闇を振り切るスピードで

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  壱、天国地獄  


 突然のことだった。
 目の前を歩く義兄は振り返り目を見張っていたが一護はそれをほんの一瞬視界に納めただけで、あとは振り返りもせずに駆け出した。
 後方からは驚く家人の声。けれど一護は振り返らない。
 走って、走って、走りまくった。
 背の高い草むら、それを掻き分けてただひたすらに足を動かし続ける。これを抜ければ開いた場所に出る、そんな気がした。
 頬が切れても、腕が切れても、草という凶器は一護を止めることなどできない。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、」
 高価な着物も土だらけだ。何度転んでも一護は立ち上がり、駆け抜けた。
 光が見える。
 ちらちらと消えては輝く、その光。
 一護は折れそうになる膝を叱咤してただそれだけを望むかのように光に向かって手を伸ばした。


「はぁっ、はぁっ、はぁ‥‥‥‥はぁ‥‥‥‥、」
 そこには何も無かった。
 一護が期待した、花の咲き誇る野原ではなかったのだ。
 何も掴めなかった拳をだらりと垂らし、一護は何かを耐えるように俯いた。
「何をしている」
 強い力で腕を引き寄せられた。背後には息一つ、傷一つ無い義兄が普段の無表情に険しい色を宿していた。
「何のつもりだ」
 そう言って、一護の腕を加減も無しに握り込む。けれど、一護は痛みに表情一つ変えなかった。
 ただ悄然と俯き、腕を引かれるままに足も動かした。
「逃げることなど許さぬ」
「‥‥‥‥逃げたんじゃない」
「何?」
 一護はそれ以上は答えず、虜囚のようについてくるだけだった。
「お前はもう朽木家の人間だ。斯様な真似は二度とするな」
「‥‥‥‥はい」
 一護は歩く。元来た道を、あれほど死ぬ気で駆けた道を、敗北者のようにただ、小さく小さく歩くことしかできなかった。

 逃げたのではない
 野を駆け、花を摘み、
 ただの一護に戻りたかった
 それだけだ

 それさえも許されないのなら、涙などいらない。
 花も、涙も、すべて、枯れてしまえばいい。







「気いつけや、朽木はん」
 からかうような声音に白哉は足を止めなかった。
「一護ちゃん、あれ死相が出とるで」
 わずかに揺れた白哉の肩。それに満足したギンはにたりと笑い、去っていった。


「ちゃんと食べてんのか」
「はい」
 ‥‥‥海燕さん。
 端でその会話を聞いていた清音はどきりとした。
 一護が海燕の名を呼ぶ声。まるで、それは、
「にしてもお前痩せたんじゃねえか?」
「太るよりかはマシです」
「いや、お前はもっと太ったほうがいい。そのうち自分の斬魄刀の重みで潰されちまうぞ」
「斬月は軽いですよ」
 ‥‥‥とっても。
 まただ。清音はびくりびくりと肩を震わせ、不安そうに辺りを見回した。誰も二人の会話を聞いている者はいない、それにほっとした。
「肉食え、肉。朽木家なら牛一頭丸々出せるだろ」
「そんなに食べれませんよ」
 ‥‥‥おかしな海燕さん。
 もうやめてくれ。
 清音は手袋をはめた両手で耳を塞いだ。これ以上は聞いていられない。
「じゃあ現世の任務に行ってきますね」
 耳を塞ぐ清音の横を、一護はふぅっと通り過ぎていった。その足取りたるやまさに貴族のそれ。
 一護の背中を不安そうな眼差しで清音は見送る。「いってらっしゃい」と言葉が出なかった。
 だって、一護は、
「何耳なんか塞いでんだ?」
「ぎゃ!!」
 飛び上がり、清音は振り返る。
 先ほどまで一護と言葉を交わしていた海燕。
 彼は、気付いていないのだろうか。
「あぁ? 何じろじろ見てんだ」
「別、に、」
 気付いてほしくないと思った。
 誰も、彼も、あの子の気持ちに気付かないでほしい。そっとしておいてほしい。
 なぜなら今の一護は、少しの傷でも死んでしまいそうだったから。





 現世の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
 何度も、何度も、体の内を綺麗に浄化するように、そして息をはく。黒いものでも吐き出されるのではないかと思ったが、出てくるのは無色透明のただの二酸化炭素だった。
 もう戻らなければならない。虚は小物で、ほんの数分で任務は終わってしまった。
 けれど帰りたくない。
 一護は今日の虚は中々に手強かったことにして、もう少し現世に留まることに決めた。すると地獄蝶が肩にとまる。賢いやつだと一護はほんの少し褒めるように笑った。

 帰りたくない。

 ここは天国だ。一護にとっての天国。あちらの世界とは違って誰も、何も、一護を押さえつけない。そこにいるだけで、自分はただの自分だった。
 義骸に入り、この現世に紛れて生きていこうと思ったのは一度や二度ではない。それは恐ろしいことだと分かってはいるけれど、帰りたくない気持ちがその考えを日に日に現実へと近づけていくのだ。
 まず精巧な義骸を手に入れ、霊圧を抑える器具も欲しい、それから記憶置換装置、これがあればうまく人間の中に溶け込み生活ができる。
 考えるだけで心が浮き立った。きっとその生活は楽しいに違いない。
 ふと、小さな子供と目が合った。やっと立てたくらいの赤ん坊のような幼い少女。ひらひらと手を振れば、嬉しそうに笑い、同じように手を振り返してくれた。
 生まれたばかりの子供は霊的なものに敏感だ。それが何かなんて分かってはいないのだろうが、一護にとっては嬉しかった。あちらの世界では誰も自分に笑いかけてはくれない。
 海燕以外には、誰も。
「海燕さん‥‥‥‥」
 風に乗って、その名はどこか遠くへ運ばれていった。
 誰も聞いていない。だからありったけの想いを込めて、それが宝物だと言うように大事に大事に呟いた。
 彼の人は自分のものにはならない。けれどそれでいいと思う。自分はきっと奥方を愛している海燕を好きになったのだから。自分がもし二人を引き裂いたとして、その時点で彼は自分の好きな彼ではなくなってしまう、そんな気がしていた。
 だからいいのだ。そっと、静かに彼を想おう。
 なんせ、最初で最後の恋なのだから。





 開いた視界の先には義兄がいた。
 背後で現世の扉が閉じる気配がする。後ろには退がれない、けれども前にも進めない。
「帰るぞ」
 この人の声は自分を縛る。雁字搦めに縛りつけられて、一護は動くことができなくなるのだ。
「一護」
 あの屋敷は嫌だ。あそこは暗い。
 暗く、重く、息苦しい。
「早くせぬか」
 嫌だ。
「はい、」
 嫌なんだ。
「兄様‥‥‥‥」

 ここは、地獄だ。
 だってこんなにも、胸が苦しい。
 きっと、死に方さえ選ばせてはくれない。そして恋さえも。
 だから、だからもう終わりにしよう。ただの一護に戻ってしまおう。


 その月、一護は地獄から姿を消した。


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