわりと浦原は勧めてみた。
「マユリ様はこれでよいと仰っておりました」
一護が着ている死覇装は男性死神のものだった。目覚めた際、着替えさせるときにこれしかなかったらしい。それ以来ずっとこの死覇装を愛用している。
「それは『どうでもよい』の『よい』ですよ。ねえ、一回でいいですからこれを着てアタシに見せてくださいよぅ」
「女性死神協会発行『女子拾参之規範』、第三章十六項目によると<男性死神による度の超えた行動及び言動をされた場合、すみやかに幹部に報告すること。[補足]女性が精神的苦痛を感じた時点でそれは立派なセクハラ行為と見なされ、ただちに会長または副会長の制裁が下されます>浦原局長、それ以上の言動はこの項目に抵触します。事前に警告はしました。さあ、どうぞ」
それでも言えるものなら言ってみろと一護は不遜な態度で浦原を見つめた。
死覇装を手に、浦原はぴしりと固まっていた。
「一時的に欲求を満たすのと永久的に瀞霊廷を去るのとどちらがよいですか」
「そ、それは、」
この期に及んでまだ迷っている浦原に一護は呆れた視線を送ってやった。姉のネムよりも感情表現が豊かだと言われるが、一護としてはネムのように穏やかに構えていたいと思っていた。ネムの場合はマユリと一護以外にはあまり感情を見せないだけで、二人のときはよく微笑んでくれるのだが。
「お願いです、一回だけ! もちろん二人だけの秘密で、ね?」
「しつこい」
苛々としてきた一護の口調が次第に荒れてきた。丁寧な口調はマユリの好むものだったから、一護はできるだけそうしようと努めているのだが、浦原に始まって数ある隊長格の中には一護の神経を逆撫でしてくる輩が多い。そんな輩を相手にしていると一護の体温は上昇し、胸がむかむかとし、血流量も活発になってくるのだ。
「ご自分で着れば?」
敬語になりきれていない。
だが怒りで正常な判断の鈍った一護は気付きもせず、しつこく迫ってくる浦原を睨んでいた。
「こんなに頼んでいるのに着てくれないの?」
「着ません」
「涅さんが着ろって言ったら?」
「着ます」
「何ですかそれ!!」
贔屓だ贔屓だと喚く浦原を廃棄物細断機に放り込んでやりたいと一護は思った。
「マユリ様と浦原局長では比べるのも許しがたいですが、あえて言わせていただくなら‥‥‥‥とにかく比べるべくもありません」
「いい例えが思いつかなかったんですね。でもそういうところも可愛いです」
図星を指されて一護の顔が真っ赤に染まった。素直に感情が出てしまうは性格なのか、それとも神経伝達の構造上そうなっているのか一護には分からなかったが、冷静でいられない自分を一護は嫌っていた。
「と、とにかく、そんなもの、着ないっ」
落ち着け落ち着けと脳に訴えかけて一護はにやにやと笑う浦原をしっしっと追い払った。そういう子供っぽい仕草も、やった後で一護はいけないと後悔してすぐに手を引っ込めてしまった。
「可愛いなあ。今まで他人にはあまり興味はありませんでしたが、一護さんには興味ありありです」
マユリの生体開発を初めて褒めてやりたい。ネムの妹として作り出された一護の存在はとても義骸や義魂とは思えないほど精巧で自然だった。
ある日マユリの傍に現れた一護。人間らしくなっていく少女に、浦原は次第に心惹かれていったのだ。
「ねえ、ナカはどうなっているの?アタシに全部見せてくださいな」
無駄に瞬歩を使って接近してきた浦原に、顔をしかめて一護は仰け反った。
「来るな触るな見つめるな」
生まれたばかりの一護には浦原の言葉の本当の意味など分かりはしなかったが、嫌な予感がしまくって盛大に拒絶した。
「ちゃんと出来ているかアタシが確認してあげる」
耳元で囁かれて一護はぞわーと寒気がした。
「か、確認しなくてもマユリ様に抜かりはねえよ! この変態!!」
上司だろうが知るか。一護は遠慮なくぶん殴らせてもらった。
いい雰囲気に浸っていた浦原はあっけなく殴られて床へと沈む。
「うるさいヨ! 何騒いでいるんだ!!」
「マ、マユリ様!」
一護は咄嗟に浦原を見えないよう手術台の後ろに蹴り隠した。
何でもないというように背筋を伸ばしてマユリのほうを向き直った。
「浦原局長がご乱心なさって、でももう大丈夫です」
一護は不興を買わないか内心不安で仕方がなかった。これも浦原のせいだ、一護はぐりぐりと踏みつけて憂さを晴らした。
「あんなに大声で叫んでみっともない。私に恥をかかせるんじゃないヨ」
「‥‥‥‥ごめんなさい、マユリ様」
しゅーんと萎んでしまった一護にマユリはふんと息を吐くと踵を返して部屋を出ていってしまった。
「ああっ、マユリ様! これから実験ですよね!? 俺も手伝います!」
慌てて追いかける際に浦原を踏んづけておくのを忘れなかった。
「最悪最悪最悪! マユリ様に怒られた!!」
一護はネムにしがみついて散々浦原への恨み言を吐いた。
「でもその後に実験の手伝いをやらせてもらえたのでしょう?」
「そうだけど、口数が少なかった。きっと怒ってるんだ」
仲の良い姉妹は揃って父親が好きだった。それがたとえ鬼畜で血も涙もない改造人間だったとしても。
「胸が痛い。どうしよう、壊れたかも」
「違います。悲しくてそうなっているのです」
明るいオレンジ色を撫でてやって、心配はないと慰めてやる。
まだ自分の生体についてすべてを理解していない一護にネムは優しく諭すように言葉を紡いだ。
「マユリ様がそうなるようお作りになられたのです。だから少しもおかしなことではないのですよ」
妹ができてからの自分は感情を乱されることが多くなった。そしてそれ以上に温かい気持ちになることも増えていった。
愛しい、というのだと教えてくれたのは誰だっただろうか。
「ネム」
「なんです?」
こんなに優しい声を出せるなんて自分でも知らなかった。
進化している、そう思うほどに自身の変化にネムは気付いていた。
「どうしてマユリ様は俺達を作ったんだろう」
「‥‥‥‥分かりません」
マユリの持つ技術力の結晶が自分たちなのだろう。意味など無い。
ただ、作られただけなのだ。
しかしそのことを一護に言ってはいけない気がして、ネムは言葉を濁した。
「でも、人間もおなじなのです。どうして生まれてきたかなんて知っている人間はいません」
ずるい答えだと思ったが、一護はどうやらそれで納得してくれたらしく、ネムはほっとした。
「マユリ様のお役に立ちたい。俺、それが作られた理由だったらいいって思うんだ」
「‥‥‥そうですね。私もそう思います」
何も知らない一護が哀れでならない。
抱きしめてやりたいと脳が判断する前に、先に動いた体が一護を抱きしめていた。