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  涙の海でもがく魚よ  

 痛かったけど我慢した。
「見苦しいネ」
 じくじくと痛む胸。怪我のせいではない、一護はネムの言っていた『悲しい』を思い出し、途端に悲しくなった。 
「だが及第点をやってもいい。よくやった」
 嬉しい。褒められた。  
 『悲しい』がどこかへ行き、胸がふっと軽くなった。
 呼吸は荒いままだったが、一護はそれでもなんとか笑みを浮かべた。
「ま、まゆり、さま、」
「次はもっとうまくやるんだヨ」
「は、はいっ、」
 喋ったせいで口から一層血が溢れた。それを見て不快そうに目を眇めるとマユリは研究室を後にした。
 残された一護は怪我の手当をされている間、幸せそうに微笑んでいた。何度も何度もマユリの台詞を頭の中で繰り返す。忘れないように脳の記憶中枢へと刻み付けた。
 それを見て、阿近は小さく唇を噛んだ。




 初めての虚の討伐任務。
 一護は小型の観察機が上空に羽ばたいているのを確認して、気を引き締めた。通例なら熟練の死神が一緒になって行う初任務に、一護は一人で臨むのだ。
 十二番隊の所属となっているが、一護は技術開発局の所有物だ。管理しているのはマユリ。
 ゆえにこれは実際には死神の任務ではなく、性能実験だった。一護自身それを承知しているし、マユリからもそう言われていた。だから失敗は許されない。虚だろうと何だろうと、倒す。無様な戦いを見せればマユリはきっとがっかりするし、一護を役立たずと見なしてしまう。
 それは嫌だ。マユリのためなら死んでもいいが、役立たずと言われて捨てられるほうが嫌だった。
 人は悲しみで死ねると聞いたが、人に限りなく近い自分もそうなれば死ぬのだろうか。正確には壊れるのだが。
 機能停止。その言葉にまた胸が痛んだ。
 役に立ちたい。
 それが存在理由で、唯一胸が熱を感じるとき。
「だから、邪魔するな」
 現れた虚に、一護は懇願にも似た声を発した。
 そして斬魄刀を抜きはらう。いまだ名は聞けていない。だがそんなことはどうでもよかった。
 大事なのは自分の性能だ。
「‥‥マユリ様、」
 虚に感じる恐怖感よりも失敗することへの恐怖感で、一護は縋るように父の名を呼んだ。
 失敗したくない。
 成功したら、うまくできれば褒めてくれるだろうか。
 そのときのことを想像すると一護の胸が温かくなった。やれる、そう思って斬魄刀を握る手に力を込めた。
 そんな一護を嘲るように、虚は嗤っていた。




「起きましたか?」
「ネム」
 労るような声に、姉のネムだとすぐに分かった。起き上がろうとして、それができなくて首を傾げる。
「回復期間を知りたいそうです。怪我の治療に鬼道は使っていません」
「ふうん」
 ではすぐに怪我を治さなければいけない。治れ治れと暗示をかけて、回復能力が上がらないかと無駄な努力をしてみた。
 ネムも作られたばかりのときは同じ経験をした。目の前の一護のようにさして気に障りはしなかったが、今こうして一護がそれをされているのを見ると俯かずにはいられなかった。力のこもった両手が見えて、やはり自分は変わったと思った。
「何か欲しいものはありますか」
「ない。でも、外に出たい」
「まだ顔色が悪いです。明日にしましょう、ね?」
 優しく頭を撫でてやるが、一護はそれでも不満そうだった。
「ここにいると寝ちまうんだ。嫌な夢を見る」
 自分を嘲笑う虚の夢。
 何がそんなにおかしい。なぜこんなにも胸が痛くなる。
「夢、」
「ネムは夢を?」
「ええ、見ます」
 だが嫌な夢ではない。出てくるのは一護と、時折マユリも。現実のように残酷ではなく、ただただ優しい夢を見るのだ。一護もそうであればいいと思う、もしくは夢など見なければいいのに。
「もう少し良くなってから一緒に外に行きましょう。私が傍にいて、手を握っています。恐い夢など見ませんよ」
 小さな子供にするように話しかけて、ネムは手を握った。自分とそう変わらない大きさの手。だが中に流れているのはずっと幼い血と想いだ。
「おやすみなさい、小さな一護」




