桃色、小豆、萌葱色。
女の子らしい色合いの晴れ着に身を包んだ一護が、手渡された点袋を見下ろし、ほわーと間抜けな声を上げた。何が入っているのかは知らないが、特別なものだということは分かる。
「ありがとー、じじい」
「これっ、一護!」
「きゃんっ」
隣に座っていた兄に耳を引っ張られ、一護は情けなく鳴いた。躾けに厳しい兄も同じく点袋をもらっていたが、小さな一護の手の中ではやけに大きく見えるのに対し、兄の手の中に入ったそれは随分小さく、紙切れのように見える。ちなみに「儂はもうそんな歳ではないのですが‥‥」と何度も遠慮をしていた。
兄妹二人のやりとりを目を細めて見守っていた元柳斎へと、一護は改めて礼を言うことにした。手を畳みについて、事前に教えられた通り頭を下げる。
「ありがとうございます。おじいちゃん」
「うむ」
勢いがつき過ぎて、一護の頭がごすっと畳にぶつかった。元柳斎がほっほっと笑い、兄が襟首を引っ張って助け起こしてくれた。
初めて貰った、お年玉。
赤くなった額をさすりながら、一護は初めてのそれを手にしげしげと見入った。随分軽いが何が入っているのだろう。ためしに振ってみると、ちゃりちゃりと音がした。
「一護、行儀が悪いぞ」
「だって、」
お菓子だろうか。でも飴玉はぶつかり合ってもこんな音はしない。金平糖とも違う。鼻を寄せても、甘い香りはしなかった。
「じいちゃん、これ何?」
中身は銭貨。しかし一護は実物をまだ見たことがなかった。死神として得た給料は左陣が管理しているし、欲しいものがあっても支払いをするのは兄、左陣の役目だった。お年玉だと言われてもまるでぴんとこない。そうだ中身を確かめたらいいんだ。思い立った一護は、元柳斎の前で点袋を開封した。
「一護!」
「よい、左陣。一護、ここにおいで」
皺くちゃの手が伸ばされ、一護はそれをとった。元柳斎の膝の上に遠慮なく座る一護に、狛村は肝を冷やす。相手がどれほど凄い人物か、一護は死神となった今もいまいち分かっていないふしがある。元柳斎殿は護廷で最高位に就いておられる方なのだぞ、と噛んで言い含めても、一護にとってはじいちゃんはじいちゃんだった。
「晴れ着がよう似合うておる」
「お腹が苦しいよ」
帯できつく締め付けられた腹を撫で、一護は不満を口にした。と、点袋の存在を思い出し、元柳斎の膝の上で中身を確認した。
「何だこれ、おかき?」
「銭貨じゃよ。これ一枚で、一環じゃ」
「いっかん?」
元柳斎はこれで買い物ができることを説明した。一枚でどれだけのものが買えるのか、丁寧に教えを施す。本来ならば狛村の役目であるのだが、まだ早いと先延ばしにしていた。一護のことだ、金銭を持っていると知られれば簡単に騙し取られてしまうだろう。兄の不安は尽きなかった。
「大事に使うのじゃぞ」
「おう!」
「じいじは好きか」
「おう!」
元柳斎殿、前後の会話がまったく繋がっておりません。一護は勢いで言ってるだけです。
それでも血の繋がらない祖父と孫の和やかな情景に、狛村は獣の耳をぴくぴくと上機嫌に動かしたのだった。
一番隊を出た後、狛村は年始の挨拶へと各隊舎に出かけていった。一護も一緒に来るかと誘われたが、それには首を振り、行きたいところがあるからと兄に別れを告げた。
護廷には、いつもの死覇装姿の人間の他に、一護のように晴れ着を着た女性や、紋付の羽織袴を着た男性の姿が多く見られた。三が日の間、非番の隊員達が挨拶回りにやって来ているのだ。一護ぐらいの子供の姿もちらほらといた。護廷が一年で一番賑やかになる時期が、三が日だった。
いつもより多く人がごった返す敷地内で、普通とは異なる耳をした一護は実に目立っていた。隊員なら既に一護の存在を見聞きしているだろうが、その家族ともなるとそうはいかない。あからさまに指を差されたり凝視されたりする中を、一護は窮屈な晴れ着姿でちょこちょこと歩いていた。
石を投げられたり鎌を持って追いかけられないだけマシだ。そのうち誰も気にしなくなる。死神になった日から、何度となく自分に言い聞かせてきた言葉を頭で唱える。歩く速度が上がったことには、自分でも気付かなかった。
