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  誰も知らない<後編>  


 長屋の一室を出るときの荷物といったら、行李ひとつに収まってしまった。家具や台所用品、その他の生活必需品は向こうの屋敷に行けば既に揃っているという。まさに着の身着のままやってこいというわけだ。けれど一護は、長年使い慣れた鍋をひとつ持っていくことにした。去年穴が空いて水が漏れたものだったが、金物職人が鉄を溶かして修復してくれたお陰でまだまだ使うことができる。なによりその職人の老人が、一護に唯一仲良くしてくれた人だったから、置いて出ていくことなどできなかった。
「鍋がありゃあ満足だとは、てめえは相当変わってんな」
 そうかな。
 年季の入った鍋を見下ろし、一護は首を傾げた。本人は気付いていないが、首を傾げるのが癖だった。
「またおいしいご飯つくってねえ」
 剣八の肩にしがみついた少女が明るい声で言った。剣八が隊長になったと同時、少女も副隊長になった。一護はもちろんと意味を込め、少女の背中を撫でた。
 十一番隊の隊長副隊長となった二人が、いつまでも長屋に住んでいるわけにはいかなかった。それなりの地位に就いたのだから体裁というものを考えろ、と言われたらしい。長屋の一室は三人で住むには十分な広さであったのに、なるほど面倒くさいな、というのが一護の正直な感想だった。
 与えられたのは、歴代の隊長達が使用してきたという屋敷だった。貴族であれば一族が所有する屋敷に住むらしいが、流魂街出身者であったり、屋敷を持てるほど潤ってはいない下級貴族が隊長になった場合、その屋敷が提供されたという。はっきり言って、ボロかった。
「お化けが出そうだね」
 やちるが言う。一護はうんうんと頷いた。
 門扉は崩れかかっているし、通りに面した土壁はかかっているどころかはっきりと崩れ落ちていた。これじゃあ泥棒が入り放題だな、と一護は思った。十一番隊隊長の屋敷に入る泥棒がいればの話だが。それでも屋敷自体は傾くことなくでんと立派に構えている。一体何室あるのだろう、掃除は行き届くだろうか。一護の心配はそれに尽きた。
 そのとき、通りの向こうから数人の男が走ってくるのが見えた。皆一様に死覇装を身に纏っている。彼らは一護たちのもとまでやってくると、一斉に礼をした。
「更木隊長、草鹿副隊長、引っ越しのお手伝いに参りましたぁ!!!」
 空気が震えるほどの声量に、一護は堪らず仰け反った。
「荷物はどこっスか! お運びします!!」
 総勢二十名。揃いも揃って人相が悪かった。十一番隊は破落戸集団というのは護廷では誰もが知るところだったが、長屋街から出ることのない一護は知らなかった。
 なんだこいつらは、剣八の舎弟か。隊長になったと言っていたが、実は嘘でこいつらのボスになっただけというショボイのじゃないだろうな。
 一護の疑いの眼差しに気付いたのだろう、剣八が面倒くさそうに頭を掻いた。
「帰れ」
「な、なんでっスか!?」
「荷物はこれ一つだぞ」
 行李を示すと、舎弟達は一様に驚いた。長屋住まいなんだから、荷物が少ないことくらいちょっと考えれば分かるだろ、と呆れる一護の頭上で、やちるが「お馬鹿さんだねえ」と言った。
「ほら、君達。邪魔、邪魔」
 涼しい声がした。一団の向こうから、二人組がやってくる。
「隊長は長屋住まいだったんだぞ。荷物が少ねえことくらいちょっと考えりゃ分かるだろうが」
「と、最初に言ったのは僕なんだけどね。一角もこいつらと一緒に飛び出していこうとしてたくせに」
「うっ、うるせえ弓親! 隊長っ、引っ越しが駄目なら掃除します。おいてめえら、いいな!?」
 なんだ、漫才コンビか。一護の視線に気付いた男、弓親がこちらを向きふっと笑った。びっくりするほど綺麗な笑みに、一護は動揺で頬を赤くした。
「隊長の奥方ですか?」
 えっ、と舎弟達が声を上げた。そしてまじまじと一護を見る。その目には、「あり得ない」と書かれていた。そう、あり得ない。一護はぶんぶんと首を横に振ると、屋敷の中へと逃げるように走っていった。