 もう少ししたら、そう言われても中々外出を許されなかった一護はついに一人で外へと出た。傷へと障らないように、幸い足には怪我をしていなかったので、一護はそろりそろりと歩みを進めた。
 外は温かかった。そしてにおいも変化しているように感じられた。
 一護が作り出されたのは初夏だった。その頃はまだ物を知らなかったため、段々と暑くなるのは自分の体温調節機能が壊れてしまったのだと思っていた。
 そして気温は下がり、秋と呼ばれる季節になったとき、この秋が一護は一番好きになった。まだ夏と秋しか知らないくせに、そう言って阿近に笑われたのを思い出す。今は冬だがそれは好きにはなれず、雪は興味深かったが寒さが増すだけなので見るだけでよかった。
 その冬もやがて終わりを告げるという。
「春って、どんなだろ」
 花が一斉に咲くらしいがその分虫も増えそうだ。そう思うと春はそれほどいい季節ではないかもしれない。
「一護」
 ネムに見つかった。そう思って一護は咄嗟に謝ろうとしたが、振り返ってそこにいたのはネムではなかった。
「日番谷隊長」
 相変わらず小さい。だが以前そう言って怒られたので、一護は余計なことは言わなかった。本音と建前、それを覚えろと誰かに言われたが一護はいまいちよく分からなかった。
「怪我、大丈夫か?」
「はい」
 振り返った一護の顔は半分が綿とガーゼで覆われていた。手と肩にも怪我を負っていたがそれは着物に隠されていて見えなかった。
 冬獅郎は何か痛いものでも見るかのように、表情を歪ませて一護を見た。
 一護にはなぜそんなふうに見られるのか分からない。冬獅郎だけではなく、他の死神、ときにはネムまでもが自分をそんな顔で見てくるのだ。
「俺、どこか変ですか」
 そんなにおかしい格好をしているだろうか。今は死覇装ではない、変な着物でも着てしまっただろうかと一護は己の姿を見下ろした。
「いや、そうじゃないんだ」
「そうですか」
 疑問に思わない一護はあっさりと納得した。追求もしない、そんな気もない、冬獅郎はそれが悲しいと思った。
「初任務、成功したんだってな」
「はい。マユリ様も褒めてくださいました」
 そこで初めて一護は笑った。自分に向けられたものではなかったが、それでもこちらまで嬉しくなる、そんなはにかむような一護の笑みに冬獅郎も笑みを浮かべた。
「虚、初めて見たんだろ。恐くなかったか?」
「いいえ」
 虚など恐くはなかった。それよりも恐いものがあったからだ。
 一護はそれを思い出し、表情を曇らせた。
「どうした、傷が痛むのか?四番隊に」
「いいえ!いいえ、違うんです、俺は、痛いのは、」
 痛いのは胸だ。不安が胸をかき乱しているのだが、一護にはそれが分からない。
 開いて見てみれば何か不備がある筈だ。マユリの技術のせいではなく、きっと自分が何かへまをしでかして壊してしまったのだ。
「‥‥どうしよう」
「一護?おい、」
 様子のおかしい一護に駆け寄って冬獅郎は心配したようにその顔を覗き込んだ。
 その瞬間、ぽつりと雨が頬を打った。
「あ、」
 一護は歪んだ視界に驚いて目を瞑った。目が痛い。
「あ、あ、どうしよう、目がっ、」
 指で恐る恐る触れてみるとそこは濡れていた。ひっ、と悲鳴を上げる。
「目、目が、体液が、漏れてるっ、どうしようっ、」
「落ち着け!」
 涙など流したことが無いのだ。それに気が付いて冬獅郎は必死に一護を落ち着かせようとするが、混乱した一護にはその声は届きはしない。
「どうしよう、壊れたっ、」
 マユリに叱られる。虚と戦った際に毒液を浴びたのだが視神経やその周辺に異常はなかった筈だ。阿近もそう言っていたし、ネムもすぐに良くなると頭を撫でてくれた。
「違う、壊れたんじゃ」
 その言葉を言いかけて冬獅郎は口を噤ませた。そして自分に吐き気がした。
「涙と言うんだ。お前は今泣いているんだ」
 一護は義骸と義魂技術の結晶だと聞いた。それでも何ら人間と変わらぬ姿に、冬獅郎は人間として認識していた。それなのに、壊れたんじゃないと言うなんて。
「なみだ、」
「そうだ。誰だって一度は流す」
「マユリ様も?」
「‥‥ああ」
 あの冷血漢が涙を流すとは思えなかったが、冬獅郎は安心させるためにそう肯定した。
 それを聞いた一護は安心したのかほっと息をはいた。それでも止まらない涙に動揺していると、冬獅郎が死覇装の袖で拭いてくれた。
「ありがとうございます」
「いいんだ。落ち着いたか?」
「はい」
 涙は拭うものだと知らない一護ははらはらと涙を流していた。死覇装で拭うのにも限界がある。冬獅郎はとりあえず十番隊へと連れて行った。




