ピーターパン
「黒崎一護と申します。慣れぬことが多いと存じますが何卒御指導のほど、よろしくお願いいたします」
そう言って丁寧に頭を下げた。だが返事はなく、無視されたのだと分かる。
一護が顔を上げるとふんと相手は鼻で笑った。下級貴族の娘が、四大貴族に仕えられることを光栄に思えとその目は言っていた。
だが一護はその侮蔑の視線をさらりと受け流す。こんなことでいちいち怒っていては身が持たないと分かっていたのと、相手にすれば余計につけ上がらせるだけだと理解していたからだ。ここへは金を稼ぎにきたのだ。言わばここは職場、稼げるものを稼いでから辞めてやると一護は誓っていた。
突然の侍女としての奉公。それも四大貴族である四楓院家に仕えないかと話が来たとき一護は我が耳を疑った。四大貴族に仕える家来達はその誰もが出自卑しからざる者達だ。最低でも中級貴族。一護の家のように下級貴族の中でも底辺にいるような黒崎家の娘が仕えられる筈がない。
何度も確認したが、話を持ってきた四楓院家に仕える老年の女性は間違いなく一護に侍女として仕えないかと言ってきたのだ。
その話を一護は二つ返事で引き受けた。両親は断ってもいいのだと言ってくれたが、四大貴族に対して否やを言おうものなら周りから何を言われるか分かったものではない。それに金を稼ぐいい機会だと一護は妙に冷静でいた。
統学院に通ってすぐさま十三隊なり隠密機動なりに入ってすこしでも家計を助けることが一護の将来設計だったのだが、いまだ幼くそれは両親に許されていない。侍女の仕事は統学院に通うまでの繋ぎだと一護は割り切っていた。
「いちごっ!」
一護が振り返るとそこには同じくらいの少女が立っていた。
「一護です。お嬢様」
床磨きをしていたところこの屋敷の主の一人娘、夜一が駆け寄ってきた。持っていた雑巾を置くと一護は膝を折る。
修練の後だったのか、稽古着のままの夜一は不満そうに顔をしかめた。
「夜一と呼べと言ったのに」
「それはなりません」
努めて無表情に言いきった。内心では苦く思いながらも一護にはこうするしかないのだ。
侍女として四楓院家に来たその日に夜一は話しかけてきた。何が嬉しいのか顔をにこにこさせて一護に近づくと両手を握って自己紹介をしてきたのだ。
『四楓院夜一だ。よろしく一護っ!』
周りも驚いていたが一護が一番驚いた。だがわずかに目を見開くだけにとどめると今と同じように膝を折り、存じ上げておりますお嬢様、と主君に対しての礼をとった。そのときから何度も夜一は名で呼べと言ってはいるが一護がそれを叶えたことはない。
「一護、立ってくれ。そのように膝を折るな」
「臣下としての礼にございます」
「おぬしは儂の友達じゃ。臣下などではない」
「お嬢様、」
「夜一じゃっ」
だんっと駄々をこねるように夜一が床を踏む。だがそれでも一護の表情は微塵も変わらずに夜一を見据えた。
それに悲しそうに顔を歪めると一護の目線に合わすように夜一も座り込んだ。
「なぜ呼んでくれぬ」
「私が侍女だからです。呼んでほしいのなら、命令なさればよろしいのに」
「嫌じゃ。友達には、命令などしてはいけない。儂はお願いを聞いてほしいのじゃ」
「なりません」
「一護は儂が嫌いか」
嫌いではない。貴族としては珍しいほど純粋で奢り高ぶったところのない夜一を一護は好ましく思っていた。身分など存在しなければすぐさま気の合う友人になれただろうに。だがそれは無理だ。
身分を逸した交遊は一護だけではなく、家族にも災難を招く。
「嫌いも好きもございません。あるのは臣下としての忠義のみ」
嘘をついた。好きだし、忠義など堅苦しいものは感じてなどいない。
「儂は、そんなものはいらない」
ついには俯いてしまった。困ったな、と一護は途方に暮れてしまう。そもそもどうして自分なのだ。歳が近いというだけでこれほどまでに気に入られるとは、自分は何かしただろうか。
それともただ寂しいのか。この広大ともいえる屋敷に誰一人心を許せる者がいないことは。
「夜一様」
「‥‥‥」
答えてはくれない。一護はため息をつく。
このままだと不興を買ってここを辞めさせられるかもしれない。だからだ、一護は自分にそう言い聞かせた。
