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  渡る世間に鬼ひとり  


 阿近の一日は、現世時間で言う五時に起きることから始まる。最初にすることはまず読書。顔を洗うよりもまず読書だ。一時間ほど書物との付き合いを堪能すると、だいたい六時になっている。隣で眠る同居人を起こし、朝食を作らせている間に、阿近はようやく顔を洗い始めるのだ。六時半から七時過ぎまでのんびりと朝食を食べ、新聞を読み、途中で飽きて投げ出した怪し気な製作途中の機械を弄っていると、あっという間に出勤時刻になる。勤め先である技術開発局に、定時出勤という概念など無いのだが、彼の狂った生活リズムは同居人にまで反映してしまう。だから今しばらく彼は規則正しい生活を続ける必要があった。
「いってらっしゃい」
 律儀に玄関まで見送りにくる同居人は、数ヶ月ほど前と比べるとややふっくらとしていた。しかし以前が痩せすぎなだけに、もっと太らせる必要があるな、と阿近は思った。特に尻だ、尻。もっとむちっとした感じが、自分としては好ましい。まあ、今の小さな尻であれば、出産後に尻が垂れるという惨事は免れるだろうから、それはそれでよしなのかもしれないが。
「行かねえの? 遅刻するぞ」
「あぁ」
 まさか尻に思いを馳せていたなどとは言えず、阿近はいつもと同じ時間に自宅を出発した。しかし数歩と歩かず戻ってくると、まだ玄関先に立っていた同居人を捕まえ、懇々と言い諭した。
「いいか、一護。部屋の掃除はしなくていいからな。前みたいに倒れてきた本で生き埋めになるのが関の山だ。絶対するな。それから近所のガキ共と一緒になって遊ぶのも禁止だ。いくら暇だからって、今度鬼ごとなんぞしてみろ、お前じゃない、あいつらに痛い目見せてやるからな。それと散歩は家の周りのみだ。‥‥‥‥なに? せめて町内だけでもだと? 駄目だ、放し飼いする気はない」
 分かったか、という問いにうんと返事をするまで視線を合わせていると、先に逸らしたのは向こうのほうだった。渋々頷き、不満そうに唇を尖らせている。近々子供を産むというのに、こいつのなんと子供っぽいことだろう。阿近は急に不安になるやら落ち着かないやらで、アヒルのように突き出された唇を引っ張っていた。
「今言ったこと、ちゃんと守れよ」
「ひゃい」
 不安だ、ものすごく。
 発信器と盗聴器を付けておくか。と考えが及んだところで、まるで局長みたいじゃねえか、と若干へこんだ阿近だった。



 技術開発局には、今密かなブームが襲来している。
「なんだこれ、ホルマリン漬けか? いくら相手が阿近だからって、弁当にこれはねえだろ」
「色が最悪。茶色ばっかだな」
「唯一の彩りがふりかけだけとは」
「これ、絶対昨日の残りものですよね」
「‥‥‥‥‥貴様ら、人の弁当に難癖つけて楽しいか?」
 楽しい! と一斉に答えが返ってきた。そうか、貴様ら殺す。
 箸をメスに持ち変え、振り返ったときにはもう局員達は逃走していた。幾人かは振り返り、くすくす笑っては挑発している。普段からかえない相手をからかうことができて、楽しくてしょうがないという様子だった。その顔面目がけて刃物を投げつけてやりたいところだったが、彼らが単なる意地悪な気持ちだけでそうしているのではないことを阿近は知っていた。彼らは羨ましいのだ。
 技術開発局は敬遠される存在だった。というのも日夜怪しい研究に勤しんでいるから、というだけではない。その出自を、他の死神達は知っているからである。蛆虫の巣と呼ばれる収容所から、頭の出来がいい者達だけがどうにかして掬いとられ、一カ所に集められた技局。未だに監視の対象だということは容易に知れている。常に恐れられ、遠ざけられる局員達。誰もが過去を引きずっていた。あそこには戻りたくなかった。そのためには研究で成果を上げるしか無い。身を削って研究に没頭する日々に、余裕など無かった。
