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  01 Bad Morning  


 虫の知らせ、というものがある。
 朝、といっても虚圏において朝はないので、現世時間でいうところの朝になる。午前六時半に起きた一護は、六時にセットしていた目覚まし時計を睨みつけた。
「‥‥‥んだよ、なんで止まってんだよ」
 寝起きの悪い一護の為に、爆音を鳴り響かせる目覚まし時計が、今日に限ってうんともすんとも言わなかった。
 三十分の寝坊。時計をベッドに軽く叩き付け、一護は急いで洗面所に向かった。
「うおっ!?」
 つんのめって、気付いたときにはすっ転んでいた。これが床とキスというやつか。
「だーもうっ! 腹立つな!」
 床に落ちたシーツに足を取られたのだと気がついて、一護はシーツをくしゃくしゃにすると何度か殴って今度こそ洗面所に向かった。
 しかし、それからも不幸の連続だった。
 蛇口は外れるは、洗顔フォームと整髪剤を間違えて付けてしまうは、角に足の小指をぶつけるはで、まさに踏んだり蹴ったりだった。支度を済ませて部屋を出る頃には既に疲労困憊、一護はふらふらしながら藍染の私室を目指した。
「悪い、待たせたな」
 藍染の私室の前では、給仕係の破面が、朝食を乗せたワゴンの側で立っていた。定時よりも数分の遅れに一護は申し訳なく思い、破面に労いの言葉を掛けてから下がらせた。
「藍染様、入ってもよろしいでしょうか」
 ノックを数回、許しの言葉をもらい、一護は重厚な扉を押し開けた。ワゴンを押しながら、寝室に向かう。感じる霊圧は二つ。
「お早うございます、藍染様」
「お早う、一護」
 一度目礼して、一護はテーブルに食事を並べ始めた。二人分のそれを、向かい合わせにすばやく丁寧に配置する。本来、下っ端破面の仕事だが、藍染が私室に限られた者の入室しか許していないので、必然的に一護がすることになる。
「今日は遅かったね」
「申し訳ございません、寝坊してしまいました」
「君が? 珍しいこともあるものだ」
 朝から不幸続きだったとは弁解せず、一護は曖昧な笑みを浮かべた。
「尸魂界にいたときは、無遅刻無欠席だったじゃないか」
「はぁ‥‥‥あのときは、無遅刻無欠席者に贈られる景品に目が眩んでただけです」
「今は何ももらえないから頑張る気になれない?」
「まさか! 今日だけです、こんな失態は、‥‥たぶん」
 返事は必ず顔を上げてするようにしているから、嫌でも藍染の隣にいる人物が目に入るのだが、一護はさらりと流して会話を続けた。同じベッドに誰がいようが狼狽えてはいけない。昨日と違う人物がいようとも、女ではなく男が素っ裸で寝ていようとも、藍染のすることに一護は一切口出しする気はなかった。しかし、ある日ギンが寝ていたときは、あぎゃーっ、と叫ばないまでも顔はそうなっていたと思う。
「どうぞ」
 朝食の準備を滞り無く済ませると、一護は羽織を手にベッドに近寄った。着やすいように大きく広げ、立ち上がった藍染の肩に掛けてやる。そのとき、同衾していた相手と目が合ったが、一護は自然な動作で逸らしてみせた。
「俺はこれで失礼します。今日は申し訳ございませんでした」
「気にしないでくれ。君も疲れているんだろう」
 藍染の手が一護の頭を撫で、優しく許してくれた。しかし、二度と同じことを繰り返してはならないと、一護は肝に命じていた。同じ失敗を繰り返す部下など、藍染は必要としていない。尸魂界を裏切り、虚圏まで藍染を慕って付いてきたのだ。捨てられては生きていけない、だからこんな失敗はこれきりだ。
「‥‥‥‥藍染様?」
 ふと、視線を感じた。一護の頭に手を置いたまま、藍染がこちらをじっと見つめている。
 まさか怒っているのだろうか。一護が不安な表情を浮かべた途端、藍染の手が離れていった。
「いつもありがとう。私は君に、とても感謝しているんだ」
「はぁ。光栄、です」
 何かが変だと思った。何が、と具体的に説明するのは難しかったが、いつも向けられる視線とは違っていた気がする。
 まあいいか、と一護はこのとき楽観視していた。