 十一番隊第三席、班目一角。彼には好む女の種類というものがあった。
 それは出しゃばらず、男を立て、もの静かに佇む女。現世で言えば、一昔前に求められた大和撫子だった。それを最初に知った弓親は鼻で笑ったという。
 護廷で死神をしている女というものは、総じて気が強い。女性死神協会というものまで作り、日々男達を弱体化させようと策を弄している。一見おとなしめに見える女でも、中を開ければ一筋縄ではいかない猛者ばかり。一角が理想と掲げる女は、現世と同じく絶滅に瀕していた。
 しかしである。彼はついに見つけてしまった。



 昼食の帰りだった。護廷と居住区を仕切る入り口でうろうろしている人物に目が止まり、一角は足を止めた。中を覗き込んでは引き返し、また戻っては中を覗き込む。一角に声を掛けられ、その人物、一護はほっとした表情を浮かべた。
「なんだ、隊長に用事か?」
 一護の手には風呂敷包みが抱えられていた。一角と視線を合わせ、うん、と頷く。
「来いよ。案内してやる」
 でも、と一護はたたらを踏んだ。入るのは初めてらしく、見知らぬ土地に尻込みするように不安げに瞳を揺らしている。
「大丈夫だっつうの。俺が誰だか知ってるか? 十一番隊第三席、班目一角様だぞ」
 どうだ驚いたか、と胸を反らす。しかし一護はというと、きょとんと目を瞬くばかり。それってすごいのか。首を傾げた。
「いっ、行くぞ!」
 望んだ反応が得られないことが分かると、一角は乱暴に一護の腕を掴んで護廷の敷地に引っ張り込んだ。剃った頭を赤く染め、ずんずんと歩く。
 後ろで駆け足になる一護に気がついたのは、十三番隊を過ぎ、十二番隊の隊舎近くに差し掛かった辺りだった。
「悪い」
 歩調を弱め、一護の歩幅に合わせる。ついでに風呂敷包みを代わりに持った。見当はつけてはいたが、やはり着替えだった。
「律儀だなあ、お前」
 死神というのはなにかと汗臭い仕事である。それぞれが隊舎に着替えを常備しているのがだが、支給される死覇装を常に身に纏っているわけではない。隊舎に泊まり込みの際には、着流しや寝間着などを置いておく。それが切れたことに気付いたのだろう、こうしてわざわざ一護が持ってきたのだ。
 いい。一角は胸の内で、何度もそう思った。
「副隊長の着物、仕立ててるんだろ? いつも自慢してるぜ」
 会話を途切れさせまい、一角はしきりに一護に話しかけた。といっても喋るのは一角だけで、一護は頷くか顔を横に振るか、首を傾けるだけだった。それでも表情が豊かなせいか、二人はちゃんと会話ができていた。
 腕から今は手を握り、一角は緩みそうになる口元を何度も引き締めた。少し視線を横にずらすと、一護が護廷の風景を興味深げに眺めている。その横顔は幼いが、滲み出る色気のようなものがあった。目が合う。首を傾げられ、一角は挙動不審に視線をずらした。
 いい。たまらなく、いい。
 何度も内心呟き、しかし報われぬ、と項垂れた。



