子犬狂想曲 番外編
天敵
一護は狐が嫌いだ。その因縁は数年前から始まっていた。
元柳斎のもとから離れて兄の左陣と二人で暮らしはじめた頃。一護が後で食べようと大事に取っておいた菓子を屋敷に侵入した狐に食べられてしまったのだ。怒って追いかけた一護だったが、狐が屋敷の外に逃げるとそれは断念せざるをえなかった。
逃げる間際の狐の顔を思い出すと一護は腹立たしくてならない。まるで馬鹿にしたように細められた目。一護が屋敷の外に出られないと分かると挑発するようにぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
それが悔しくて悔しくて左陣に懲らしめてくれと何度頼んだことか。
だが今はもうそんなことは言わない。
むしろ狐とは関わり合いたくもなかった。菓子などいくらでもくれてやるから近づかないでほしい。
それなのに、一護の思いとは裏腹に狐は寄ってくるのだ。
「あら、一護ちゃん」
突然目の前に現れた狐、ギンに一護は情けなくもきゃんっ、と子犬のような叫び声を上げてしまった。ぴーんと尖った耳に怯えが見て取れる。
それを見てくすくすと笑うギンが、昔菓子を取った狐と重なってならない。もしや同一人物では、と一護は疑うことすらあった。
「ぷるぷる震えてもうて、可愛らしいこと。食べたくなるわあ」
そう言ってぱか、と大きな口を開けるものだから一護は一層怯えて後じさった。助けてくれる乱菊は今いない。
だが尻尾を巻いて逃げるのも一護の誇りが許さなかった。
「ど、どけよっ!」
「隊長に向かってその口の利き方はなんやの? 狛村はんもどういう教育してるんやろか」
「兄貴を悪く言うなっ!!」
今にも噛み付かんばかりに歯向かってくる一護を見てギンは内心楽しくて仕方が無い。自分にこうも真っすぐに反抗してくるものなどいないからだ。
通路の真ん中で睨み合う二人。遥か下にある一護を市丸が見下ろしていた。
「通るんやったら通れば?」
「言われなくてもっ」
ギンの横をすり抜けようとした一護だったが、そう簡単にはいかなかった。道を塞ぐようにギンが体を移動してしまったからだ。
「あっ」
「どしたん、通らへんの?」
すぐさま反対側から一護がすり抜けようとしたが、案の定ギンが塞いでしまう。
「通せんぼするなよっ」
「そんなことしてへんよ。ボクが行こうとしたとこに一護ちゃんが来るんやもん。偶然や」
「意地悪っ!!」
きゃんきゃんと一護が抗議するがギンはけらけらと笑って平然と受けとめる。
やはり面白い。ギンは一層にんまりと笑うと、なおも睨み上げてくる一護の死覇装の襟首を掴んで片手で軽々と持ち上げてしまった。
「離せよ!」
「引っ掻いたらどうなるか分かっとんな?」
今まさに引っ掻こうとしていた指を一護は慌てて引っ込めた。わずかに開かれたギンの目に顔を引き攣らせると、一護はまるで借りてきた犬のように大人しくなってしまった。
「ええ子や」
一度引っ掻いて殺されかけた一護はその恐怖が甦ってきてしまい、いつもの威勢のいい態度に出れないでいた。耳を馬鹿にする人間には容赦しないが、ギンはそれとは違う。一護という存在をからかって楽しんでいるのだ。それに対して反抗するも、引っ掻こうものなら再び斬魄刀を向けかねられない。
一護にとってギンは今まで嫌いだった人間とはまた違っていた。これは天敵だ。
「ううー」
唸っては見るものの少しも相手にされない。それに間近で見るギン狐顔が一護には恐かった。
「そんなに唸らんでも。ボク苛めとるんやないんやで?」
嘘だ。ギンの表情を見れば苛めて楽しんでいるのがありありと浮かんでいた。
ぶらんと空を切る己の足が情けない。これが本当の犬であったならクゥ〜ンと鳴いて鼻をぴすぴすさせているだろう。一護は小さな手足をばたつかせて何とかギンから逃れようと奮闘していた。
その様を眺めてギンは思う。
「一家に一匹欲しいところやな」
「一匹言うな!」
噛み付かんばかりに叫んでやると、その瞬間を逃さずにギンが長い指を一護の口の中へと突っ込んできた。
「ぁがっ、」
「犬歯が鋭いんやね」