 しかし蛆虫と呼ばれる彼らの一人に、近く子供が誕生する。彼らは羨ましく、嫉妬し、そして嬉しくもあった。だからああして下手な手段で阿近に喜びを伝えてくるのだ。根性は曲がっているが、魂までは腐っていない連中である。
 指摘通り、昨日の残りものばかりが詰め込まれた弁当に、阿近は箸をつけた。全体的に茶色なのが食欲を刺激しないが、作ってもらっている身が言える立場ではない。ホルマリン漬けと揶揄された酢のものを口に含み、味はそれほど悪くはないんだ、と内心思う。
「阿近さーん」
「どうした、リン」
 菓子の食べカスを口に付けた局員の一人が、阿近の研究室に顔を見せた。一瞬、阿近と弁当に視線が往復し、ぶへっと笑う。しかし冷たい一瞥にすぐさま口元を引き締めると、用件を告げた。
「九番隊の副隊長がいらっしゃってます」
「いないと言え」
「え、あの、でも、昨日も、一昨日も、来てましたよ‥‥」
「いないもんはいないんだ。そう開き直れ」
「はぁ、はい」
 自信なさげに消えていったリンだったが、数分ほどして戻ってきた。
「だっ、だからぁっ、いないんですってぇ! あ、だめ、そこから先は入っちゃ駄目ですってぇ!」
 連れてきてどうする、阿呆。
 彼は一人ではなかった。押し問答する相手の声が、間もなくして聞こえた。
「阿近が研究室以外のどこにいるってーんだ! あん!?」
「あ、阿近さんだって、たまには、外に、出かけることもありますよっ」
「あの引きこもりが好んで外に出るわけねーだろ!」
 いいからどけっ。押しのけられたのか、リンの悲鳴がした。どすどすと廊下を歩く音がして、ドアの前で止まる。間髪入れず、外側から扉が蹴り開けられた。
「いるじゃねえかよ!!」
 貴重な昼休みの時間を邪魔しにきたのは、九番隊の副隊長、檜佐木修兵、その男だった。怒りの形相で阿近の元までやってくると、どういうことだと問いつめてくる。
「どういうって? 主語と目的語をはっきりさせろ。それさえできない馬鹿と話すのは御免だ。帰れ」
「お前と一護のことだよ! 何で一緒に暮らしてんだ!」
「何がいけない」
「なに、何がって、そりゃあ‥‥」
「俺のものに手を出すなって言いてえのか。だが、あいつがいつお前のものになった。えぇ、おい、一度寝たからか? 違うだろう。他の男にとられたのが気に食わねえだけだろうが」
 それとも。
「あいつが好きなのか? 本気だとでも今さら言うつもりか。はン、遅かったな」
「‥‥‥じゃ、じゃあ、あれ、本当なのか?」
 あれ、というのが何を指すのかは明白だった。なにせ酷い騒ぎに発展したものだから、他隊にも伝わっていたのだろう。
 つい先月、一護は所属する隊に長期休暇の申請を出した。受け取った隊長はそれを見て、血を吐いて昏倒し、副隊長は口を「お」の形にして固まった。理由の欄にはこう書かれていた。
『出産及び、育児のため』
 腹の膨らみ始めた一護が、もう誤摩化せないと思い下した苦渋の決断に、十三番隊は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。あの男勝りの黒崎が、いやむしろ男じゃねえかと思ってたのにあの黒崎がっ、と隊員達は信じられなかったようで、特に男達は頭を抱えて混乱した。
 一方女達は驚きはしたものの、一護を祝福した。結婚前に子供ができることは、尸魂界ではそう珍しいことではない。して、相手は? とコイバナ大好きな女性達はうきうきと詰め寄った。
『‥‥‥‥い、言いたくありません』
