「その微笑みだけで私はもう」
「キャー!」
突然叫び出した友人に、一護は思わず身構えた。
虚夜宮にいて、同じ破面に襲われることは皆無ではない。
「藍染様だわっ、相変わらず素敵‥‥‥っ」
蕩けた声音で言われた台詞に、一護は構えた状態からガタガタと崩れ落ちた。傍では同じくメノリが呆れた表情でロリを眺めていた。
「あぁんっ、なんて凛々しいのっ、‥‥‥ってクソ! 邪魔だグリムジョー! 藍染様が見えねー!!」
前後のギャップがいっそ素晴らしい。こうなってしまうとしばらく元には戻らない。
向かいの建物の廊下を颯爽と歩く藍染様を、一護もなんとはなしに見た。それにしても遠い。藍染様のお顔が豆粒程度にしか確認できない。よくぞ発見したものだ。
十刃会議が終了した直後だろう。藍染様の周辺を、お馴染みの十刃達が歩いていた。ロリいわく邪魔なグリムジョーが、絶妙なところで藍染様を隠している。
「後ろ歩けよバカ! なに隣でヤンキー歩きしてんだバカ!」
「おい、聞こえるぞ」
「いいのよっ、‥‥って今度は市丸様かよっ、どいてー!!」
「無理だよ一護。放っとこう」
結局、藍染様のお姿が廊下の端に消えるまで、ロリの歓声と罵倒は続いた。
「藍染様とお話がしたいわ‥‥」
恋する乙女のごとく頬を染め、ロリがそんなことを言い出した。
それも一護を見つめて。
「‥‥‥‥‥‥すれば?」
「簡単に言わないでよ!」
ドン!
テーブルに拳を叩き付けてロリは激昂した。
なんだ、悪いのは俺なのか。
一護は身を竦めてメノリに目配せした。メノリは苦笑して肩を竦めるだけで、我関せずを貫いた。すると怒っていたロリが、ふいに一護の両手を握りしめてきた。
「一護にお願いがあるの」
その上目遣いと猫なで声に一護はぞっとした。目の前のロリは文句無しに可愛いが、なにやらよからぬことが起こりそうな気がする。こういうときの直感は信じて間違いは無い。
「断る」
「まだ何も言ってないわよ。あのね」
「いやっ、言うな! 俺は絶対聞かないからな!!」
一護は両手を振りほどくと、己の耳を塞いで断固拒否の態度を示した。しかし今日のロリは強引だった。いつも強引だが、力では一護に敵わないので結局は引くのに、今日だけは違った。
逃げ回る一護にしがみつき、大声でお願いごとを言い始めた。
「あのねっ、一護にねっ、やってほしいことがあるんだけどっ!!」
「聞きたくねー!!」
「グリムジョーと仲が良いわよねっ、それでねっ、」
「良くねー! 聞こえねー!」
しかし結局は無理矢理聞かされた『お願いごと』というやつは、一護にとっては罰ゲームに等しいものだった。
一護は逃げたかった。逃げたい気持ちでいっぱいだった。
しかしできなかった。友人の淡い(どころか濃すぎる)恋心を少しでも満たす為に、やらなくてはならないことがあるからだ。ときとして恋は友情を上回るが、友情が無ければ成就しない恋もある、だから一護協力しなさい、というのがロリの論理だ。
「ロリの論理‥‥‥」
一人で吹き出していると、廊下の向こうで気配がした。一護は途端に身震いした。
駄目だ、やっぱり逃げよう、ときとして自身の安全の確保は恋する友人をも上回る。
「一護?」
しかし遅かった。二人の間にはまだ随分と距離があった筈なのに、そいつはいつの間にやってきたのか、柱の後ろに隠れている一護を不思議そうに覗き込んでいた。
「何してんだよ。まさか俺のこと待ってたのか?」
嬉しそうな顔で見下ろしてくる男に、一護は引き攣る口元を抑えることができなかった。自然と後ろに下がる一護の体を、男が強引に引き寄せる。
‥‥‥っに、逃げたい。
「よ、よお、グリムジョー、実は‥‥っん、話が‥‥んんっ、はなし‥‥んんん!?」