「二人きりのときだけでよろしいのなら、そのお願い、お受けいたしましょう」
「本当かっ」
「はい」
さきほどまでの落ち込みようが嘘だったかのように夜一の顔が晴れる。雑巾を触っていた一護の手を気にする素振りも見せずに夜一は両手を握るとぶんぶんと振った。
「敬語も駄目じゃ」
「はい」
「喋り方も、いつも通りでよい」
「は、」
夜一の言葉に一護が目を剥く。嬉しそうに夜一は笑うと一護の手を引っ張って立たせてやった。
「『俺』でよい。遠慮するな」
なんで知ってるんだと一護が言う前に夜一が抱きついてきたので聞くことはできなかった。一護一護と言って抱きついてくる夜一を受けとめてやる。
「さっそく呼んでくれ」
一護は周りに人がいないことを確認すると、夜一の願いを叶えてやった。
「夜一」
一層抱きしめられた。
ほどなくして一護は夜一付きの侍女になった。周りに思い切り僻まれたが一護は一度も頼んじゃいないので少しも悪いと思うことはない。給料が上がったのが密かに嬉しかった。
茶を入れて夜一の部屋へと運ぶ。
「失礼します」
障子を開けたその先には夜一ともう一人。
「ああっ!」
思い切り指を指されてしまった。一護は誰だこいつと眼を飛ばしそうになるが夜一の客ということは上級貴族に違いない。躾の行き届いた侍女の顔で夜一とその客の前に茶菓子を置くと下がろうとした。
「待ってください」
だがその客は一護の腕に手を置くと引き止める。よく見ればどこかで見た顔だと一護は思い出す。瀞霊廷で何度か見かけた、夜一と一緒に遊んでいた者ではなかったか。
「喜助っ、一護に触るな」
夜一がどんと押しのける。そして一護を背後に庇うと幼馴染みを睨みつけた。
だが喜助も負けてはいない。同じく睨みつけると夜一の体を押しのけて一護に歩み寄る。
「初めまして、アタシは浦原喜助っていうんです」
「はあ」
なぜにオネエ言葉、と思っていても顔には出さない。それよりも握られた手を離してほしい。
「一護は儂の友達じゃぞ。他人のおぬしが気安く触れるでない」
言うや否や夜一は二人を引き剥がすと一護の体を押して部屋から出した。
小さな声で耳打ちする。
「あやつが来たときは茶などいらぬ。顔を見せてはならぬぞ」
「はあ」
「何話してるんです」
「行けっ」
部屋から追い出されてしまった。一護のいなくなった部屋ではドタンバタンと何やら暴れる音がするがじゃれているのだろう。軽くなった盆を抱えて一護は去っていった。
「最近見ないと思ったら夜一さんのところで侍女なんてしてたんですね。抜け駆けなんてずるいですよ」
「ふん。偶然じゃ」
「嘘つきっ! 手を回したくせに」
「何のことかのう」
喜助の追求を夜一はのらりくらりと躱す。それに悔しそうに喜助は歯噛みした。
「ずるいっ、先に見つけたのはアタシのほうだったのに」
「数秒の差じゃろうが」
一護が夜一達を見たことがあるのなら、夜一達も一護を見たことがあった。だが一護と違うところがあるとすれば、二人は一護の名前も住んでいるところも調べ上げているところだった。
初めて目にしたオレンジ色に惹かれて二人は一護の存在を初めて知った。親の仕事を手伝っていたり、妹達をあやしていたり、何度も何度も近くまで行ったのだが一護はいつも忙しそうだったのでつい声をかけそびれていたのだ。
意志の強そうな目。何度か視線は合ったと思うのだが一護はいつも関係ないとばかりに逸らしていた。四大貴族に上級貴族。誰もがお近づきになりたいと思う中、一護のその態度は二人にとって新鮮だった。
「友達になってくれたのじゃ。羨ましかろう」
「ど、どうせ命令したんでしょう」
「ははん。残念じゃったな。一護は儂のお願いを聞いてくれたのじゃ」
最初はぎこちなかったものの、今では随分と砕けた様子で接してくれている。仕事だと割り切っていた一護も次第に夜一に対して心を許していった。
「昨日は一緒の布団で寝てくれたのじゃ。一護が寝物語を聞かせてくれてのう」
もう我慢できなかった。
「ずるいずるいっ! 一護さーんっ!!」
「ああっ!こらっ他人の屋敷を走り回るなっ!!」
一護を求めて部屋を飛び出した幼馴染みを夜一は追いかけた。
これが幼馴染み三人が初めて揃った記念すべき日なのだが、一護は思い出すたびため息が溢れる。