 俺の名前を出せと言ったのにあのバカは、この期に及んで抵抗した。言えません、いやむしろ知りません、俺一人でこさえました、などと苦しい言い訳を展開したのだ。まったく見ていられなかった。そう、阿近はことの成り行きをずっと見守っていたのだ。
 追いつめられて、それでも口を割らない一護に諦めという引導を渡しに、阿近は十三番隊に足を踏み入れた。一護、と優しく名を呼べば、喧噪が止み、突然入ってきた男に隊員達の視線が集中した。なぜこの男がここに? という表情を浮かべて注視してくる。一護と目が合い、阿近は微笑んだ。顔面だけは良い男の思いがけない微笑に、女性隊員達がきゅんとする一方、一護は青ざめていた。
『報告は済んだか? 帰るぞ、一護』
 一護が逃走を図る前に、すばやく腰に手を回して引き寄せる。端から見れば優雅な動作だったが、実際には相当な力で一護を押さえつけていた。「逃げようとしたらここで接吻してやるからな」と脅してやるまで、手負いの獣みたいに暴れていた。
『い、一、護‥‥‥まさか、腹の子供の父親というのは、』
 復活した浮竹隊長が、震える指先を阿近に向けた。悪鬼巣窟の技局で主任を務め、悪逆非道と呼ばれる男。間違いであってくれ、という切実な思いが伝わってくるのだが、そこは阿近、ばっさりと望みを絶ってやった。
『俺ですけど、それが何か?』
 いやだぁああ!! と叫ぶと浮竹隊長は再び昏倒した。この人狙ってたな、と腕の中の一護を意識しながら阿近は思った。

「おいっ、阿近! 聞いてんのかよ!!」

 回想にふけっていた阿近が顔を上げると、怒りに満ちた修兵が目の前に立っていた。まだいたのか、と嫌味を吐くと、眉間にこれでもかと皺が寄って、そうなると修兵は飢えた野良犬によく似ていた。女には甘い顔を見せるくせに、男にはこれだ。一護は、どうしてこんな奴を好きになったんだ。
「一護だよ、一護。会わせろって」
「なんでだ」
「可愛がってた後輩だぞ。事情聞いたっていいだろ」
「なら俺が教えてやる。お前に弄ばれ傷心だった一護を慰めた俺にフォーリンラブ。ついでに孕んだ。以上だ」
 出てけ、しっし。
 箸で追い払うと、修兵はまた眉間に皺を寄せ、今度は吼えるように反論した。
「俺は弄んだつもりはねえよ!」
「ほーう」
 この男は、真実を知ったときも同じことを言えるのだろうか。腹の子供の父親が自分だと知って、では今日から真面目に働くとでも?
 できないだろう。できないくせに。目の前から突然自分のものだと思っていた玩具を取り上げられたから、お前は憤っているに過ぎないんだ。
「修兵、何をこだわってんだ」
「俺は別に、」
「本当のことを言え。一護が好きなのか? 取り戻したいのか? 腹の子供が自分と無関係でもいいって思えるほど一護のこと愛してるんなら、今言ってみろ」
 俺は何をしているのだろう。
 一護がいまだ恋情をひきずっているのは分かり切っていることだった。ここで修兵が愛してるなどと言ってみろ。晴れて両思い。自分のいる意味など何も無い。一護を守る理由も、すべて無くなるのだ。
「言えよ」
 出掛けのことを思い出す。腹に手を当てた一護が、たどたどしく「いってらっしゃい」と言う。そういえば俺は、「行ってくる」と言ったことが一度も無かったな。いつも「あぁ」とか「じゃあな」とか、ぞんざいな言葉しか返していなかった気がする。
 唐突に、後悔が襲った。「いってらっしゃい」には「いってきます」だろう、馬鹿野郎が。
「‥‥‥‥あいつは、」
 いつまでも無言で立ち尽くす修兵が、自分と重なった。
「あいつは、一途だ。一度好きになった男のことを、そう簡単に忘れるような奴じゃない」
 可哀想なくらいのひたむきさは、見ていて痛々しかった。そのくせ、引き際は潔い。たとえ心は引きずっていても、相手を思えばこそ身を引くことができる。一護とは、そういう人間だった。