喋ろうとする一護の唇を何度も啄み、ついには深く重ねてきた。柱に一護の背中を押し付けて、ぐぐっと体重をかけながら、グリムジョーが濃厚なキスを仕掛けてくる。
口内で這い回る舌に一護は内心叫びながらも、視線を横へとずらした。遠い柱の向こうから、ロリとメノリがちょこんと顔だけを出してこちらを伺っていた。
『ムリっ、ムリムリ! 俺は逃げるっ』
一護は片手をぱたぱた動かしてそう意志を伝えた。ロリは即座に両腕を交差させてバツを作り、メノリは拳を突き立ててエールを贈ってきた。
「はぁ‥‥一護、俺の部屋に行こうぜ」
一旦唇を離すと、グリムジョーが悩まし気に囁いてくる。耳元で台詞を吐かれ、一護が思わず反応すると、気を良くしたグリムジョーが再度顔を近づけてきた。
これでは話が進まない。一護は掌でグリムジョーの口元を押しとどめると、極力笑顔で対応した。
「‥‥‥その前に、話があるんだけど」
部屋には行かない、絶対行かない、俺は無傷で生還する。
呪文のように唱えた後に、一護は上目遣いにまるで懇願するようにグリムジョーを見つめた。ロリから伝授された乙女の技その一だ。グリムジョーは初めて見る一護の可愛らしい仕草に、驚いたように目を見開いていた。
「グリムジョーにお願いが、あ、ある、‥‥‥‥あるの」
口元を押さえる方とは別の手をグリムジョーの胸にそっと当て、一護は体を擦り寄せた。甘えるような動作だが、内心ではロリに指示された自分の口調に一護はのたうち回っていた。
「‥‥‥実は、御前会議のことなんだけど、」
グリムジョーの短い眉が跳ね上がった。こんなにも艶っぽい雰囲気なのに、どうして話題がそれなんだと言いたげだ。
ちなみに御前会議とは、藍染様を筆頭に十刃とその従属官が集う会議のことだ。数字持ちであっても、十刃の従属官でなければ出席することは叶わない。ロリはもちろん、一護だって出席なんてしたことのない会議だ。
「で、出てみたいなーって‥‥」
ものすごく不自然なお願いごとだ。グリムジョーにどう突っ込まれるかで不安だったが、一護は恐る恐る口元に当てた手を離した。
「出てどうすんだよ」
「‥‥‥‥ちょっと、興味があってだな、」
「つまんねーって。藍染がだらだら喋ってるだけだ」
直後、物音がした。一護の視界の端に、今にも柱から飛び出しそうになっている憤怒の表情のロリを、後ろからメノリが押さえ込んでいる姿が映った。振り返ろうとするグリムジョーの頬を一護は慌てて掴んで固定した。
「ただの好奇心っ、だからグリムジョー、お前の従属官ってことにして、一回でいいから参加させてほしいんだよ、‥‥‥‥‥ダメ?」
首を右に傾けること三十六度。ロリいわく、この角度が重要らしい。
ほんとかよ、と半信半疑な一護だったが、グリムジョーの表情に変化があった。
「別に、駄目じゃねえけど、」
あと一押しだ。一護は人差し指で、グリムジョーの胸をつつ‥‥となぞった。
「‥‥‥‥一回でいいんだな?」
「っお、おう! いいのか!?」
思ったよりもずっとうまくいった。グリムジョーを籠絡して会議に紛れ込むというロリの作戦に、当初は無謀と判断したが、なんだ意外とやれるじゃないか。俺もまだ捨てたもんじゃないな、と一人感心していると、視界がぐるっと回転した。
「じゃあ、ここで一回やらせろ」
その言葉の意味を理解するのに、一護は数秒を要した。次には全身の血がさーっと引いて、途端に押し寄せた。
「何考えてんだよ!?」
「あぁ? んだよ、暴れんな、誰か来るだろうが」
もう来てんだよっ、とは言えず、一護は暴れに暴れまくった。
「ここじゃ全部は脱がせられねえけど、いいよな」