「こんな感じ」
「なんか最初は心温まる話だったのに」
最後のはなんというか、なんだ。
「俺も後で聞いたんだけどな。当時は向こうも知ってるとは思いもよらなかったな」
出会いを教えてほしいと言われたので一護は話してやった。だが聞いた後の皆の反応は微妙なものだった。
場所は隊首会。研究室に籠って出てこない浦原の代わりに一護が出席していた。本来なら副隊長が出るものではなかったが一護にはそれが許されている。
「夜一様と身分を超えて友情を育まれたのですね」
「んーまあ、そうなるのか」
単にしつこかっただけな気もするが。だが砕蜂が過度に美化しているので一護は言わないでおいた。
「侍女姿の一護ちゃん、見たかったなあ」
「ああ?今と変わんねえよ。白哉は見たことあるだろ」
先ほどからむっつりと黙っていた白哉がわずかに頷く。
「あのときの一護は女らしかった。完璧に騙されたぞ」
統学院に入るまでは一護は四楓院家で侍女をしていた。その間に同じ四大貴族の白哉とも会ったのだが、一護は侍女として接していたためまさかこんなにも男らしい性格をしているとは夢にも思わなかったのだ。
「そういうお前は可愛かった。抱っこしてあげたの覚えてるか」
「抱っこ!!」
周りの爆笑に白哉がむっと眉をひそめた。非難するように一護を睨んでくる白哉に昔の面影は微塵もない。
「騙されたのは俺のほうだ。こんなに可愛げが無くなるなんてよ」
それは幼馴染みにも言えることだったが。出会った当初はきゃんきゃんと言い争いや相手を叩き合う程度だったのだが、成長するにつれて周りの被害は拡大していった。近くにいた一護がそれを止めるため必然的に強くならざるを得なかったのだ。お陰で統学院の入学試験は楽勝だった。
「夜一はんの侍女やったんなら隠密機動に入ろうて思わんかったん?」
「それは俺も思ったんだけどよ。一応恩義あるし。でもそういうのは無しだって夜一に言われてたんだ」
「さすが夜一様」
砕蜂が尊敬しきった顔をしているが、そうではない。
「どっちか好きなほうを選べ、って言われたんだよなあ」
一護にとってはどちらも選べない、というかどっちもどっちだった。
どちらか一人を選んでもその先に待っているのは大いなる苦労だ。
「ということは一護さん、アタシを選んでくれたのは」
「好きでも何でもねえよ。この馬鹿」
いつの間にか入ってきた幼馴染みを一護は睨みつける。
「そもそもくじ引きだっただろうが。偶然だ、偶然」
「その偶然を運命と言うんです」
「科学者が非科学的なことを言うな」
「ああっ、ツレない」
その割にはどこか恍惚とした表情の浦原に周りは引いたが一護は慣れているのか呆れた視線を送る。
「一緒の布団で寝た仲じゃないですか」
「ガキの頃な」
「アタシのことキっくんって呼んでくれたじゃないですか」
「呼んでねえよ。過去を捏造するな」
一護は冷たく返すが浦原は少しもめげない。正面から抱きつくと一護を見下ろして甘えた声を出してくる。
「一護さぁん」
「何でございますか、喜助様」
「いけずっ!!」
出会った頃のように侍女として上級貴族の浦原に接するようにして呼んでやった。浦原は不満そうに見つめてますます抱きついてくる。昔と少しも進歩していない幼馴染みに一護は盛大にため息をついてやった。言うことを聞かない夜一にも同じようにして他人行儀に夜一様と呼んでやると、今の浦原と同じ反応をする。
「お嫁さんになってくれるって約束したの覚えてます?」
「ああ、覚えてるよ」
周りはぎょっとしたが一護は冷静だ。
「嫁になれと命令なされば私に否やはございません、喜助様」
「命令じゃなくてこれはお願いなんです」
「じゃあ聞けねえな」
諦めろと一護は浦原の背中を軽く叩いてやる。
「あれは嘘だったんですかっ」
「あのときは嘘で言ったんじゃねえよ。そうだな、大人の階段を上ったってやつだ」
「今すぐ下りてきてください」
一護は苦く笑うだけで何も言わない。子供の頃のように浦原の頭を撫でてやると部屋を出ていった。
子供のままではいられない
下りてこいというのなら
お前が上がってきてみせろ
幼馴染みの誼として
少しは途中で待っててやる