 そういう人間が、どうして幸せになれない。阿近はこのとき、怒りさえ抱いていた。
「修兵」
「なんだよ」
「俺は今日、残業をする」
「はぁ?」
「用は済んだな。俺はメシの最中なんだ」
 この茶色い弁当とも今日が最後になるかもしれない。珍しく感傷的になる己を自覚し、だったら最初から首を突っ込むべきではなかったんだと自嘲した。



 修兵に宣言した通り、阿近はたっぷりと残業した。定時出勤、定時帰宅が最近の常である彼の行動に、局員達は一様に不審がり、中には帰ったほうがいいんじゃないかと促す者までいた。普段鬼畜と呼ばれる彼らの気遣いを鼻で笑い、阿近は面会拒絶の札を研究室の扉にかけて深夜まで研究に没頭した。
 一段落ついたときには、日にちを跨いでいた。最近染み付いた習慣からか、どうしても時計を確認してしまう。体は安眠できる場所はあそこだけだと訴えているかのように、阿近を技局の外へと導いていった。
 月が出ていた。細く欠けた月だった。一護の斬魄刀を思い出し、阿近は思わず口端を歪めていた。
 斬魄刀の具象化で、一度だけ阿近の目の前に現れた男の特徴は、闇夜に浮かぶ月というよりも、まさに闇そのものだった。斬月というのは月を侵す暗闇を指すのだろう。派手な髪色が太陽を思わせる一護に、彼はあまりにも似合っていなかった。
 陰鬱な雰囲気の男はゆらゆらと輪郭を揺らしながら、無言で主に寄り添っていた。一護におっさんと呼ばれる彼は、見た目は四十がらみの男だった。もっと若いのかもしれないが、斬魄刀に年齢を当てはめるのは馬鹿げている。主の心を反映するのか、今まで見てきた斬魄刀の具象化は主従似通っていることが多い。しかしこの二人のなんと相反することか。一護自身はまったく気にしていないのか、おっさん、おっさん、と呼ぶ声は、まるで家族と接するような親しみに溢れていた。本当はお父さんと呼びたいんじゃないかと阿近がからかうと、一護は頬を一瞬で紅潮させたから、あながち外れてはいないのかもしれない。
 そう、一護はふとした瞬間に寂しさを露呈させる子供だった。
 そんなだから、男を引き寄せ、つけ込まれる。一護、男はな、お前が思っている以上に愚かで卑怯な奴らばかりなんだぞ。お前のためだと嘯いて、その実自分のためだ。俺も、修兵も。
 月を見上げながら歩いていたというのに、阿近は正確な足取りで自宅へと戻っていた。簡素な門構えに、表札のかかっていない玄関。一見空家に見えるこじんまりとした一軒家が、阿近の住処だった。
 柱の行灯に火は入っていなかった。つまりは、一護がいないということだ。どうやら修兵は、首尾よく連れ出したらしい。さて、ふたりはどこに行き着くのだろう。破綻は目に見えていたが、阿近は今度こそ絶対に手など差し伸べてはやらないぞ、と固く心に決めていた。それに一護はもう一人ではない。母は強しと言う言葉を、阿近は今だけ信じたい気持ちになっていた。
 そういえば、一護は一度も助けてとは言ってこなかったな。
 おかしさが笑いとなってこみ上げた。そうだ、そう、一護は言ってない。なのにいつの間にか、こっちが助けてやってるんだと、そうするべきなのだと傲慢にも思い上がっていた。一護を弱くさせているのは他でもない、俺ではないか。
 痙攣する横隔膜を抑えながら、阿近は扉に鍵を差し込んだ。不気味に笑いながら扉を横に滑らせ敷居を跨ぐと、先の見えない暗い廊下が阿近を出迎えてくれた。壁の背に沿うように、資料が左右に積み上げられている廊下だ。その間を縫って歩くのにはコツを必要とした。踏みしめるポイントを間違えると、床板がたわみ、一気に資料が頭上から襲いかかってくる仕掛けとなっている。いや、仕掛けた覚えは無いのだが。
 そのポイントを熟知した阿近が、草履を脱いで家に上がったときだった。

 ドサドサドサ!!

