子犬狂想曲 番外編

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  発情  


 吉良がその光景を目にすればきっと言っていただろう。
「就業中に女性と逢い引きするなど言語道断!!」
 怒れる表情までギンは忠実に想像できる。ギンと相手の女、他には誰もいない埃っぽい資料室に二人はいた。
 しかし恋人かと言えばそうではでない。仲良くさせてもらっている女達のうちの一人に過ぎないとギンは思っている。相手の女はどう思っているかは知らないが。
「市丸隊長‥‥」
 熱の籠った声に、ギンは応えるようにして死覇装を脱がしていく。そういえばこの女の名前はなんだっただろうかと疑問に思ったがすぐにどうでもよくなった。相手のほうから誘ってきたから乗ったまでだが、仕事をさぼる口実にはちょうどいい。
 それにしても香水臭い。これでは香る、ではなく臭う、だ。唇に塗られた紅も濃い。口付けられそうになってギンはさっと避けた。女は不満そうな顔をしていたが何も言わなかった。懸命な判断だ、我が儘を言ったり調子に乗って束縛するような女をギンは好まない。
 では、そろそろ。
 特に興奮はしていなかったが女を横たえるとギンは己の袴の腰紐を解こうとした。

「っギャーーー‥‥‥‥!」

 遠くのほうから遠吠え、否悲鳴が聞こえてきた。そしてそれは近づいてくる。
「わー! ぎゃー! 来るんじゃねえ!!」
 聞き覚えのある声にギンは動きを止めた。バタバタと走る音が、ギン達のいる部屋の前を通り過ぎていった。
「‥‥‥‥‥すまんけど、行くわ」
「え!?」
 崩れた衿を正すとギンは起き上がった。呆然としている女にはもう興味は無い。ギンの感心は、たった今過ぎ去っていった嵐へと移っていた。










