眼鏡祭
03 参りました
在学中の護廷入隊決定。
その知らせを片手に浮竹と京楽は意気揚々と学長室を出た。
「もうすぐ卒業かあ」
死神に。と言われてもいまいちぴんと来なかった。
着る服が変わるだけだ。
「責任感とか、心構えとか。そういうものは無いのかお前は」
浮竹はきりりとした表情で京楽を睨むと、毅然と顔を上げて歩を進める。しかしある人物に目が止まった瞬間、その表情はだらしなく崩れ去った。
「一、」
その隣に誰かいた。
「誰だろ、あれ」
教師でも生徒でもない、ましてや死神でも。普通の着流しに羽織を纏った壮年の男と、付き従うように背後に二人。会話の内容は聞こえてこないが、一護は真剣な表情で何度か頷いていた。
「っあ、肩に触れた」
一護と主に会話をしていた男が親しい様子で一護の肩を何度か叩いた。そして今度は両肩を握り込み、何やら熱心に言葉をかけている。
「なんか馴れ馴れしくない?」
「なんで振り払わないんだ」
自分達だと話しかけただけで舌打ちと睨みが飛んでくる。触ろうものなら冷たく払われるというのに。
「あ、あぁ!? 抱きついた!!」
それもぎゅうっと熱烈に。
一護は驚いているようだが嫌がってはいない。困ったような顔をして、はずみでずり落ちた眼鏡を整えていた。
ひとしきり抱きしめると満足したのか男は一護を解放した。いい加減、我慢していられなくなった浮竹と京楽は引き攣った顔のまま近づこうと一歩足を踏み出しかけて、それから奇妙な体勢のまま静止した。
「なぜに握手‥‥‥‥?」
そしてお辞儀。
一護は九十度に腰を折り曲げて、男に対して最大の礼を示していた。
去っていく男達が見えなくなるまで一護はその姿を見つめていた。その表情には苦渋が浮かび、きっと何か言われたに違いないと二人は思うのだが。
「いっちーごちゃーん」
声を掛ければてっきり睨みつけられると思っていた。しかしそれはない。それどころか何かまずいところでも見られたというように、狼狽した表情で忙しなく視線をあちこちへと彷徨わせていた。
「さっき話してたのは、誰なんだ?」
「‥‥‥‥‥‥」
一護は無言を押し通す。
「関係無いとか思ってる?」
触れそうなほどに顔を近づけて、京楽が間近に一護の目を覗き込んだ。見つめられれば落ちない女はいない。『瞬殺京楽』なんて一部で渾名されている男の色目遣いに、一護はうっとたじろいだ。
「アイタぁ!」
後頭部に衝撃を感じれば、背後には丁度足を地面に下ろした浮竹が立っていた。
「踵落としっ、そこまでする!?」
「お前のイヤラシい吐息が一護にかかった」
二人して罵り合っていれば一護はこれ幸いとばかりに気配を消して離れようとした。
「待て一護」
「一護ちゃん、話は終わってないんだよ?」
ちなみにだが。一護は下の名前呼びを許した覚えは無い。
そして話しかけるなと宣告したが、二人は翌日おはようと挨拶して何かと話しかけてくる始末だった。
「ーーーーー俺が、誰と話そうとお前らに口出しする権利なんて無い」
「僕らには話しかけるなって言うのに」
「話すことなんて無い」
眼鏡を押し上げる。その仕草は心に余裕が無いときに頻繁に行われるものだと最近になって二人は気がついた。
一護はしきりに眼鏡に触れると落ち着いたのか、いつものように二人を睨みつけその場を去った。
それから数日。
一護が護廷入隊を断ったという。
「あの男っ、」
そして入るのは。
「隠密機動の人間だったのか」
表には出ない部隊だ。一目でそれと分かる装束でのこのこと統学院に現れたりはしない。
「何で!? 一護ちゃん確かに強いけどさあ、死神向きでしょ明かに!」
白打よりも剣術が勝っていた筈だ。それに何より、あの元柳斎が護廷の隊長を務めている。一護なら当然護廷に入隊すると思っていた。
「つーかさあっ、卒業したら離ればなれじゃないかっ」
一護を口説き落とすのは第二幕、護廷入隊からが本番だと決めていた。それが、部隊が違うのでは話にならない。できる男っぷりを見せつけてやろうと思っていたのになんたる仕打ち。
「って浮竹、どこ行くの!」
「一護のところに決まっている。お前はそこでバウバウ吠えてろ」
「僕も行くに決まってんでしょ!」
腹が据われば浮竹のほうが行動は速い。置いていかれそうになった京楽は慌てて後を追った。
「どういうつもりか、説明してもらおう」
そう言って一護に迫るのは自分たちの筈だったのだが。
「何も、言うことはありません」
「ぺいっ!」
一護を見つけて浮竹と京楽が駆け寄ろうとすれば、そこには既に先客がいた。
「山元先生は、本心で、聞きたいと願っていらっしゃるのか」
「なに?」
一護と相対しているのは二人も良く知る元柳斎だった。ぴんと張りつめた空気に、浮竹と京楽は離れたところから見守っていた。
「俺がどこへ行こうと、どうなろうと本当は、本当は‥‥‥‥っ」
一護はそれ以上言葉を続けられず項垂れてしまった。歩み寄った元柳斎の手が髪に触れる、その寸前に一護は顔を上げて言い放った。