 埃とほどけた資料の頁が、ひらひらと阿近の視界を舞った。建て付け、悪くなったかな。足で資料を払いながら、取り敢えず寝間に向かおうとすると、むぎゅ、と何か柔らかいものを踏みつけた。
「うぅ‥‥っ」
 ぎょっとして飛び退くと、積み重なった資料の山が揺れ動く。夜目に慣れた阿近が、まさかと足下を見下ろした。
「いってて、‥‥‥‥あ、おかえりなさい」
 妊婦を踏んだ男、阿近。
 数ある渾名の一つに新たに加わったそれに、阿近は柄にも無く冷や汗をかいた。何かを言うよりも早く、いまだ資料に埋まったままの一護を掘り起こす。自分のうわずった声が、後から思えば恥ずかしかった。
「何やってんだっ、いや、何でここにいるんだっ」
 たかが紙といえど束になり山となって落ちてくればときには人の命を奪うこともある。わずかに震える指先を、怪我は無いかと全身に滑らせた。柔らかな頬、薄い肩、折れそうな手首。思えばこうして触れるのは初めてだった。なんて頼りない体だろう。その体の中に、さらに頼りない命が息衝いているなんて信じられなかった。
「廊下を歩くときは気を付けろとあれほど言っただろうがっ」
「気をつけてはいたんだけど、」
 へら、と笑った一護だったが、阿近の言葉に、次にはもう表情を凍らせていた。
「どうして修兵についていかなかったんだ」
 暗闇の中、一護が息を呑むのが分かった。わずかに戦慄いた肩を両手で引き寄せ、阿近は息がかかるほど近くまで顔を寄せた。
「どうして、まだここにいるんだ。それとも修兵は来なかったのか?」
「来た、けど」
 あまりにも近い二人の距離に、一護は戸惑っているようだった。離れようともがいていたが、やがては諦めると、決まり悪げに呟いた。
「だって阿近さんが、良い子にして待ってろって言ってたから」
「なんだと?」
「待ってろって、いつも言うだろ。俺、料理もそんな上手くねえし、できることっていったら掃除くらいなのに、阿近さんはどこも触るなって言うから、だから、せめて言われたことくらいは守ることにしようって、そう思ってて、それで」
 それで、ついていかなったというのか。想い慕っているというのに。腹に子供までいるのに。俺なんかに気兼ねして、それじゃあまるで。
「阿近さん?」
 一護が不審に思うほど、長い間黙りこんでいたらしい。下から覗き込むように一護の顔が近づき、前髪が額をくすぐった。
 近い。すぐそこに、一護がいる。出ていこうと思えば出ていけた筈なのに、ここに、吐息が触れ合うほど近くに、一護がいる。夜なのが惜しい。もっと鮮明に、お前が見たい。
 まるでそうすることが当たり前のように、気がつけば、阿近は唇を重ねていた。
「期待、するからな」
「っへ? あれ、今、え」
 もう一度。今度は勘違いだなんて思えないほど、しっかりと重ねた。一護の体が、阿近の腕の中で強張るのが分かった。がちがちに固まった体の筋肉を解すように肩から背へとゆっくり撫でながら、顔の角度を変えて唇を食む。ぽかんと開いた口に侵入するのは実に容易かった。
 この唇を、修兵も味わったのか。温かい舌を器用に捕らえながら、阿近は薄く目を開けて一護を見た。しっかりばっちり瞼を開け、一護は唖然としてた。こっちが本気になって口付けているというのにまるで石のように動かない。
 だったら、と体を資料の散乱した床に優しく横たえる。手は胸元に伸び、ようとしたが途中で進路を変え、腹に着地した。薄い寝間着越しに感じる、ほんの少し膨らんだ腹部。そこを丁寧にさすりながら、唇には濃厚に吸いついた。次第に呼吸を荒げ始めた一護が、押し返そうと阿近の胸に手をつく。混乱した一護の目がしきりに瞬きを繰り返していた。
「っん、んーっ」
 一度息継ぎのために顔を離し、また重ねた。一護が何かを言おうとしていたようだが、くぐもった音になるだけだった。執拗なほどに唇を貪っていると、胸を押し返す一護の手が、いつしか阿近の着物をしっかりと握りしめていた。どうせなら背中に回してくれればいいのに。ならばとこちらから一護の背中に手を差し入れ、腹に負担がかからないよう抱きしめた。
「あ、あこんさん、っあ、あ」
