闇を振り切るスピードで

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  弐、手  


 いつも暗い表情で歩く一護を見かけていた。
 明るいオレンジ色の髪はそのままで、けれどその下にある筈の負けん気の強い表情はくすんで弱気にすら見せていた。笑みは儀礼的なものでしかなく、意志の強かった茶色の目は伏せられていることが多かった。
 乱暴な口調は丁寧なものへと変わり、きびきびした歩き方は俯き、静かな足取りとなった。
「今にも死にそうだな」
 そう言ったのはかつての上司だ。彼は貴族というものが嫌いだったけれど、一護に対しては同情に近い念を抱いていた。
 そうだ、一護は死にそうだった。日に日に痩せ細り、死の影が濃くなっていた。小さく萎んでそのまま消えてなくなりそうな、最後に顔を会わせた一護にはそんな印象を受けた。
 だから信じられなかったけれど、一護が現世で行方不明になったという報告を聞いたとき不吉な考えが頭をよぎった。
「死んじゃいねえよ、あいつは」
 まぎれもなく生きていると、海燕は毅然とした声でそう言った。
 訪ねた先は、十三番隊の隊舎。そこで恋次は同じ副官である海燕を前に、何か怒りを押し殺したように表情を歪め立っていた。
「そんな顔すんな。生きてるに決まってるだろーが。お前、幼馴染なんだからもっとあいつのこと信じてやれよ」
「‥‥‥‥俺には分かりません」
 一護が生きているだとか、死んでいるだとかは分からない。ましてや何を考えていたかなんて。
 昔のように互いを信頼し合っているならまだしも、朽木家の養女となった一護は何もかもが恋次の知る一護とは違っていた。
「あいつは変わっちまった」
 二人で子犬のように野を駆けたときとは訳が違う。
 自分は野良犬のままで、そして一護は手の届かない貴人となってしまったのだ。
「本当に変わっちまったらもっとマシな顔してるだろ」
 その言葉に分からないと言うように眉を寄せれば、海燕は苦い表情で庭に目を移した。そこでは一護がいつも掃除をしていた。
「一人でいるときは辛気くせー顔しやがってよ。かと言って誰かといるときは無理矢理作った笑み貼付けてやがる。あいつはきっと、今の生活が窮屈で仕方ねえんだろうな」
 それなら養女の話を断れば良かったのだ。
 そう思い、恋次は俯いた。視界には自分の手が映る。何も握られていない、空の手が。
「すぐに見つかる。あいつは席官じゃねえけど実力はあるんだ。今頃どこかをほっつき歩いてるさ」
 けれど一護は帰ってこない。怪我をしているのだとしても、連絡の一つもよこさないのだ。
 俯いたまま顔を上げようとしない恋次に焦れて、海燕は乱暴に胸ぐらを掴み上げた。
「信じられねえなら今すぐ失せろ。そんで一護が帰ってきても二度と会うんじゃねえよっ」
 どこか一護と面差しの似た海燕にすごまれ、恋次は息を呑んだ。
「あいつは生きてる。違うって言うんならここから消えろ」
 突き放すように海燕は恋次を離し、正面から睨みつけた。
「俺は、」
 死んだという噂に打ちのめされたが、そんな自分が許せなかった。一瞬でも信じた自分は口さがない者達と同等に品性の欠片もない。
 恋次は顔を上げ、

「‥‥‥‥あいつは、生きてる」

 拳を握りしめた。
 一護は生きている。
 それ以外は考えるな。
 見つけ出し、この空の手が一護を掴むことだけを考えていればいい。






「ほぅら、言うたやないですか」
 踊るように軽快なギンの声は、しかし緊迫した空気の中で響き渡った。
「ボクの言うた通りになりましたなあ」
「よせ、市丸」
 浮竹が止めようとするが、ギンはするりと前へ出ると去ろうとする白哉の隣に立った。
「自由に外を飛んどった蝶を檻の中に入れたら死んでしまうんは当然や。そんなことも分からんかったんですか」
「あれは人だ」
「でも中身はか弱いもんや。可哀想に、日増しに痩せていきよって」
 戯れに声を掛ければ一護は応じてくれるものの、その目は苦手だと言っていた。元来、感情を隠すのが下手な人種なのだろう。それでも感情を押し隠し、そしてできれば殺していったのだとしたら、一護が弱っていくのは当たり前のことだとギンは言う。
「ほんまは駆けていきとうてたまらんのちゃいます?」
「‥‥‥‥‥‥」
「一護ちゃんが」
 にま、と笑ってギンは後から付け足した。白哉の不快に歪む瞳の色に、自分のことを言われたと思ったのだろう。
 この感情の起伏に乏しい白哉をなおもからかおうとギンはその口を止めることはない。
「一護ちゃん、よく遠く見つめてぼうっとしとった。何もかもぜぇんぶ捨てて駆けていきたいって、そんな目ぇして佇んどった」
 すぅ、と白哉の目が細まったのをギンは見逃さなかった。
「怖い怖い。そんなこと許さん、て顔やなあ」
 それに一護がそうしたとしても追いかけ捕まえるのだろう。加減を知らない手で、脆い蝶を握り潰すかのように、その手に一護を捕まえてしまうのだ。
 可哀想な一護。
「でもなあ、朽木はん」
 一層笑みを深めてギンは絡めとるような声音で白哉へと囁いた。
「一護ちゃんは今や檻の外や。誰のもんでもない。‥‥‥‥せやから、」
 ギンは己の手をひらひらと動かし、

「捕まえたもん勝ちや」

 ぐ、と握った。








「よっしゃオレンジ頭、どっからでも投げてこいっ、手加減なんてするんじゃねーぞ!」
 そう言うので一護は手加減無しで、思い切り投げてやった。
「ヒィ!!」
 それはジン太の顔面すれすれを通り過ぎ、背後の壁に重い音を立てて跳ね返った。
「ストライーク」
「んな、なっ、」
 当たっていれば死んでいる。けれど言葉が出てこない。
「一護さん、今のはボールです。もしくは危険球」
「えぇ〜そうか? つーかお前が小せえからストライクゾーンが狭いんだよ」
 このチビ、と悪態をついて一護は箒を手に取り掃除を再開した。
「おい、ジン太、打てなかったら真面目に掃除するって約束だろ。とっととやりやがれ」
 子供の頭を潰しかけた罪悪感は微塵も無い。不遜な態度で早くしろと鋭い視線を一護は睨む。
「お三方、昼餉の準備ができましたぞ」
 テッサイが顔を出し、一護は軽く返事をした。
「あとちょっとだ」
 腹減ったとぼやくジン太を一護は小突き、それを見た雨が笑う。
 そんな光景を、店の奥から浦原が楽しそうに眺めていた。


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