それは天使か悪魔か

  01  


「帰らなくていいの?」
 それは優雅なティータイム。
 七杯目を頂こうかとポットに手を伸ばしたところで、ネリエルの心配そうな声が一護の動きを止めた。
「いたら迷惑か?」
「いいえ、そういうわけではないけれど‥‥」
 そう言いつつも、ネリエルがポットを一護から遠ざけ、後ろに立っていたペッシェに渡してしまった。笑顔で妨害しないでほしい。
「飲み過ぎよ」
「酒じゃあるまいし、いいだろ」
「いけないわ。カフェインの過剰摂取は体に良くないのよ?」
「破面に健康を説くなよ」
 むっとして言い返しても、ネリエルが心底心配したような顔を向けてくるので、一護は仕方なく今日はお暇することにした。ネリエルの自宮を訪ねておよそ三時間半、もうちょっと粘りたかった。
「これ、よかったらどうぞ。弟さん達に分けてやって」
「気遣いは無用だ」
「散々飲み散らかしといて偉そうだなー」
「ペッシェ! ごめんなさいね、本当のこと言って‥‥」
 一護は引き攣る口元をそのままに、クッキーの入った包みを二つ受け取った。従属官もそうだが、ネリエルも失礼だ。
 そのとき扉が外側からノックされた。ペッシェが率先して扉へと近づき、誰かも聞かずに開いてしまう。
「ぬおぅ!?」
 棒みたいに細いペッシェの両足の間をすり抜け、小さな乱入者が部屋に飛び込んできた。それは一護達のところへ向かってくるが、途中何も無いところで転んだ。
 どんくせえ‥‥。
 一護が呆れた眼差しでそれを見下ろしていると、ネリエルが「まあまあ大変!」と言いながら小さなそれに駆け寄った。
「大丈夫?」
「‥‥‥う、うぅ」
「痛いの? 一人で立てるかしら?」
「ネリエル。甘やかすな」
 友人をどかし、一護はそれの前で膝も折らずに見下ろした。
「立てるな?」
 冷たく言い放つと、小さなそれはしゃくり上げながらもよろよろと立ち上がった。そして涙で潤んだ目を一護に向けてくる。
 なんだ、褒めてほしいのか。
「帰るぞ」
「あ!」
「もうっ、一護! せめて頭ぐらい撫でてやりなさいな!」
 なんで、面倒くさい。
 子供みたいにぷりぷり怒るネリエルを一度視界に入れ、また来るとだけ告げて一護は退出した。



 後ろで、また転ぶ音がした。
「おい、何回転ぶつもりだ」
 鬱陶しそうに振り返ると、やはり床に突っ伏している小さな姿があった。今度は中々起き上がろうとしなくて、一護は苛々しながらも傍まで近寄った。
 そして異変に気がつく。小さな足が、小刻みに痙攣していた。
「また弟にやられたのか」
 どうせ妙な薬でも飲まされたのだろう。兄貴のくせに、情けない。
「イール」
 このまま見捨てるにしても、まだネリエルの自宮の敷地内だ。放っておいたらまた小言を言われるに違いない。仕方なく、そう仕方なく、一護は手を差し伸べてやった。
「きょ、姉弟‥‥?」
「掴まれ」
「あ、うわ‥‥」
 驚いた声を上げる弟の体を持ち上げると、片腕に座らせるようにして抱いた。首根っこを掴んでぶらぶら持ち運んでもよかったが、今のこの弱った弟にすればたぶん死ぬ。
「あの、姉弟、」
「喋るな」
 言葉を遮り、一護は黙々と歩いた。腕の中では、一護の服に掴まってもよいものかと悩む弟が手を彷徨わせている。それくらい別に構わないのに、言わなければおそらくこの弟は何もしないしできないだろう。三姉弟の中で、一番弱く、しかし最も容姿の整った弟に、一護は苛立ちとそれ以上に憐憫の情を覚えた。
 ーーーせめて頭ぐらい撫でてやりなさいな。
「‥‥‥‥‥ぎゃ!」
 やらなきゃよかった。
 一護は苦虫を五万匹噛み潰したような顔で、上げた手をさっと下に下ろした。
 触れた金髪の感触が残る。なんて忌々しい。
 明日、ネリエルに八つ当たりしよう。そう決めて、己の自宮の入り口に差し掛かったとき、目の前でパンパンと破裂音がした。
「姉弟!?」
 腕の中の弟が悲鳴を上げ、一護に縋り付いてくる。それを何となく庇うように一護は身をひねって後ろに飛び退き、正面を睨みつけた。
 立ちこめる煙の合間から、ムカつくピンク色が見えた。
「あはは! びっくりしたあ?」
 パチパチと手を叩きながら、それは満面の笑みを浮かべていた。しかし一護の腕の中のものを見た瞬間、その表情を歪ませた。
「なんで兄さんが!」
 ヒステリックな声を上げて、一護の元へと駆けてくる。
 まだ自分の腹辺りにも満たない身長のそれの顔を、一護は平手打ちしていた。
「ザエル。まず謝罪を聞こうか」
 頬を押さえて呆然とするもう一人の弟に、一護は冷たい視線を向けた。こちらは腕の中にいる弟と違って、酷く残忍でプライドが高い。
 案の定、睨みつけてきた。
「なんだ、その目は」
「別に、姉さんに、じゃない‥‥」
 涙声。しかし嘘だと一護は知っている。手の中に隠した小瓶が今見えたぞ。
「悪戯はやめろと何度も言った筈だ。一度で理解できない馬鹿な弟はいらない」
 自尊心の塊みたいな弟が、馬鹿という言葉にひと際大きく反応した。手の中にある小瓶をさっと袖の中にしまい込む瞬間を一護は視界の隅で捉え、満足そうに唇を吊り上げた。
「それでいい」
 ピンク色の頭に手を伸ばし、しかし一護は触れる直前で停止した。いかんいかん、と手を引っ込めようとすると、何かに失望したような顔をした弟と目が合った。
 逡巡すること十数秒。
 一護はやけにゆっくり手を動かすと、ピンク頭を掠めるように撫で、すぐに手を引いた。
「行くぞ」
「姉さんっ、僕は? 僕は抱っこしてくれないの!?」
 服の裾をしつこく引っ張ってくる弟を躱し、一護は早足で自室を目指した。
 第二十刃、黒崎一護。
 弟達にどう接していいのか分からず、毎日友人宅に逃げ込んでいる。

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