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  猫もうひとり  

 黒猫がごろごろと一護の膝の上で甘えるように体をよじる。その柔らかそうな毛並みを一護が優しく撫でていた。
 十三番隊での、日常の光景。


「また来てんのか、その猫」
「海燕さん」
 数日前から一護に会いに黒猫が来るようになった。隊員達は食べ物を与えようとするがそのどれも黒猫は受け取ろうとしない。一護にしかその猫は懐こうとしなかった。
「この間、阿散井のやつが引っ掻かれてただろ」
「ああ、あれ」
 一護はその時のことを思い出して思わず吹き出した。黒猫が触ろうとした恋次の鼻っ柱をものの見事に引っ掻いたのだ。今でも恋次の鼻の頭には三本の線がくっきりと残っている。

 にゃーん

 黒猫が邪魔をするなとばかりに鳴いた。表情の無い猫に睨みつけられている気がして、海燕は肩をすくめた。
「俺も嫌われてるな。引っ掻かれないうちに退散するわ」
 海燕はひらひらと手を振って行ってしまった。その後ろ姿を、一護は見えなくなるまで見送った。
「あの人は海燕さんっていって、十三番隊の副隊長なんだ」
 一護は人にするように黒猫に話しかける。
「志波家の長男じゃな」
「ん? 知ってるのか」
「一護はあの男が好きなのか」
 人間語と猫語が入り乱れる。だが不思議と会話は成り立っていた。そして黒猫、夜一の言葉が通じたのだろう、その微妙な質問に一護が口を噤んだ。しばらく無言で夜一の耳を撫でる。
 やがてぽつりと言葉が漏れた。
「どうしてだろうな。俺、あの人に触れられてもちっとも嫌じゃないんだ」
 一護と接するうち夜一は一護が体に触れられることを極端に嫌がることを知った。女ならまだしも男となると決して触れさせない。警戒心も強く、自分よりもよほど猫らしいと思った。
 その一護も海燕だけは大丈夫なようだ。よく頭を撫でられているところを夜一は何度も目撃していた。
「恋をしておるのか」
 それはちょっと嫌だ。まだ知り合ったばかりなのに、もっと一護を独り占めしたい。
 一護は考えるように首を傾げると、思ったままを口にした。
「どういう好きなのか俺にも分からない。でも海燕さんって奥さんがいるんだけど、別にそれを聞いてもなんとも思わなかったな」
 それから一護はそのときのことでも思い出しているのか、空を見上げ目を瞑る。
「だから、恋とかじゃないよな」
 まるで自分に言い聞かせるようにそう言った。
 夜一は一護の鼻をぺろりと舐める。
「うん、違う」
 だからもっと自分に構っていてほしい。
 一護は猫特有のざらざらとした舌にこそばゆそうに笑った。

「見つけましたよ」

 突然の声に一護は驚いて声のしたほうを見る。そこには黒い修練着をまとった小柄な少女が立っていた。
「にゃーん」
「ただの猫のふりをしても無駄です」
 一護には何がなんだが分からない。猫のふりとは何のことだろうかと考えていると、少女がつかつかと近づいてきた。
「夜一様、会議が控えております。お戻りください」
 少女が一護、いやその膝の上にいる夜一に向かって膝をつく。
「いやじゃ」
 そう意味を込めてにゃーんと鳴いた。ついでに前足で顔を洗う仕草をする。それはまさに猫の仕草で、一護は雨でも降るかな、と暢気に考えていた。
 夜一は少女の言っている意味が分からないといったふうに一護の膝の上でごろりと寝転ぶ。そのまま眠ってしまいそうな雰囲気に、少女の表情が怒りに歪んだ。
「あの、えーと、」
「夜一様っ!」
「いやじゃあっ」
 引っ張られて夜一はいっそう一護にしがみついた。少女が一護から夜一を剥がそうとするが乱暴にはできず手をこまねいている。
「‥‥‥仕方ない。お前、名は」
「く、黒崎一護」
「黒崎、夜一様を離すなよ。私に着いてこい」
 顎で着いてこいとしゃくられて、そのあまりの威圧感に思わず一護は少女の言う通り、夜一を胸に抱き込んだ。
「ずるいぞ砕蜂っ」





