「あ、そういえばこいつニャーって鳴かねえ!」

  黒崎家に猫来たるの巻  


「元いた場所に戻してこい」
「ほんとに駄目?」
「駄目。昼間は誰が面倒見るんだよ」
「はいはい! お父さんが」
「親父は黙ってろ。とにかく駄目。認めねえ」
「えー!!」
 妹二人のブーイングを聞き流し、一護はもう一度駄目だと言った。
「どーーーしても駄目?」
 瞳を潤わせながら見上げてきても駄目なものは駄目だ。特に親父、くねくねしても駄目だ。
 そう、猫なんて。
「わざわざ飼う必要性が無え! 野良猫を見てみろ、一人でも立派に生きてるじゃねえか」
「そんなこと言って、昔ひっかかれたのを根に持ってるな?」
「だからヒゲは黙ってろって言ってんだろーが!」
 忘れもしない十年前。木に上って降りられなくなった子猫を助けてやろうとした幼い一護の指を引っ掻き、更には頭を踏み場にして木を下り去っていった憎い奴。
「‥‥‥‥嫌いとかそんなんじゃねえよ。うちは診療所だぞ、衛生面とか、問題あるだろ」
「父さん、診察の前は風呂に入って服も着替えてるもんねー、綺麗だもんねー!」
 唇を尖らせてぶーぶー言う親父が腹立たしい。いつも妹二人の味方ばかりして、自分が蔑ろにされているような気分になった一護は立派なファザコンだった。
「それに見ろ、このつぶらな瞳! 可愛いじゃないか」
「あぁ?」
 そこで初めて一護は拾われてきた猫に視線をやり、目を疑った。子猫という大きさではない。
 少々育った大きめの猫、‥‥‥猫、‥‥‥猫なのかこれは。
「なんか厳つくねえか? つぶらっつうか、ふてぶてしいの間違いだろ」
「そこが可愛いんだよ! ねえ、いいでしょ、お姉ちゃん!」
「一姉!」
 妹二人の可愛いおねだりに、ついに一護は観念した。



「お姉ちゃーん、グリムジョーがいないよー!」
「知らねえ。どうせ外で雌猫でも引っ掛けてんだろ」
 見るたびに違う雌猫を連れているのは町内でも有名だった。猫のくせに生意気な。そのうちグリムジョーの血を引いた猫が空座町に溢れそうだと一護は考えていた。
 結局、時計の針が九時を指しても、黒崎家の飼い猫グリムジョーは帰ってこなかった。心配する妹二人をよそに、一護は内心もう帰ってこなくていいと思っていた。
 黒崎家の一員となった猫、グリムジョー。
 なぜグリムジョーという名前になったのか一護は知らないが、父一心がゴリ押ししていたマリリンという名前になれば良かったのにと今なら思う。どうせ多数決で負けたのだろう。
 とにかく、一護にとっては可愛くない猫だった。いや、猫というのも怪しい。その体躯は日を追うごとに立派になって、今では規格外の大きさまで育っている。近所の猫どころか犬までもが、グリムジョーを恐れて道を開ける始末だ。昔見た動物図鑑に、似たような動物が載っていた気がするが、何やら嫌な予感がするので思い出さないことにしている。
 何が可愛くないのかと言うと、人を人とも思わぬ傍若無人ぶりだ。巨体で一護にのしかかってくるわ、爪や牙をたててくるわ、この間は服まで破かれた。妹二人に対しては大人しいグリムジョーだが、あれがまさに猫被りというやつだろう。一護にだけは暴挙の限りを尽くしてくれる。ちなみに一心は相手にすらしてもらっていなかった。
 とにかくもう帰ってくるな。
 一護は念仏のように心の中で何度も唱えると、部屋の灯を消して眠りについた。

 ガチャガチャガチャ‥‥‥ベキ‥‥‥!

 深夜、不審な物音に一護は目を覚ました。しかし部屋はしんと静まり返っていて、異常は無いと感じた一護の瞼は再び落ちていく。
 その直後、ふぅっと風が頬を撫でた。
「‥‥‥‥ん」
 生温い風だ。窓は開けっ放しにしていただろうか。
 確認するのも億劫で、一護は起きようとはしなかった。ふいに髪が少し引っ張られる。どこかに引っ掛かっているのか、身じろぎすると、今度は撫でるような感触がした。
 次いで耳の後ろを何かに撫でられ、顎のラインを通過する。唇を少し押されたので、思わず舌で押し返すと、ひゅっと空気を吸い込んだような音がした。しかし些細な音で、一護は起きなかった。
「んー‥‥」
 鎖骨の辺りがくすぐったい。一護は眠りながらも無意識に触れる何かを振り払った。窓が開いているせいで虫が入ってきたに違いない。
 しかしその虫はしつこく一護にまとわり付いてくる。今度は寝間着の中に入ってきて、腹の辺りを彷徨い始めた。ぴちゃりと濡れた感じがして、一護は思わず足を振り上げていた。

「いてえっ!」

 手応えがあり。それも大物だ。
「はぁあ!? なに!?」
 明らかに人の声だった。一護は飛び起きると、暗闇に目を凝らした。人影はない。違和感を感じた自分の体を見下ろすと、寝間着代わりのTシャツが捲り上がり、もう少しで胸が見えそうになっていた。下着も中途半端にずれているし、こんなに寝相が悪かっただろうかと首を傾げた。
 灯を付けようと床に足を下ろしたときだった。何か柔らかいものを踏みつけた。クッションではない。ウウ、と唸り声まで上げている。
 暗闇でも爛々と光る青い双眸と視線が合った。
「‥‥‥‥グリムジョー?」
 むくっと起き上がったそれはベッドに身を乗り上げた。そしてちょこんとお座りして、下から睨め付けてくる。その目が謝れと言っていた。
「‥‥‥‥悪ィ」
 フン! と鼻から息を吐き出すと、グリムジョーは半ばぶつけるようにして一護に体を擦り寄せてきた。ときどきこうして甘えてくるが、基本的にグリムジョーが嫌いな一護にとっては鬱陶しいものでしかない。
「おい、下りろよ」
 そもそもどうして自分が謝らなくてはいけないのだ。人の部屋に勝手に入ってきたのはグリムジョーだ。視線に押されて謝ってしまった自分を一護は責めた。
 しかし相手も基本的に一護の言うことを聞かないグリムジョーなので、我が物顔でベッドに寝そべると、長い尻尾をゆらゆらさせて一護を挑発してくる。
「このクソ猫!!」
 しかし勝敗は一瞬にして決した。爪を引っ込ませたグリムジョーの強烈な猫パンチが一護の頬に命中したのだ。一護はベッドに突っ伏して、ぶるぶると震えた。
 こいつ、絶対猫じゃねえ!!
「追い出してやる、追い出してやるっ、追い出してやる!」
 八つ当たりから枕を殴りつけていると、生温い風が一護の頬を撫でた。覚えのあるそれに一護が顔を上げると、至近距離で青い瞳と目が合った。暗闇の中、爛々と光っている。魅入っていると、不意にざらりとした舌でぺろりと唇を舐められた。
「‥‥‥って、重い!」
 短い体毛で覆われたグリムジョーの体が、一護の体の上にのしかかってきた。一護のささやかな胸の谷間に顔を乗せ、クフーと息を吐き出して寛いでいる。その顔が獣だというのにとても満足げで、人間らしかったことに驚いた。
 やがて、先に寝息を立てたのは飼い猫のほう。御主人様の胸に寝そべって、くうくうと寝息を立て始めた。

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