露出の少ない一護の服の隙間から手を入れると、グリムジョーが我が物顔で体に触れてきた。背中に当たる床の冷たさと、肌を這い回るグリムジョーの手の熱さ。相反する熱が一護を遅い、不安にさせた。
「嫌だっ、」
「だから暴れんなって。酷くされんの好きじゃねえだろ」
「いやっ、」
「後で部屋に行ったらゆっくり抱いてやっから、大人しくしろ」
上から唇を塞がれて、ねっとりと舌が這う。今度は侵入を許すまいと、一護は必死に唇を引き結んだ。抵抗する一護に焦れて、グリムジョーが舌打ちとともに乱暴に袴を下着と一緒に引きずり下ろそうとした。一護が声にならない悲鳴を上げたときだった。
「てめえっグリムジョーっ、一護から離れろ!」
その蹴りは、完全に油断していたグリムジョーの側頭部に見事に決まった。ロリの短いスカートが舞い上がり、下着がちらりと見える様が一護の目にスローモーションで映った。
唖然とする一護の体が強い力で引っ張られる。メノリが素早く一護を立たせ、走れと叫んだ。後ろからグリムジョーの罵倒が聞こえ、それに追い立てられるようにして一護は無我夢中で足を動かした。
どれほど走っただろうか。気付けば一護も知らない建物の廊下で、三人は息を乱して座り込んでいた。グリムジョーが追ってくる気配は無い。
「‥‥‥‥た、助かった、」
顔を上げた瞬間、一護はロリに押し倒されていた。
「ロっ、リっ!?」
ぎゅうぎゅう抱きしめてくるだけでロリは何も言わなかった。ロリの仮面が一護の頬にごりごり当たって、正直痛い。
「ロリ。一護の顔が痣になる」
後ろからロリを引き剥がしてくれたメノリが冷静にそう言うものの、その目には悔恨の色が伺える。暴れてぐちゃぐちゃになった一護の髪を、メノリがそっと整えてくれた。
「‥‥‥‥結局、失敗しちゃったな」
「そんなの、もうどうでもいいのよ。‥‥‥ごめんね」
まさかの謝罪に一護は狼狽えた。いつも我が儘で自信満々で自己中心的なあのロリが。慣れるとそんな性格も可愛いものだと思えてくるが、こんなふうにしおらしく落ち込む様は初めて見る。
「‥‥‥馬鹿ね。藍染様が私なんかに振り向いてくれる筈無いのに。そんな分かりきったことの為に、あんたを危険な目に合わせちゃった」
自嘲気味に笑い、ロリは俯いた。ツインテールが寂し気に揺れ、一護は何か言葉をかけようとするものの、気の利いた台詞は何も浮かんでこない。代わりに頭を撫でてやると、ロリが小さく溜息を漏らした。
「やっぱり恋より友情ね。恋はいつだってできるけど、友情は無くしたら中々取り戻せないもの」
「‥‥ロリが珍しくまともなこと言ってる」
「うっさいメノリ! 一護もなにびっくりした顔してんのよ!」
だってあのロリだ。
一護とメノリの視線が合い、同じことを思った。
「キャーっ、藍染様ー!」
甲高い乙女の歓声の向こうに、優雅に歩く藍染様がいた。
「恋より友情じゃなかったのかよ」
「ロリの変わり身の早さは尋常じゃないな」
「イヤー素敵ーこっち向いてくださーい!」
聞こえよがしに囁きあう一護達には目もくれず、ロリはきゃあきゃあ言っていた。
彼方向こうの廊下を歩く藍染様に、真っ先に気がついたのはもちろんロリだ。恋は盲目というのは嘘に違いないと一護は思った。
そのとき藍染様が足を止め、こちらを見た。そして軽く手を振ってくれた。しかも笑顔付き。
三人揃って硬直し、一護とメノリは直後に慌てて頭を下げた。冷や汗が背中を伝う。一護にとって藍染様は恐れの対象だ。
しかし感動に打ち震えたロリは、憧れの藍染様が見えなくなるまで立ち尽くしたままだった。
「藍染様‥‥一生ついていきます‥‥っ」
やっぱりロリはロリだった。
一護とメノリの視線が合い、同時に項垂れた。