人気の多い中庭を抜けると、一転静かな廊下に出た。十番隊は、もう少し先だ。乱菊はいるだろうか。いたら晴れ着姿を見せて褒めてもらおう。初めてもらったお年玉を自慢しよう。想像すると、頬が緩んだ。
「ん?」
跳ねるように廊下を移動していると、前方で何か動くものを見つけた。ひらひら。そう、ひらひらだ。廊下の途中、にゅっと突き出ている。
最初に蝶々が浮かんだが、あんなに大きなものは見たことがなかった。それにずっと同じ場所でひらひらしている。ぱっと見は白くて、一護はもっと近くで見ようと吸い寄せられるようにして近づいていった。動くものに自然と引き寄せられるのは獣の性。相手はそれをよく理解していたとは、一護自身まったく理解していなかった。
「あ」
白いひらひらが、人の手だと気付いたときには、一護は扉の奥へと引きずりこまれていた。
「‥‥‥‥!! ーーーー‥‥!!」
一護の小さな口を塞ぐ大きな掌。噛み付こうにも、すっぽりと覆われている。暴れる手足も、持ち上げられてしまえば意味を為さない。兄貴っ、とくぐもる声で助けを呼んだ、そのときだった。
「堪忍」
ふっと呼吸が楽になる。同時に羽交い締めにしていた体が離れ、一護は床の上に崩れ落ちた。身体を丸めたまま、背後にいる人物を恐る恐る見上げる。暗くてよく分からなかったが、男のようだった。その男が一歩こちらに踏み出してきたので、一護はきゃっと声を上げて震え出した。
「あぁ、堪忍、堪忍な、一護ちゃん。まさかそないに怯えるとは思わんかったんや」
「‥‥‥‥‥ギン?」
「うん。ほんまにごめんな」
すっかりへたれてぷるぷる震える耳を撫で、ギンは神妙な様子で謝った。その姿がいつもと違ってしおらしかったので、一護はついつい見栄を張ってしまった。
「べ、べっつにぃ、俺、全然怖くなかったぜ!」
「あ、そお? よかったー」
俯かせていた顔をぱっと上げると、ギンはいつもの飄々とした顔でけらけらと笑った。自分がただからかわれていたことに気がついた一護は、頬を膨らませ耳をぴんと立てた。その姿に、ギンはなおも笑った。
「ギン!」
「あはは、ごめ〜ん」
「謝ってねえ! このっ、このっ!」
「痛い痛い、一護ちゃん、隊長に何するん」
「お前が悪いんだろっ、ほんとに、ほんとに怖かったんだぞ!」
それだけじゃない。自分がここに来るまでどんなに心細かったか、恐ろしかったか。石を投げられなくても、鎌で追いかけられなくても、あのたくさんの目が自分を追いつめてきた。本当に、本当に、
「怖かったんだからなぁ‥‥‥っ」
拳を握った手が、ギンの羽織を掴んだ。それから顔を埋め、一護はしくしくと泣き始めた。
「一護ちゃん?」
動揺した雰囲気が、掴んだ羽織から伝わってくる。ざまあみろ。一護はくすんと鼻を鳴らした。
「どしたん、ここに来るまでになんぞあったん?」
あの大きな白い手が一護の頭を撫でた。兄とは違う、どこか繊細な手。頬を包み込まれ、無理矢理顔を上げさせられる。涙で歪んだ視界に、ギンのどこか心配する顔が映った。それを見た途端、再び涙腺が緩み、一護は正面からギンに抱きついて泣いた。
「ギンっ、ギンっ、」
「どないしたん、なあ、」
「‥‥‥‥きかないで」
ぎゅーっと抱きつき、一護は鼻を擦り付けた。泣きたいときは、兄に縋って自分の匂いをつけるのだ。兄も同じように鼻先を一護の肩口に押し付け、匂いをつけてくれた。すると安心して、もう何にも怖くない。
「ギン、同じことやって」
「えぇ?」
「こうやって、こう。お願い」
ギンの肩口、骨張って固いところに鼻を押し当て、一護はすりすりと撫付けた。潤んだ目でギンを見上げ、こうだよ、と何度も実演する。
「一護ちゃん、ほんまにええの?」
「うん。俺、ギンにこうされたい」
泣き疲れてぐったりとした体をギンに預け、一護はなおもすりすりと顔を動かす。それはまるで甘えているようで、そして誘っているようでもあった。一護にとっては親愛表現に過ぎなかったが、ギンは違った。一護に対して近頃ただならぬ感情を抱いている、この男にとっては。
