眼鏡祭
そこには何の意味も無く
言うことを聞けと、男はよく一護の頬を張る。眼鏡の下の眼は常に苛立っていて、この根暗と内心で罵ってやったら何故か伝わってしまったらしい。もう一度、ぱちりと殴られた。
普段は温厚そうな顔をしているくせに、一護の前だと不機嫌そうに睨みを利かせてくる。だから一護のほうもいつだって眉を寄せて喧嘩を売るように睨んでやった。なんだその眼はと言われるが、そっちこそ何だよと言ってやる。そうしたらまた殴られた。
「いってえな‥‥」
両頬を紅く腫らして一護はぶつくさ文句を言った。片方だけではなく両頬、しかも同じ回数殴られた。律儀と言うか何と言うか、陰湿な男だ。
「失敗作」
一護は奥歯を噛み締めた。それだけでは表面上、何の変化も見られない。フンと息を吐いて、「それがどーした」と真正面から見据えてやる。本当は言われた瞬間、泣きそうなものがこみ上げたけれど、この男の前では決して涙は見せたくない。
「そっちこそ、眼鏡のくせにっ、このピンク!」
随分と変わった罵倒だと言った一護自身が思ってしまった。それが顔に出たのか、男が心底馬鹿にした笑みを向けてきた。そして今度は。
「不良品」
もう我慢ならない。拳を握った一護はそのまま男に飛びかかった。
「猿め」
しかしあっさり避けられついでに足を引っかけられた。一護は無様にも転んでしまう。しかも背中を踏みつけられた。
「ぐえ」
ぐりぐりと捻るように力を入れて踏みつけられる。必死に顔だけで振り返れば、そこには楽しそうに一護をいたぶる男がいた。その表情は先ほどの不機嫌が嘘かのように嬉々としていた。暗い部屋で研究ばかりしているせいで根性がねじ曲がってしまったに違いない。性格の良い破面がいるとも思えなかったが、この男は中でも群を抜いて意地悪く、陰険で、卑怯で、嗜虐的な、
「何を考えているのかだいたい把握できてるぞ、失敗作の猿」
今度は頭を踏みつけられた。最初は一護も抵抗するが、研究三昧のインテリだと侮っていたのがいけなかった。腐っても十刃の男はあっさりと一護の顔を床へと擦り付ける。
「許してくださいと言ってみたらどうだ?」
誰が言うかよ!
そう言い返してやりたいのに口を開くことさえ出来ない。獣みたいに唸ることで、怒りを表してみたのだが。
「這いつくばる姿が実に似合ってる。失敗作の猿で番号ナシのカス」
ついでに穴ナシと付け加えられた。
その言葉がぐさぐさと一護に突き刺さる。すべて言われてきた言葉だ、今さら傷つくものかと流してやったが、ふいに頭部にかかる圧迫感が消えて一護は不思議に思った。
「汚い顔だ」
その汚い顔に男は手を伸ばす。頬に触れた男の指が濡れていた。
それを見た瞬間、一護の中で敗北感と羞恥心が沸き起こる。胸にぽっかりと穴が空いて、そこから何かが溢れ出してくるような感覚に目眩がした。
「‥‥っう、クソ、」
悔しい、恥ずかしい。
泣くな。だから失敗作だと笑われるんだ。
立て。立ってこの場から立ち去って、せめて誰もいないところで泣くんだ。
最後の力を振り絞り、一護が立ったときだった。
「一護」
間抜けな顔をしていた。
この自分が、名前を呼んだのがそれほどにおかしいと言うのだろうか。
「一護」
何も持たない破面。何も持っていないのに、破面と言えるのかどうかは分からなかったが。
けれどこの出来損ないが生まれる瞬間にザエルアポロは立ち会っていた。このグズが虚から生み出され、きょとんと辺りを見回すそのときの表情さえも覚えている。
この頭の悪そうなオレンジ頭はそう、自分が最初に服を着させてやったことも忘れているのだ腹立たしい。
「低能」
「うるっ、さい、」
隠れて泣いていたことは知っていた。敵の目の前で弱さを見せないその根性だけは認めていたのだ。
それでもいつか、どうしようもなくなって自分に頼ってくる日をザエルアポロは待っていた。待っていたというのにこのトンマはなんと自分の存在すら忘れていた。
「泣け、泣いて謝れ」
「いってーな! なんなんだよお前はっ、さっきから俺にヒデェことばっか言いやがって!」
この口の利き方。
放っておいたのが仇になったらしい。あのグリムジョー並の口の悪さに育っていた。
こんなことなら最初からちゃんと躾けていればよかったと思わずにはいられない。しかし元来持ち合わせていた己の高いプライドが粗品を傍に置くことを許さなかった。
睨みつけてくる生意気な子供を威圧的に見下ろし、ザエルアポロは殊更傲慢に言った。
「来い」
「ヤだね」
「‥‥‥‥僕が命令したら素直に従え」
「っへ! 俺番号持ちじゃねえからな。テメーに指図される謂れなんてねえんだよバーカ」
本当に腹が立つ。
せっかく己のプライドを抑制して傍に置いてやろうと言うのに、この小猿。
「一護」
「‥‥っ、‥‥‥‥なんだよ」
変化があった。最初に呼んだときのように、一瞬動きを止める。
「一護。言うことを聞くんだ」
ザエルアポロはゆっくりと名を呼んで命令した。そうすれば自身でも理解できない何かに支配されたのか、一護と呼ばれた子供はひどく困惑した表情を浮かべた。
もしやと思ってザエルアポロはもう一度呼んでみる。
一護。
生まれたばかりの一護を見下ろし、初めてその名を呼んだときのように。
「っな、なんで、」
止まっていた涙が溢れ出す。一護が怯えたようにザエルアポロから一歩退いたが涙が止まらないらしく焦って乱暴に目元を拭っていた。
「一護」
「やめろっ、呼ぶなっ」
逃げようとする一護を捉え、ザエルアポロはその顔を覗く。嫌がると分かっていて、泣き顔を至近距離から観察してやった。
「懐かしい?」
「‥‥‥‥っ」
思い当たるふしがあるらしい。一護がまじまじとザエルアポロを見返した。
一心に見つめてくるその茶色の眼は何も変わっていない。昔のままだった。
「‥‥‥‥‥ふぅん。躾にはまだ間に合うか‥‥」
「へ」
「来い。今度抵抗したら麻酔を打つ」
腕を引っ張れば暴れるかと思いきや一護は素直に着いてきた。涙に濡れた顔で、不思議そうにザエルアポロを見つめている。
それにひどく満足した。周りはきっと自分の行動を奇異と感じるだろうが構わない。欲しいと思うのに我慢する破面など、そちらのほうこそ奇異で愚かだ。
「‥‥‥‥一護」
そして意味も無く呼んでみた。
この自分が意味も無く、名前の響きを舌に乗せ。
「一護」
ただ、意味も無く。