 不器用な呼吸がいじらしい。一護の細い喉が、二人分の唾液を飲み下そうとこくりと動く。下しきれなかった雫が零れ、顎を伝った。喘ぐように息をする一護は苦し気で、これ以上は負担かとようやく顔を離す。けれども濡れた唇を、阿近は名残惜し気にちろちろと舐めた。
「気分、悪くねえか?」
「‥‥‥ん、だい、じょぶ」
 ぷは、と息をして、一護は目尻に溜まった涙を拭った。唇同様、濡れた瞳でこちらを見上げ、視線が合った瞬間、恥ずかしそうに逸らしてしまう。まんざらではない、か。らしくなく動悸がして、阿近は気まずさを誤摩化すように、息を乱す一護の背中をさすった。
「本当に大丈夫か?」
「ん、」
「ならいいんだが。‥‥‥‥なぁ、一護」
 果たして、資料の絨毯の上で横になりながら言うことだろうか。だが今しかないと思った。
「蛆虫の巣って知ってるか。俺が、昔いたところなんだが」
「聞いたことある」
「蛆虫だ、俺は。今は技局でそれなりの地位に就いてはいるが、元は、他人から蛆虫と呼ばれていたような人間なんだ。お前が知らない、知りたくもないようなことをされたし、やってきた。‥‥あぁ、そんな顔をするな、自分を卑下してるわけじゃない。ただ、お前には知っておいてほしかったんだ」
 顔を寄せ、唇を食む。一護は嫌がる素振りを見せなかった。蛆虫云々など、些末な問題に過ぎなかったのだ。
 ひとしきり唇を愛撫し合った後、阿近は唐突に訊いた。
「名前は、もう考えたのか?」
「‥‥‥‥まだ」
「だったら俺が考えてもいいか?」
「うん」
 一護はあっさり了承すると、全身の力を抜いた。やっと心を許した野良猫が、主人の膝に乗ったときのようなくつろいだ顔をしている。規則的な吐息が、阿近の胸に当たった。
 柔らかい重みを引き寄せながら、阿近は暗い天井を見上げた。大きく息を吸って、吐きだす。胸が熱い。
 泣きたいと思ったのは、初めてだった。














 翌日、瀞霊廷で顔を合わせた修兵は片頬を赤くさせていた。見ようによっては手形に見えなくもない。昨日の出来事を想像し、阿近は口元を歪めた。
「よお、フられ王子」
「うるせえ! フられてねえよ!!」
「何して殴られたんだ?」
「こ、これはっ」
 どうせキスでもしようとして拒まれたんだろう。ざまーみろ。
 にやにや笑って技局に行こうとしたが、修兵が何か言いた気だったので、腐れ縁の誼で聞いてやることにした。
「一護はもう俺のこと好きじゃねえよ」
「ふうん」
「前は俺と話すだけで顔真っ赤にさせてたのに、昨日行ったらすっげえ困った顔された」
「お前よりも大事なものができたんだろう」
「っけ、言ってろ」
 おそらくぶたれたであろう頬を押さえ、修兵は悔しそうに顔を背けた。何であっても阿近には負けたくないという気持ちが伝わってくる。二人は対等だった。ただ、親友ではなかった。
「何だろなあ‥‥‥俺、すっげえでかい魚を逃した気がするんだわ。お前見てると、そう思う」
「だからってもう手え出すなよ。子供が産まれるんだ」
 名前、どうするかな。人名事典を捲ってみたが、いまいちぴんと来ない。同僚に相談するのは論外だ。修兵が黙り込んでいるのをいいことに、頭の中をいくつもの名前が飛び交っていった。
「‥‥‥‥なあ、もし腹の中の子供の父親が俺だったらさ、お前みたいに、俺も変われたと思うか?」
「ん? なんだって?」
「いや、聞こえなかったんならいいや。じゃーな、俺これからデートなんだよ」
「その顔で行くのか? 湿布貼ってやろうか」
「いらね、お前からその手の物品は受け取らねえことにしてんだ。つーか、お前の優しさよりも、女に優しくされたいね、俺は。だから行くわ」
 修兵は背を向け、ひらひらと手を振った。その背中に一護は惚れたのだろうかと思うほど、広くて堂々としていた。比べて自分は研究ばかりでろくに鍛えてもいないから、骨張っているし色も白い。一護、がっかりしないだろうか。互いに一度も裸を見せたことのない清い仲を思い、阿近は少しだけ己の不摂生を後悔した。
 修兵の背中が見えなくなった頃だった。
「悪いな、修兵」
 小さな呟きは、直後に吹いた風に浚われていった。

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