小さな犬歯に触れると今度は何を思ったのか一護を抱きしめた。抱きしめられたほうの一護はぴしりと固まり、じわりと汗が滲んだ。このままぼきりと抱きつぶされると思ったのだ。
「尻尾は生えとらんのかい」
ぺしぺしと一護の尻を叩いてやると、ギンは異変に気付いた。
「一護ちゃん?」
暴れると思っていた一護がさっきから少しも暴れていない。それも悪態の一つもついていないのはおかしかった。顔を覗き込もうとしたとき、
「‥‥‥っう、ぅぇえ、‥‥ぐすっ」
泣いていた。
よほど怖かったのだろう。一護はぽろぽろと涙をこぼし、天敵であるギンの白い羽織を握りしめてやがてわぁわぁと泣き始めた。
「な、なんやの、」
「うっ、う、怖いよぅ、」
怖いのに一護はどうすることもできずギンにしがみついて泣いていた。ギンは泣いた子供のあやし方など知る筈も無く、そして泣かれてしがみつかれるという体験をしたことも無かった為に珍しく狼狽えた。
「泣かんとき、ああもう、泣くんやない」
「ぅう、っひっく、」
しゃくり上げる一護の背中をギンはよしよしと撫でてやった。ぷるぷる震える耳がギンの頬を掠める。なんだか無性にこの小さな生き物が可愛らしく思えてきて、ギンはオレンジ色の頭に頬を寄せて優しく揺らしてやった。
「ごめん、ごめんなぁ。お兄ちゃんが悪かった。ほら、謝るから許したって」
子供好きでは無かった筈だが、そんなことはどうでもよくなって、ギンは自分が持つ多くはない優しさをありったけ声に込めて一護を慰めた。
最初は恐怖が勝っていた一護もやがてその声に含まれた優しさに気が付いて、そしておそるおそる顔を上げた。
「ごめんな。堪忍して」
「かんにん‥‥‥?」
「許して、ってこと」
一護は意地悪でないギンの顔を初めて見た。コレは本当にギンかとまじまじと見つめてしまったが、どうやら同一人物らしい。
「‥‥‥もう意地悪なことしないか」
「せえへん」
それは嘘だが今はそう答えたほうがいいだろう。ギンは打って変わった優しい仕草で一護の濡れた頬を羽織の袖でちょんちょんと拭ってやった。
「‥‥‥じゃぁ、堪忍してやる」
「おおきに」
天敵同士。この日初めて仲直りをした。
「ぅあーん!!」
三番隊の隊長室から子供の甲高い泣き声が響いてきた。イヅルはぎょっとしてすぐさま隊長室へと飛び込んだ。
「何なさってるんですか!」
部屋の隅では一護が蹲って泣いていた。震えた体に震えた耳。尋常ならざる事態が起こった、いや起こしたに違いないとイヅルは咎めるような視線を上司へと注いだ。
「何って、なあ?」
肩をすくめてはぐらかすギンを睨みつけて、イヅルは可愛そうなほどに身を縮ませている一護の傍へと近づいた。
「どうしたの」
「ぅう、ぅうう、ギンがっ、」
「隊長が?」
この二人は仲直りをしたとある日護廷中に挨拶回りをしていたが、そんなことを頭から信じている人間はいなかった。案の定喧嘩(ギンの一方的なからかいに一護が怒る)の繰り返しで、険悪ではないのだがよく泣かされている一護の姿がよく目撃されていた。
だがこうまで泣いている一護は珍しい。死覇装に顔を押し付けてくぐもった泣き声を上げる一護は、次の瞬間とんでも無いことを言った。
「ギンが、俺の口に、‥‥‥口をくっつけたんだ!!」
それはつまり口付け。
イヅルは目を剥き、そして上司を振り返った。
「したかったんやもん」
「あああ貴方何考えてんですか! この子は子供ですよ!? というか僕っ、松本さんからくれぐれも隊長を見張ってろって言われたのにどうしよう殺されるっ!!!」
白い肌を更に白くさせてイヅルは悲鳴に近い絶叫を上げた。
「ついでに狛村はんにも殺されるんとちゃう?」
「貴方がね! どうするんですかぁ!!」
上司と部下は一蓮托生。今すぐ逃げ出したいイヅルだが、再び同じ部屋に二人きりにするほど馬鹿ではなかった。
「一護くんっ、うがい、うがいしに行こう!」
「お前、それは失礼やろう、ボクはバイ菌かいな。それに舌は入れとらんで」
「バイ菌は黙っててください!!」
命の危機に直面したイヅルは上司に対して容赦がない。泣きじゃくる一護を抱え上げると四番隊に連れて行った。
一人残されたギンはごろりと寝転ぶと、そっと己の唇に触れた。
「‥‥‥可愛かったんやもん」