「あっち行けよっ、行けったらっ、‥‥‥兄貴ー!!」
 ワンワンぎゃあぎゃあ。
 ギンが駆けた先には、木の幹にしがみつく一人とそれに吼え盛る一匹がいた。
「このバカ犬っ、俺にサカってんじゃねー!」
 ぴんと耳を立てて威嚇する子供は既に涙目だった。その下では野良犬と思われる大きな犬が木の幹に足を掛けてワンワンと、ときにはクウンと鳴いて一護の興味を惹こうと躍起になっていた。
「‥‥優しくする!? 絶対やだ! さっきお前噛んだだろ!!」
 まさに抱っこ人形みたいに一護は木にしがみついて離さない。離れたら貞操の危機だった。
 事情を理解したギンはゆっくりと近づくと、背後から犬を蹴り飛ばした。
「っえ、うわ!!」
 ギャインっ、と上がった犬の悲鳴と同時に驚いた一護が腕を離してしまった。地面に落ちて尻を押さえて呻く一護へと、蹴られた犬がすぐさま飛びかかろうとしたが、それよりも速くギンが一護を抱き上げた。
「食われてもええなら、ボクにかかってきい」
 獣を威嚇するにはいささか殺気の籠り過ぎた目でギンは言った。百戦錬磨の隊長を相手にただの犬が適う筈も無く、一護へと未練がましい目を向けて犬は尻尾を巻いて逃げていった。
「‥‥っ、‥‥っ、」
「我慢せんと、泣いてもええんやで」
 しばらくぷるぷる震えて涙をこらえていた一護だったが、ギンの言葉で涙腺が決壊した。うわーん! と雄叫びのような泣き声から始まって、ギンにしがみつくと一護はクウクウ泣き始めた。
「っう、っうぅ、‥‥‥‥あいつ、友達だったんだ、なのに、」
「発情したんやね。それはまあ、ええと、難儀やったな」
 つまりは一護も同じ犬と見られていたのだ。確かに属性は犬だが、一護は立派な人間だ。小枝を投げてやると追いかけて取って戻ってくるが、一護は間違いなく人間なのだ。
「雄なんかキライだっ、交尾のことばっか言ってくる!!」
 ギンは微妙な表情をした。ついさっきまで交尾しようとしていた自分がまるで獣みたいだと思ったからだ。
「子供は六匹欲しいとかっ、ふざけんなー!!」
 涙を降り散らしながらも一護は絶叫する。誰かに聞かれたらどう思われるだろう。ギンは落ち着かせようと一護の背中をさすってやった。
 そしてふと思う。
 確か雄の犬には決まった発情期は無い筈だ。雌が発情していればつられて雄も発情する。つまりは今の一護は発情期ということになる。
「‥‥ひっく、痛いぃ、いーたーいー!」
 噛まれたところが今になって痛み出したのかギンの首に齧りついて一護は盛大に泣いていた。その姿はまったくの子供、赤ん坊のようだと言ってもいい。背は出会った頃よりも伸びてはいるが、二人が並んで立てば一護の顔はちょうどギンの腹の辺りにくる。口は悪いし振る舞いも乱暴であるし、髪は短くまるで男の子。
 そんな一護が発情。
 ありえないな、とギンは即座にその考えを斬り捨てた。
 一方、一護は袖をまくり、噛まれた部分へと舌を伸ばそうとしていた。そんな仕草はやはり子犬だ。だが肘の辺りにある噛み傷では一護の舌はどうしたって届かなかった。
「っう、ぁう、‥‥‥‥‥なあ、ギン、ここ舐めてっ、」
「‥‥っ!!」
 鼻にかかった涙声。泣きはらした頬。ちろりと出された赤い舌。
「ギン、早く、」
 そして香ってくる甘い香り。微かなそれがギンの鼻孔を刺激する。香水という人工のものとはまったく違った自然の匂い。きっと常人には分からないだろう、獣にしか感じとれない、きっと発情期特有のものだ。
 それらすべてがギンを誘惑してくる。
「っわ!」
「我慢」
 一護の傷口へと誘われるようにしてギンは吸い寄せられていた。甘い香りが心地良い。
 傷口に舌を這わせれば一護が痛みで咄嗟に身を引こうとした。それを捕まえてギンはぺろぺろと舐めてやる。傷はそれほど深くはなかった。きっと一護を大人しくさせる為に柔く噛んだのだろう。
「ぅひゃっ、」
 ちゅうと吸ってやると腕の中で一護が身を竦ませた。試しに傷を舌でつついてやると一護は増々震え上がって、耳をぴくぴくさせていた。頬はすっかり上気していて、それが痛みのせいなのかもしかして感じているのか、ギンには分からない。
「ギンっ、もういいっ、もう」
「でもまだ血が出とる。あと少しだけ」
 大きく口を開いてギンは傷全体を覆った。意識して舌を愛撫するように動かすと、一護がきゃんと鳴いた。
 もしかしてじゃない。感じている。発情しているのだ。
 そう認識した途端、ギンの体が熱くなった。
「うっそぉ‥‥」 
 先ほどの女には反応しなかった下半身が、一護を目の前にして疼いてしょうがない。
「ギン?」
 嘘だ、嘘に決まっている。
 たしかに一護は可愛い。可愛いと言っても容姿が、ではなく反応が可愛いのだ。何もしなければそこらへんにいる悪ガキだが、からかえば誰よりも面白い反応をしてくれる。
 だから気に入っていた、玩具みたいなものだと思っていた。
「‥‥‥‥‥一護ちゃん」
「なに?」
 ギンは無言で顔を近づけた。無垢な瞳が真っすぐに見つめてくるが、罪悪感なんてものを感じるような心をギンは生憎持ち合わせてはいない。
 ただ確かめるだけだ。これが気の迷いならそれで良し、忘れよう。しかしそう思う一方で、重ねた後、一護がもし受け入れてくれたなら、そこらへんにある空き部屋に連れ込んでしまおうと不埒なことを考えていた。
「‥‥ギン、ギン?」
 発情している一護が悪い。おそらく無自覚だろうが、誘われたら男は何もせずにはいられない。先ほど蹴飛ばした犬と自分の間に大した違いなんてものはそれほど無いのだ分かると、ギンは情けない気持ちで笑わずにはいられなかった。
「なんだよ、なに笑ってんだよ」
 つんと尖った一護の唇がやはり可愛らしいと思う。先ほどの紅が塗りたくられた女の唇には無い、稚い素の色気をギンは感じてしまう。
 幼女趣味の気は無かった筈だったが、相手が一護なら仕方ないと適当に言い訳を考えて、ギンはいよいよ唇を重ねようと一護を引き寄せた。
「ありがとう」
「っへ?」
 今まさに襲おうとしている男に場違いな言葉が掛けられた。ギンはぱっくりと口を開けて停止した。
「お礼、まだ言ってなかった。ありがとう、ギン」
 その屈託のない笑みと言ったら、さすがのギンも良心が咎めた。しかしそれを振り払い、再び顔を近づけようとすれば今度は更に苦しめられる言葉を浴びせかけられた。
「いっつも意地悪ばっかだけど、ギンみたいに、俺と、‥‥その、話してくれる奴って、少ないから、‥‥えと、う、嬉しい‥‥」
 言った瞬間に一護の耳はぴんと尖り、そして垂れていった。誤摩化すようにへらへら笑って、一護は強張るギンの顔を覗き込んでくる。
「ギン? どした? お腹痛いのか」
 固い腹筋を撫でる一護の獣の耳がギンの顎に触れた。そのくすぐったさにギンはハッと我に返った。
 そして急激に羞恥心がこみ上げる。自分は今、何をしようとしていた。
「一護ちゃん‥‥」
「んー?」
「ごめんな」
「なにが?」
 あのギンが謝った。それを知ったらイヅルや乱菊が驚愕に打ちのめされるに違いない。しかしそれを知らない一護はきょとんと目を瞬かせた。
「甘味屋行こか。ボクが奢ったる」
「マジで!?」
 垂れていた一護の耳が再びぴーんと立ち上がり、ギンはそれを優しく撫でてやった。一護は耳の後ろを撫でられて、気持ち良さげに喉を鳴らす。
 こんなふうに気を許してくれることが、どれほど稀有なことなのかギンは知っていた。容姿の特異な一護を受け入れられない隊員も多くいる中で、ギンのように普通に接してくれる人間はとても少ない。
「うん。好きなだけ、食べてもええよ」
 だから許して。
 ギンは心の中で、謝った。

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