 十刃を招集した会議が終わり、それぞれが自宮に戻る中、一護も私室に戻ろうと踵を返したときだった。
「一護」
 穏やかな低音が、一護を引き止めた。振り返り、何でしょう、と用件を聞く。
「ここに」
 おいで、と手招きされて、一護は素直に藍染の元に侍る。上座に座る藍染の左横で足を止め、言いつけを待った。
「そうだね、何から話そうか‥‥」
 藍染の話は、尸魂界のくだりから始まった。五番隊に、一護が入隊してきた日の話から。
「君と雛森君、阿散井君と吉良君。霊術院の優秀生を、私は同時に手に入れることができた」
「手を回したんでしょう?」
「そう。うちで教育して、各隊に配備するという名目で」
 恋次は適正無しと判断されて、早々に十一番隊に配置換えされた。一護とは一番気が合って仲が良かっただけに、そのときは残念でならなかったことを覚えている。
「雛森君と吉良君は、とても御しやすく扱いやすかった。対して君は‥‥‥そうだね、単純に見せかけて、とても複雑な子だったよ。ちっとも私に懐いてくれなかったね」
「そうでしたっけ」
「そうだよ。私と会うと、胡散臭い、といつも顔に書いてあった」
 一護は苦笑いを浮かべ、不器用に視線を外して床を見た。
「けれど、今はこうして私の傍にいる」
「はい」
「私に、全幅の信頼を?」
「置いています。貴方についていくと決めたときから、揺らいだことはありません」
「‥‥‥‥それは良かった」
 なんだろう、やはり何かがいつもと違う。違和感なのか、腹の底がじくじくする。うなじの産毛が逆立つような、いつもなら感じない体の変調。
 危険。己の片割れ、虚のほうが、自分に危険を知らせている?
「あのっ、藍染様、お話は、それだけですか? 俺、もう行かないと」
 失礼だとは思ったが、ここにこれ以上いてはならない気がした。一護が一歩後じさろうとしたとき、腕を掴まれた。
「待ちなさい。行ってもいいとは言ってないよ」
 振り払え、逃げろ一護!
 もう一人が、虚の自分が、やはり逃げろと言っている。一護は緩く首を横に振り、拒絶の意を示した。
「背が伸びたね」
「っえ、あ‥‥?」
「虚圏に来てから、体の成長が著しいようだ。ここの空気のほうが、肌に合うのかな?」
「‥‥‥分かり、ません、」
 打ち止めだと思っていた身長が、ここ虚圏に来てから伸びたのは確かだ。来る前であったなら、現世で言うと十二、三歳くらいの幼い容貌と体つきをしていた筈なのに、まるで思い出したかのように体が成長を始めた。
 内にある虚と、虚圏の霊子が反応し合って成長を促したのか、今の一護は十五歳くらいに見える。
「怯えないで。何も酷いことはしない」
 そのあまりにも柔らかい声音に一護は一瞬力を抜いてしまった。それが、いけなかった。
 ぐいっ、と引っ張られ、一護が床を踏みしめても駄目だった。体は藍染の膝の上に乗せられて、気付けばすぐそこに吐息を感じる。藍染の端正な顔をこんなに近くで見るのは初めてで、一護は息を呑んだ。
「可愛らしくなった‥‥」
 目を細め、見下ろしてくる藍染の体の影が、一護を暗く染めた。
















