囚人日記

  02  


 夢だ。
「一護さん」
 夢を見ている。
「ねえ、一護さん」
 甘く蕩けた声で呼ぶ、この男。誰だっただろう。
 知っているのに、名前が出てこない。
「もう帰っちゃうの?」
 帰る?
 どこに。自分は記憶を失って、どこに帰ればいいのか分からないのに。この男は、何を言っているのだろう。
「泊まっていきましょうよ。ね?」
 腕をそっと捕らえられ、引き寄せられる。手の厚み、体温。懐かしいと思った。
「二人で、良い夢見ましょう」
 夢の中で見る夢。
 いけない。出られなくなる。目覚めないと。
「愛してる」
 目覚めないと。



「一護さん」
 夢の続きかと思った。
 一護はぱちぱちと瞬きを繰り返し、ぼんやりとした頭をゆっくりと巡らせる。
 夢の中で見た男が、目の前にいてぎょっとした。
「取調べの最中に寝ないでくれます?」
「お、おう‥‥」
 顔は同じだが、声音と、そして雰囲気がまったく違う。別人だ。
 夢の中の男が溶けたチョコレートだとしたら、今目の前にいる男はスルメみたいな乾物を思わせた。自分でもよく分からない喩えだが、まさにその通りだった。
「緊張感を持ってください。君は一応、護廷に不法侵入した旅禍なんだから」
「旅禍‥‥」
 不意に、胸がざわめいた。背筋が粟立つような、不安、懐かしさ。
 言葉を失った一護に、男が訝しむ。
「まだ寝ぼけてます?」
 男の手が、一護の二の腕辺りに触れて揺さぶった。その感触が、夢の中の男のそれと重なって。

『愛してる』

「ーーーーーうわぁっ、‥‥えっ、わわ!」
 思わず撥ね除け仰け反った拍子に、一護の視界がぐるっと回った。直後に垂直落下。派手な音を立てて、一護は椅子ごと床に倒れ込んだ。
「何やってるんですか、君」
 男の呆れた声が降ってくる。スルメみたいな乾いた声。一護は打った背中を押さえ、声にならない返事をした。
 あの不可解な夢のせいだ。「愛してる」の後にどうなったのかは思い出したくもない。
 ただでさえ囚人という切羽詰まった状況にあるというのに、よりにもよってあんな不埒な夢を見てしまうなんてと、自己嫌悪に陥った。
「顔が赤いですよ。熱?」
「ぎゃっ、いいからっ、俺に触るな!」
「せっかく心配してやってるのに‥‥」
 倒れた椅子を起こし、一護は座り直した。
「どんな夢を見てたんですか」
「え!? ななっ、なん、なんでそんなことっ」
「記憶を取り戻す足がかりになるかもしれないじゃないですか。忘れてるといっても、体は覚えてるもんなんスよ」
 あれから一護が思い出したことといったら、名前に当てられた漢字だけだった。一等賞の一に、守護の護。親の顔は思い出せないが、良い名だと思う。
「外からショックを受けて強制的に記憶が飛ばされたか、それとも自ら封じ込めたのか。記憶喪失になる原因と言えば二つに一つ。君を発見したときにすぐ身体検査を行ったけど、特に外傷は見当たらなかった。となると、原因は君にあるという可能性が高い」
「俺?」
「人間は脆い。そして繊細だ。見えない力によって、見えない部分に傷を負う」
「よく分かんねぇんだけど」
「辛いことや悲しいこと、それらが心の許容量を超えると、人間は自身を守ろうとする。簡単ですよ、忘れてしまえばいい」
「‥‥‥俺が、忘れたくて忘れたって言いたいのか?」
「あくまで可能性の一つですがね」
 一護は険しい表情をつくると男を見据えた。へらりと笑い返され、緊張感の無いそれに腹が立つ。
 忘れた理由。考えたこともなかった。過去の自分ばかりが気になっていたが、誰かが、何かが、自分に何かしたのかなんて。いや、もしかしたら、自分ではなく、別の、大切な何かに、誰かが、何かを‥‥?
「あぁーーー!! ややこしいっ、分かんねえもんは分かんねえんだよ!!」
「そればっかり。聞き飽きましたよ」
 へっ、と嘲笑されて一護の頭に血が上った。看守だろうが知るかと内心で吐き捨て、机越しに胸ぐらを掴み上げる。男が嫌そうに顔を顰め、一護を振り払おうと手首に触れた。

『壊しちゃいそう』

 二度目のフラッシュバック。
 振り払われる前に一護は手を離し、よろよろと後退した。膝裏に椅子が当たり、鈍い痛みを覚えるもすぐにどうでもよくなった。
 男の顔を凝視して、恐る恐る、一護は口にした。
「浦原、さん‥‥‥?」
 男の表情が変わった。緩んでいた表情が強張り、鋭く睨みつけてくる。
 それは、男が初めて一護に向けた緊張と警戒だった。
「ボク、君に名前を教えましたっけ?」
 尋問に使う記録用紙に名前は記入するが、それを見せた覚えはないし、一護も見た覚えがなかった。
「教えてない筈だ。なのに、君はボクの名前を知っていた。もしかして下の名前も?」
「‥‥‥喜助?」
「そう。大当たりぃ〜」
 パンパンパン、と手拍子。
「君、何者?」
 直後に、一護は首を捉えられ、冷たい壁に押し付けられていた。
 殺気が突き刺さる。目の前の怜悧な瞳が、一護の締め上げられた喉を恐怖に引き攣らせた。
「気持ち悪いなぁ。ボクは知らないのに、君は知ってる。すごく気持ち悪い」
「‥‥‥っ、か、はっ」
 息ができない。
 視界がチカチカと点滅しだし、一護の思考能力を急速に奪っていった。
 遠くで声が聞こえる。甘い甘い、チョコレートみたいな声が。
『おやすみ、一護さん』

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