 ここって隠密機動の隊舎ではないだろうか。だって周りに死覇装を着た人間が一人もいない。一護は初めて来る場所で興味深そうにきょろきょろと見回した。
「にゃーお」
 夜一はこの期に及んでまだ猫のふりを続けた。
「猫のふりはもうよいですからお着替えください、お早く!」
 だが砕蜂も負けてはいない。ぐいぐいと夜一に着物を押し付けた。それから両者一歩も引かず、均衡状態がしばらく続いた。夜一を抱っこした一護は口を挟むこともできず、戸惑った視線を向けるしかない。
 やがて仕方が無いと溜息をつくと、砕蜂は最終手段に出た。
「これがどうなっても知りませんよ」
 砕蜂は猫をつまみ上げた。だが猫といってもそれは夜一のことではない。手のひらに乗るほどのぬいぐるみの猫だった。
「あ、それ俺があげたやつだ」
「なんだと? ではお前が夜一様の可愛い子なのか」
「はああ?」
 可愛い子ってそれって一体なんなんだ。
 だが黙っていられないのは夜一だ。思わず叫んでしまった。
「卑怯だぞっ」
 人間語で。
「しゃっ!」
 喋った。猫が。今。
 あまりの驚くべき現象に一護の思考がうまく働かない。口の形も「しゃ」のままで固まっていた。
 そんな一護の様子に夜一は申し訳無さそうに謝った。
「すまぬ、騙していた訳ではないのだ。驚かせてはいけないと思ってのう」
 一護が夜一を凝視する。確かに、今まさに猫が喋っている。
「嫌いにならないでくれ」
 おそるおそる一護の頬を舐める。そのいつもの仕草に、一護がやっと落ち着きを取り戻した。
「えーと、夜一さんっていうのか?」
「そうじゃ」
「もしかして人間、なのか?」
「そうじゃ」
「だから夜一さんの言ってることが分かったのか‥‥」
 不思議と何を言っているのは分かったのはそのせいかと思ったが、それを夜一は否定した。
「それはおぬしだけじゃ」
 一護は特別だ。二人の間にある不思議な絆の成せる技だと夜一は信じて疑わない。
 そしてどうやら嫌いにならないでくれたらしいと分かると、夜一は嬉しそうに一護にすり寄った。
「さすが儂の可愛い子」
 だからその可愛い子っていうのはなんなんだ。だが一護がそれを聞くことはできなかった。
「せっかくじゃ。もうひとつの姿を見せてやろう」
 無駄なサービス精神を発揮した夜一が何をしようとしているのかを察し、砕蜂が慌てて着物を広げる。だが間に合わない。
 そして一護はその日立て続けに驚くべき現象に襲われることとなった。




「ほう、お前は女なのか」
「まあ一応」
 夜一は着替えて現在会議に出席している。最後まで駄々をこねていたが猫のぬいぐるみをちらつかせるとしぶしぶと従った。
 人質ならぬ猫質。これは使えるな。砕蜂は思った。
「黒崎、頼みがある」
「一護でいいですよ。頼みって何ですか」
 砕蜂は意地の悪い笑みを浮かべた。




「夜一様、書類が溜まっておりますよ」
「おぬしが適当にさばいておいてくれ」
 夜一はごろりと床に寝転んだ。今日も今日とて仕事をする気は無いようだ。いつもならここで砕蜂が小言の一つや二つを言ってそれを夜一があしらう。そうなる筈だった。
 だが今日の砕蜂は一味違う。その手には最終兵器があった。
「そのようなことを仰いますな。これがどうなっても知りませんよ」
 砕蜂が手を掲げた。何かを握っているようだ。夜一は咄嗟にぬいぐるみのある場所を探る。だがそこには確かなふくらみを感じた。
「ふふん、騙されんぞ。ちゃんとぬいぐるみは儂が持っておる」
「おや、誰が夜一様のぬいぐるみだと申しました」
 にやりと砕蜂が笑う。そして手を開けると、手の中に入っていたものは。
「なっ、なぜそれを持っておるっ!」
 出てきたのはオレンジ色の猫だった。ひもが付いておりそれに指を通して砕蜂がゆらゆらと揺らして見せびらかした。
「一護に作ってもらいました。さあ、これがどうなってもよいのですか」
「卑怯な真似を‥‥‥‥」
 実際には卑怯でもなんでもない。ぬいぐるみなど気にしなければよいだけの話だったが、夜一にはそれがどうしてもできなかった。
「‥‥‥分かった。仕事をすればよいのだろうっ」
「そうしていただけると幸いです」
 本当にうまくいった。砕蜂は内心では驚いていたがそれを押し隠す。そして夜一が机に向かったところで懐からあるものを取り出した。
 同じ猫のぬいぐるみ。夜一のものが黒猫なら砕蜂のものは口の部分が白くなっている黒猫だった。
 ぬいぐるみという年ではなかったが一護に照れたように渡されたときはこっちもつられて照れてしまった。幼少期ですらぬいぐるみを手にしても心動かされなかったが、今は素直に嬉しいと感じることができた。
 ふと夜一の手が止まっているのを見咎めた。
「手が止まっておりますよ。ああ、奪おうとしても無駄です。そうしたらまた一護に作ってもらいますゆえ」
「‥‥‥鬼っ!」
 可愛い子の威力は絶大だった。
 砕蜂は当分の間夜一に言うことを聞かせることに成功した。


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