「虚が俺を嗤うんです」
 ぽつぽつと夢の内容を語り出した一護の目からはもう涙は零れはしなかった。そのかわり、不安と恐怖と悲しみが渦巻いていたが、それらを理解できる領域に一護はまだ達してはいない。
「何度倒しても虚は起き上がってきて、そして俺に向かってこう言うんです」

『出来損ない』

「虚を倒せない俺は出来損ないで、そんな俺は、マユリ様に捨てられてしまう」
 そうなれば終わりだ。自分は一体どうやって生きていくというのだろう。
「捨てられるくらいなら、俺は虚に壊されたほうがいい。惨めに敗北してマユリ様のところに戻るよりも、そうして終わってしまえれば、きっと胸は痛くならなくて済むんです」
 今は昼で、温かい陽光が窓を通り一護のオレンジ色の髪を照らしていた。光り輝く髪や肌、その生命力溢れる姿に、言葉はまるで死んでいた。
 乱菊は見ていられなくなって目を逸らす。冬獅郎は一度強く目を閉じ、再び開けて一護を見据えてた。
「死んだらそれで終わりだろ。それよりも生きて、いつかは、って思わないのか」
「死ぬ、壊れることよりも、ひどいことはあるんです」
 まるで老いた人間の言葉のようで、冬獅郎ははっと目を見張った。
「俺は捨てられたくない。あの方に見放されることは、死よりもつらいことなんです」
 想像するだけでも胸が痛い。もし捨てられることになれば、この胸は完全に壊れてしまうだろう。
 壊れた自分を見て、マユリの胸も痛むのだろうか。
「涅は、お前ほど想っちゃいないかもしれない。お前がいなくなっても何とも思わないかもしれない。それでもいいのか」
「日番谷隊長!」
 あんまりな言葉に乱菊が非難の声を上げた。
 だが冬獅郎は真っすぐに一護を見て、その答えを待った。
「? ‥‥‥それだと、何かいけないんですか?」
 心底分からない、そんな声を出した一護に二人は息を呑んだ。
「俺がマユリ様を想っているのは勝手なことなのに、同じものをマユリ様に想っていただくのはこの身に余るものです。俺はただ傍にいて、お役に立ちたいだけなんだから」
「‥‥‥報われないっ、」
 まるで報われない片思いだ。
 無償の愛とでも言うのか。
「そんなもの、クソくらえだっ」
 そうして与えられず生きていくことなど自分には考えられない。想えば同じように想い返してほしい、そう考えるのは傲慢か、青臭いガキの言い分か。せめて叶わずとも、そう考えることだけは許される筈だ。
「馬鹿な男の戯言だと忘れてもいいっ、けど、今だけはちゃんと聞くんだ」
 座った一護の前に立つと冬獅郎はその両肩を掴んだ。途端に顔をしかめた一護に、怪我をしているのだと分かったがそのままにした。生きている、肩の痛みも温かさもその証拠なのだ、人間と何が違う。
「俺はお前を想ってる‥‥‥!」
 その告白に驚いたのは乱菊だった。
 一護はきょとんとした顔で、意味が理解できていない。
「想う?俺がマユリ様を想うように?日番谷隊長は、俺に捨てられたくないのですか」
 だが自分は冬獅郎を所有している訳ではない。
「そうじゃない。お前の傍にいたい、役に立ちたい、守りたいんだ」