「俺のことなど愛していないんでしょう!?」
「ブ!」
二人して吹き出した。それからゲホゲホと咳き込むが、一護達は気付いていないのかそれとも今は無視しているのか浮竹と京楽には目もくれなかった。
「なにを言っておる、儂は」
「貴方のお役に立ちたいと思う気持ちに変わりはありません。でもっ、傍に身を置いて疎まれるくらいなら、俺は離れたところから貴方のお役に立ち、貴方の正義を、貫こうと思っただけです」
それから耐えきれないといったように一護の目から涙が流れ落ちた。
「疎ましいなどと、誰がそんなことを」
「貴方はお優しい、だから俺は甘えて、勘違いをしてしまった、」
眼鏡を外して涙を拭う一護に、元柳斎は困惑しきりだった。泣く子の相手などしたことがないに違いない。浮竹と京楽は今度こそ二人の間に割って入ろうとしたが、そのとき自分たちの名前が一護の口から飛び出した。
「浮竹と、京楽は、本当にできた者達です、」
「それはそうだが。一体どういう繋がりがあるのじゃ?」
ちら、とよこされた視線に、どうやら元柳斎はこちらに気付いているようだ。気まずい雰囲気に浮竹と京楽は曖昧な笑みを浮かべた。かなり引き攣ってしまったが。
「どうぞ、可愛がってやってください、そしてどうか、俺のことは忘れてください」
幼子のようにぼたぼたと涙を零し、一護はそう言って頭を下げた。
「さようなら、元柳斎様」
泣き笑いで別れを告げる。それがあまりにも切なくて、若い男二人の胸をかき乱した。
「一護!」
「一護ちゃん!」
「うわあ何でいるんだよお前ら!?」
どうやらたった今気付いたらしい。一護は慌てて眼鏡を装着すると、闖入者を精一杯の虚勢で睨みつけた。
まず浮竹が、ずんずんと近寄ってくると一護の両肩をがしりと掴んだ。
「俺にしておけ!!」
「ーーーーーハァ?」
ぽかんと。本当にぽかんと見上げられて、しかしその無防備な姿に浮竹は思わず抱きしめていた。
「俺の傍にいてほしい」
「なんで? つか、離せよテメエ」
腕の中でもぞもぞと暴れられるが逆にその抵抗が可愛らしくて、浮竹は増々腕に力を込めた。
「離せってっ、元柳斎様が見てんじゃねーか!」
「そうだよ離せよ一護ちゃん僕と結婚を前提にお付き合いしませんか!」
背後から浮竹を羽交い締めにして引き離すと、京楽は所謂交際を申し込んだ。しかし一護の反応はすこぶる悪い。
「お前ら、人がせっかく格好良く決めようとしてたところを‥‥‥‥っ」
元柳斎に対するしおらしい態度はどこへいったのか。一護は憤怒の表情で、そして初めて怒りを露にしたときと同じようにびしっと指を突きつけた。
「もとはといえばっ、てめえら二人が俺の邪魔をするからいけないんだろ!!」
「じゃ、邪魔ぁ?」
二人して間抜けな顔を晒せば、一護は一層怒りを煽られたように顔を真っ赤にした。
「俺だけで良かったのにっ、それなのに、てめえら二人は何かと目だちやがって!」
元柳斎の前だということを忘れているのは一護もだ。言うつもりの無い本音を吐き出すことになってしまった。
「お陰でっ、元柳斎様の愛はてめえら二人に移っちまった!!」
「愛ぃ!?」
「何ソレっ、なんかイヤ!」
ジジイの愛など要らない。
教え子二人はぶんぶんと首を横に振って、どうせ貰えるならば一護の愛がいいと訴えた。
「あぁ!? 元柳斎様に愛されることのどこが不満なんだ、えぇコラ!?」
「だってっ、尊敬はしてるけどさ、正直愛はいらねー!」
「尊敬はしてるが、愛はいらないな、うん」
正直な感想を言った男二人の横面を一護は容赦なく張った。
「俺は愛してんだよっ、なのに要らないだぁ!?」
往復ビンタだ。バチバチと叩いてやって、胸ぐらを揺さぶった。そのたびに一護の涙が浮竹と京楽の頬を濡らしていった。
「そんなのっ、潔く身を引く俺が馬鹿みたいじゃねーかっ、おらっ、そこになおれ、手打ちにしてやる!!」
「そこまでじゃ」
そこらへんに落ちていた木の枝を拾おうとしていた一護を止めたのは元柳斎だった。
「大馬鹿者めが」
そして持っていた杖を、一護の頭に振り下ろした。
ガツンと硬い音がして、当然痛みが襲ってくる。一護が咄嗟に頭を押さえようとすれば、それよりも先に元柳斎のしわくちゃの手が頭を撫でた。
「勝手に勘違いして突っ走りおって」
「ーーーーーだってっ、一度も、褒めてはくださらなかったじゃないですか!」
「だからといって誰が愛しておらぬなどと言った? おぬしはいつから儂を疑えるほどに偉くなった?」
そのまま頭を引き寄せられて、一護の体は元柳斎の腕の中へと吸い込まれていった。見ていた二人はぁギャーと口を開いて固まった。
「一護」
元柳斎の指が一護の涙を優しく拭っていく。そして頬を包んで、それが当たり前だというように言った。
「隠密機動には儂から断りの言葉を入れておく。よいな?」
「‥‥‥‥‥‥‥はい」
適わない。
端で静観するしか無かった浮竹と京楽は、その日生まれて初めて敗北感という味を知った。