「ほんまにええんやね」
言って、一護の肩ではなく、首筋にギンの鼻先が埋まった。しかし鼻を擦り付けるというよりも、それは唇が辿るといったほうが正しかった。
「ギンっ、く、くすぐったい、」
吐息が触れ、一護は思わず身を捩って笑った。けれどギンはやめるどころか、ふっと息を吹きかけてくる。まるで遊びだ。そうか、これは遊びなんだ。元気づけてくれてるんだと解釈した一護は、同じようにギンの耳にふっと息を吹きかけた。
「一護ちゃん」
「うわぁ!」
いきなり顔を上げるからびっくりするじゃないか。至近距離にある狐目を驚いて見返すと、ギンがゆっくりとその双眸を現した。普段は細めて見えないことの多いギンの目は、綺麗な綺麗な水色をしていた。冬の澄み切った空の色だ。一護はじっと見つめ、そう思い至った。
「きれいやなあ」
「何が?」
「一護ちゃんの目。ほんまきれいやわ」
「俺の? どこが? ただの茶色じゃん」
それよりギンのほうがずっとずっと綺麗だ。いつまでも見ていたくなるような冬の空。同じ色をしているギンの目のほうが。
「ううん、ただの茶色やない。鼈甲色や。それもおいそれとは手に入れられん、最高級の鼈甲」
ギンの長い指が、一護の眦をするりと撫でる。その指が後頭部を引き寄せ、次にはもう抱きすくめられていた。
「一護ちゃん、‥‥‥あぁ、一護ちゃんっ」
「ギン?」
「もう、辛抱できん、こんな格好で来てボクを、‥‥‥‥堪忍な、堪忍やで」
苦しそうな声にきょとんと見上げれば、ギンが応えるようにして唇を吊り上げた。それは意地悪どころか、優しい表情をつくりだす。子供の一護でも思わず見惚れてしまうような表情だった。
「きれい」
自然と口を衝いて出た感嘆。ギンはいっそう笑みを深め、一護の耳に鼻先を寄せた。愛おしむように毛並みに触れ、すりすりと摩擦する。
一方、ギンの右手は一護の帯にかかっていた。帯留めを外し、背中に回って結び目を解く。百戦錬磨のギンにとって、それは実に容易いことだった。
安心しきって身を任せている一護には悪いが、誘ってきたのは向こうのほうだ。もう躊躇うものかと、帯を一気に緩めた。
ほんま、堪忍な。
心の中で謝って、着物を肩から外そうとしたときだった。かさりと何かが指先に当たった。引き抜いてみると、それは点袋だった。
「あっ、俺の!」
ぱっと奪い取られ、ギンは呆気にとられた。一護が大事そうに点袋を握りしめながら、今朝のことを話し始めた。
「お年玉って言うんだろ。俺、初めて貰ったんだ」
封を開け、一護は中から一環取り出してギンに見せた。そして誇らし気に言った。
「これで金平糖が三升買えるんだぞ。そうだ、ギンにも買ってやる。すりすりしてくれたから、お礼!」
にこーっと邪気のない笑みを向けられた瞬間、ギンは胸に刃物を突き立てられたような衝撃を味わった。ふら、と後ろに仰け反ったが、いいや負けるなと持ち直す。去年はここでやられたが、今年はものにしてみせる。良心なんぞ、クソくらえ。
「‥‥‥‥おおきに、一護ちゃん。それよりもな、」
「あ、それとも干し柿のほうがいい? 去年、何回も奢ってくれただろ。な、そっちのほうがいい? 俺、ギンに喜んでもらいたいんだ。だって友達だもん」
にこ、にこ、にこーーー!!
「‥‥‥‥‥‥っほ、干し柿で、」
純粋という恐ろしい武器にメッタ刺しにされ、ひとでなしは敢えなく完敗した。
駄目だ、どうしても駄目だ。一護の自分を信頼しきった瞳を見ていると、残りカス状態の良心がズキズキ痛む。罪悪感が生まれ、内側から責めてくる。そんでもって天使のギンが現れ、「あかんよ、そんなことしたら!」と説教してくる。最悪だ。
「あれ、帯がほどけてる」
「あ、あ、あの、ごめん、」
「どうしよ。なあギン、着付けってできる?」
「で、できます。させていただきます!」
それでええんや、今年も良いお年を。
天使のギンが、にっこり笑った。