 十一番隊の隊舎に着いたものの、剣八もやちるも不在だった。そうだ、隊首会に出てるんだ。一角が言うのを聞いて、一護は着替えを置いて帰ろうとした。
「待てって! このまま帰したら隊長に叱られちまう」
 いいから座ってろ、と座布団まで用意されて、一護は仕方なく腰を落ち着けた。普通ならここで茶が出てくるものだが、男所帯の十一番隊、そこまで気が回らない。
 待つって、どのくらい待てばいいんだ。一護は手持ち無沙汰に着物の袖をいじり、溜息をついた。用事を済ませたら今晩の食材の買い出しに行って、干した洗濯物を取り込むつもりでいたのに。
 やっぱりお暇させてもらおう。何か書き付けを、と思って腰を上げたときだった。すらりと襖が開き、背の高い男が入ってきた。
「君、誰や?」
 男は襖を後ろ手に閉めると、ずかずかとこちらまでやってくる。白い羽織に、一護の視線は釘付けになっていた。
 白い羽織は、隊長の証。
 剣八の言葉を思い出し、一護は慌てて座布団から飛び退くと両手をついて頭を下げた。
「ボクは誰やと訊いたんや。頭下げえとは言うてへんで」
 代わりに座布団に座った男は、「茶ぁもないんか」と呟いた。一護はおずおずと顔を上げ、男を見た。白髪とは違う、曇り空に光を当てたような髪の色。一見柔和な顔つきだが、一護は怖い、と思った。
「剣八はんの縁者か? そうでないなら、一般人が隊首室に通されるわけないわな」
 男が言うと、一護は躊躇いがちに頷いた。
「ふうん。剣八はんとの付き合いは長いんか?」
 頷いた。おそらく、十年以上になる。
 あの日、更木で助けられたのもつかの間、無理矢理体を繋げられて以来傍にいる。逃げる機会はいくらでもあったが、できなかった。一人では生きていけなかったから。生き汚い、何度もそう思った。
 剣八がどういう思惑で自分を傍においているのかは、今も分からない。更木では手頃な女がいなかったから、そうかもしれない。人を斬れば、気持ちが高ぶる。そんなとき、手近に一護のような人間がいれば楽だったろう。
 けれど今は状況が違う。剣八は隊長になった。流魂街で拾った一護を、いつまでも傍に置いておく必要はあるのだろうか。
「君、無視はいかんよ」
 はっと顔を上げると、間近に男の顔があった。にぃっと笑われ、一護は息を呑んだ。
「剣八はんが、屋敷に囲ってるいうんは君のことなんやね」
 男の細い指が、一護の頬を挟み込む。強い力だった。
「ボクなぁ、剣八はんとは仲良しさんなんや。流魂街出身者っちゅうのは、ここじゃ何かと苦労するやろう? やからボクら、互いに手と手ぇ取り合って頑張ってるんよ」
 でも、と男はさらに力を込める。
「ボクの性格やろか。仲のええ人ほど、困ってる姿が見たいと思うんや。剣八はんのあの余裕顔、崩してみたいってなぁ。戦いにしか興味の無いあの男が、君を傷つけられて、どんな顔するんか」
 ボクに見して。
「!!」
 力が緩んだ一瞬だった。畳に押しつけられ、男の影が一護を覆う。悲鳴を上げた。しかし声が出ない。
「喋れんいうんはほんまなんか。あは、面白いなあ」
 衿を掴み、横に引っ張られる。一護はがむしゃらに手足を暴れさせた。いやだっ、いやだ!
「あぁ、お帰りや」
 男は言うと、一護の足を開かせ、膝を抱え上げた。直後、襖の開く音がした。

「何してる」

 その声を聞いた瞬間、一護は心底安堵した。あぁ、もう大丈夫だ。安心して、涙がこぼれる。
「気まぐれで隊首会に出るからこうなるんや。油断はいかんなぁ、剣八はん」
 一護の剥き出しの太腿をぺちぺちと叩きながら男が笑う。そこに刀が突き刺さった。
「おぉ、怖い怖い」
 寸前で避け、男は隊主室に備えられた窓へと飛び移っていた。
「えぇもん見れたし、ボクはここで失礼させてもらうわ」
「待て、市丸っ」
 窓から飛び降りた男を、しかし剣八は追わなかった。蹲って泣く一護の傍らに膝をつき、優しく抱き起こしてくれた。
「一護、一護」
 先ほどの男と違って太い指が一護の顔を擦る。涙を拭おうとしているのか、でも痛い。ぐいぐい押され、そのあまりの不器用さに、一護は泣きながらくすくすと笑い出した。
 剣八の呼吸はひどく荒く、取り乱しているのが分かった。あの男は、こんな顔が見たかったのだろうか。
 剣八は押し黙ったまま、一護の着物の乱れを直してくれた。くしゃくしゃになった髪も、手で撫付けて整える。泣いて擦って真っ赤になった頬に指を伸ばし、途中でやめた。
 なんでやめるんだ。中途半端に上がった手を掴み、一護は自分の頬に引き寄せた。剣八の指。男に触れられた頬にくっつけて、それから唇に押し付けた。分かってくれただろうか。もう怖くない。怖くないんだ。
「すまん」
 謝って欲しいんじゃ、と顔を上げると、唇を塞がれた。男が撫で回した太腿に触れられ、そっと体が被さってくる。
 あぁ、すまんって、そういうこと。
 ちょっと呆れて、けれど嬉しくなった。他の男に触られたことが我慢ならないのだ。俺のものだ、そう言いながら掻き抱かれて、少し前まで感じていた不安が幾分軽くなった。
 剣八。
 声無く呼んで、一護は背中に手を回した。
 一緒にいたいんだ。そう願うのは、やはり俺が生き汚いからだろうか。卑怯な理由で縋り付いているのだとしたら、一生話せなくていい、そう思った。人の気持ちなんて、言葉にしなければそうそう分かるものじゃない。だから声など一生戻らなくていいんだ。
 だから傍にいさせてくれよ、剣八。
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