「ギーーーンーーー!!」
 がんがんがんっ、という騒音に、ギンは眠りの世界から無理矢理現実の世界へと引き戻される羽目になった。ずるりとソファから半分落ちた状態で、ギンは目をこすりながらも扉を見やる。
「一護ちゃん‥‥‥?」
「開けろーっ! 今すぐっ、可及的すみゃかにっ!!」
「思っくそ噛んどるやん。待ちぃ、今開けたるから」
 冷静とまでは言わないが、普段は落ち着いている一護が何を取り乱しているのだろう。動揺した様子が扉の外からも伝わってきて、ギンは首を傾げながらも扉を開けた。
「入るぞ!」
 顔を見せたギンを押しのけ、一護が室内に飛び込んできた。呆気にとられるギンを置いて、転がるようにソファに座ると、一護は両手で口元を押さえて黙り込んでしまった。
「どしたん? 舌でも噛んだんか?」
 隣に腰を下ろし、一護の顔を覗き込んだギンはむっと眉を寄せた。
「‥‥‥震えとるんか? 歯がガチガチ言うとる」
 一護はきつく口元を押さえ、細い体を震わせていた。顔も若干青ざめていて、なにかあったことは明白だ。
「どこぞの破面に、何かされたんか?」
 今までにも何度かそういったことがあったから、ギンはまたかと舌を打った。一護の肩に手を回し、胸へと引き寄せるとうんと優しく慰めた。
「大丈夫。そんな奴、ボクが懲らしめたるさかい、もう震えんとき」
 華奢な体を包み込んで、もう大丈夫だと言い聞かせる。
「ボクの胸で泣いたらええ。ところでその不届きモンは、どこのどいつや?」
「‥‥‥‥藍染様、」
「ほうか、藍染はんか‥‥‥‥‥‥何やて?」
 珍しく、ギンの表情が強張った。今のは聞き間違いではないかと、一護を見下ろした。
「藍染様に、キスされそうになった‥‥‥」
 今度は、ギンの全身が強張った。
 あのオッサン、ついにやりよったーーーー!
「ギンっ、どうしよう俺っ、突き飛ばして逃げてきちまったんだけど! やばい!? これってやばいのか!?」
 放心するギンの胸ぐらを掴んで揺らし、一護が半泣きになって訴えてくる。がっくんがっくん揺すられて、ギンはようやく正気に戻った。
「‥‥‥キスされてないんやな?」
「咄嗟に顔逸らした。ほっぺたに当たったけど」
 なおも求められたが、途中で邪魔(という名の一護にとっては救いの手)が入ったという。隙を突いて脱したものの、私室に戻るのも怖く、ギンの部屋に逃げ込んできたらしい。
「どうしたらいいんだっ、明日っ、どんな顔して会えばいい!?」
「ちょっと落ち着き、一護ちゃん」
「あぁそうだっ、冗談っ! 冗談かもしれねえよなっ! そうだよ冗談だっ、俺ってば何勘違いしてんだろはっはー!!」
 いや、冗談ではないだろう。
 冗談で部下にキスするようなセクハラ上司ではないことなど、長い付き合いのギンは分かっている。あの男は、気に入った相手がいたら、がっつり頂く派だ。キスだけで済ますわけが無い。
「今朝、寝坊したんだよ、だからちょっとしたお仕置きってやつだな!」
「寝坊したん?」
「目覚まし時計が壊れてたんだ。あとシーツに足を取られて転んだり、他にも散々な目に合った一日だった」
 それはいわゆる予兆ではないだろうか。
 迷信なんてものは一切信じないギンだったが、朝から続く一護の不幸の連続は、もしや藍染に食われるという最悪の結果に対して危険信号を発しているのでは。
「つーか俺、男みたいだし、がさつだし、顔も大したことねえしっ! 藍染様って面食いだろ、俺は無い、無いったら無い!」
「そうかなあ?」
 確かに一護は際立った美形ではないが、それなりに整った顔立ちをしていると思う。鋭い目つきが顔の印象をきつくしてはいるが、笑みは幼さが引き立った柔らかいものだし、ときどき浮かべる憂いの表情は大人びていて、目を奪われることが何度かあった。本人は子供のときの顔に慣れているせいか、今の自分がどういったものなのかは特に興味がないらしい。相変わらず髪も短くて、周囲に対して無防備で、自覚の無さが伺える。
「一護ちゃん、可愛らしくなったで?」
 そのとき、一護の顔が明らかに引き攣った。
「藍染様にも言われた‥‥」
 項垂れ、一護の体がまた震え出した。見ると、泣いていた。
「‥‥‥っう、うぅう、やだー‥‥」
「わっ、ちょっ、泣かんといて!」
 体の成長は著しくても、心まではそうはいかない、中身は一緒だ。大人ぶってはいるが実は幼い部分を十分に持っていて、感情のコントロールができなくなると、こうして幼い子供みたいに泣いてしまうのだ。
「藍染様は嫌じゃねえけど、藍染様とキスとかすんのは嫌だっ、‥‥おれ、俺ぇっ、どうしたら、い?」
「分かったから、鼻水拭きーな」
 泣き方はまったくの子供だ。ギンはちり紙で一護の鼻をかませてやりながら、自分はどちらにつくべきかを考えていた。
「迫られたら、すっげー変な顔したらいいかな、ヤる気が失せるような、」
「それは最後の手段にとっとき‥‥」
「は、初めてはっ、好きな人とがいーんだ、うぅ、っう、‥‥けほけほ!」
「乙女なんやねえ‥‥」
 背中を擦って頭を撫でて、そうしているうちにもう心は決まっていた。尸魂界を共に裏切り、反旗を翻した仲間の一人という点を除いても、ギンにとって一護は可愛い妹分だ。それにこんなにも健気で傷つきやすい、だから。

「諦め」

 ぽん、と一護の肩を叩いてギンは言った。嗚咽がぴたりと止まり、沈黙が落ちる。
「‥‥‥‥ギン。今、なんつった?」
「諦めって言ったけど?」
 にこにこと笑みを浮かべながら言うギンに、信じられないと一護の目が見開かれる。
「は、はーーー!? ここは普通味方になってくれるところだろー!?」
 涙を散らして掴み掛かってくる一護を難なく受けとめ、ギンはしれっと言ってやった。
「やってボクかてヤられてんねやで? それやのに一護ちゃんだけ逃げようなんて、ずるいわ」
「ずるっ‥‥‥てめえはどうせ藍染様が初めてじゃねえだろうがっ! ケツの一つや二つで器の小せえこと言ってんじゃねえよ!!」
「ケツは一つだけや! 二つに割れてるけど! あれ、でも一つ?」
「どっちだっていいわボケ! とにかく協力しろよっ、藍染様を止めてくれ!」
 必死に懇願する一護に揺さぶられながら、ギンは思った。
 これは面白いことになってきた、と。

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