 怪我をしてないほうの顔半分を一護は優しく撫でられた。ネム以外には、ときおり浦原や阿近がそうして触れてくる。そうされると訳の分からない『悲しい』に似たものが沸き上がってきて、胸が違う意味で痛くなるのだ。
「どうして、」
「意味なんて無い。ただそうしたいんだ」
「俺は、」
 自分はどうなのだろう。マユリを想うのに意味はあるのだろうか。
 作ってくれたから?捨てられたくないから?だからそうして想うのか。それは何かが違う、誰かが一護にそう囁いた。
「想いは報われてほしいと思う。返してほしいと願う。お前のように、ただ想うだけじゃ俺は駄目なんだ」
「想いを、返してほしいと?」
「‥‥‥そう、思ってしまうんだ」
 冬獅郎の消えゆく声に一護は胸を揺さぶられた。
 自分は、マユリに想いを返してもらわなくてもいい。でも、本当にそうなのだろうか。
 誤摩化しているだけだ、また誰かがそう囁いた気がした。
「想いを返すには、返されるには、どうしたらいいんでしょうか‥‥‥、」
 途方に暮れたような声だった。
 一護は何も持たないまま知らない場所に放り出されたような、そんなどうしようもない心地がした。
「ああ、ごめんなさい、日番谷隊長。‥‥‥俺、きっとそういうふうには、作られてない」
 胸が痛い。頭も殴られたようにぐらぐらとした。
 何かとんでもない間違いを見つけてしまった、そんな気がして一護は頭を抱え体を丸めてしまった。
「想いは、返せないし、返されることもないんだ」
 それが、それが。
「それが、『悲しい』。‥‥‥ああ、だから、人は泣くのか」
 ひとつ理解した。
 悲しい事実。
 知ってしまい、一護の目から涙が零れた。




「‥‥‥二週間。まあ、こんなものかネ」
 すべての包帯やガーゼを取られた一護は自分の体を見回すマユリをぼんやりと眺めた。そして手を掴まれ指を調べられているとき、そっとマユリの手を握った。
「何をしているんだ」
「‥‥‥いえ、」
 意味など無い。
 握りたかっただけで。そうしたかっただけで。
「無駄な行動をするな」
「申し訳ありません」
 握り返してほしかった。
「マユリ様」
「なんだ」
 こうして自分の呼びかけに答えてくれる。それだけでこの胸は暖かい。これ以上を望んではならないのだ、そう思うのに、脳とは別に唇は別の感情を紡ぎだす。
「俺、泣いたんです」
「ホウ」
 新しい感情の発露か。脳が成長したのかとマユリは興味を引かれたように声を発した。
「どうしてだと思いますか」
「知らないヨ」
「マユリ様にもご存知でないことが?」
「知る必要も無いネ。無駄だ」
「無駄‥‥、」
 手を握ったように、握り返してほしいと思ったように、涙は無駄だというのか。
「お前は最近そうした無駄な言動が多い。まったく、わずらわしい」
 今度は一護も謝ることはできなかった。俯き、無言を通す。
 やがてマユリは去り、一護はひとり残された。
 褒められたい。撫でてほしい。
 それ以上に、想われたい。
「貴方を想って泣いたのです、マユリ様」
 今も、想う涙が頬を伝った。




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