闇を振り切るスピードで
四、鬼火
あの人の笑った顔が好きだった。
誰も本当の意味で自分には優しくなかったけれど、あの人だけは優しく遠慮が無くて、そして暖かかった。
だから好きになってしまった。出会ってすぐに、それが当たり前のように。
奥方がいると聞いても変わらずに好きだった。二人が一緒にいる光景を目にしても少しも不快な気分にはならなくて、むしろ似合いの様子にこちらまで幸せな気分になったのを覚えている。
一護、と元気の良い声音で呼ばれると頬の筋肉が否応無しに緩んでしまって、泣きたい気持ちがこみ上げた。昔、そうやって自分のことを呼んでくれる人が一人だけいたのを、どうしても思い出してしまうからだ。
海燕さん。
その名は不思議だ。呼ぶときはなぜかいつも舌足らずになってしまうのだ。変だとは思っても、やめることなんてできなかった。
恋次。
ああ、そうだ、恋次。‥‥‥‥れんじ、と呼んでいたときとちょっと似ている。
舌足らずにその名を呼んで、甘えたかったのかもしれない。
恋次。
勝手にいなくなったこと、心配しているだろうか。それともどうでもいいって思っているかもしれない。養女になったときから、すれ違っても喋ることができなかった。
でも悪いのは恋次だ。あのとき、お前が手を離したりするから。
行くなって、養女になんかなるなって言ったら、あの恐ろしくも美しい人の手を自分は簡単に振り払うことができたのに。
恋次、恋次。
死神にはならなくていいってお前は言ったな、自分だけでいいって。その通りだった。死神になんて、なるんじゃなかった。
ただお前の帰りを家で待っていれば良かった。
恋次、恋次、恋次、
逢いたい、謝りたい、
お前のせいだなんて嘘だよ。
だから、恋次、
ふ、と意識が覚醒した。何か夢を見ていた気がしたけれど思い出せない。誰かの話声が聞こえ、ここは瀞霊廷のどこだろうとぼやける思考で考えた。
「大丈夫か」
猫だ。
それも喋っている。ああ、まだ夢の中だと一護は思い、再び目を閉じて眠りにつこうとした。
「そろそろ起きるがよい」
ぷに、と頬に肉球が当たった。そしてゆさゆさと揺り動かされて、一護は薄らと目を開けた。
「起きたか?」
至近距離にある猫に一護はふわりと微笑んで、その毛並みをよしよしと撫でた。まだ意識は半分眠ったままでの行動だった。
「どうです、起きましたか。‥‥‥‥夜一サン?」
「愛い奴。喜助、こやつ、欲しい」
黒い毛並みの前足で一護を示し、夜一は欲しい欲しいとしきりに鳴いた。
「欲しいって、貰えるもんならアタシがとっくに貰ってますよ」
「勾引されそうなところを救ったのは儂じゃぞ。儂に権利がある」
枕元で交わされる会話の内容に、おかしく思った一護は今度こそ目を覚ました。こちらを覗き込んでくるのは猫と、そして世話になっていた怪しい男。
「‥‥‥ここ、」
「浦原商店っすよ」
どうして、と一護は目を見開き体を起こそうとしたが、それは寸でで止められた。
「市丸は、」
「儂が引っ掻いておいた」
爪を出して得意げに言う猫に驚いたが、その言葉に一護はもっと驚いた。
気を失った後、てっきり尸魂界に連れ戻されたと思っていたが、それはこの黒猫によって助けられたらしい。
「‥‥‥‥ありがとう、ございます、」
「よいよい」
「っさー、テッサイに頼んで何かつくってもらいましょう。ちょっと待っててくださいね」
一護に擦り寄ろうとした夜一を抱き上げて引き離すと浦原は立ち上がった。爪を立てられないように前足を持って、そのまま居間へと消えていった。
賑やかな空気から一転、しんとした空気の中で、一護は己の体を抱えるように丸まった。
自分はまだ天国にいる。
それは嬉しい筈なのに、寂しさに似た何かが胸へと去来し、どうして、と一護は一層体を縮め布団に顔を押し付けた。
意識の閉じる瞬間を思い出し、指が白くなるほどシーツを握る。
自分はあのとき、誰の名前を呼んだ?
「あ痛ぁ。あんの黒猫、思いきり引っ掻きよってからに」
手の甲に付けられた傷をぺろりと舐め、ギンはぶつぶつと悪態をついて廊下を歩いていた。
三本線がじんじんと痛む。けれどこれしきの傷で四番隊へは行く気にもなれず、仕方が無いので我慢することにした。
今回は逃してしまったが、あれはワザと逃がしてやったのだ。ことを一層面白くする為の前座に過ぎないと、ギンは笑みを深めて一護を想った。
大人しいとは思っていなかったがあれほどに気性の荒い子供だとは知らなかった。自信なさげな目しか見たことがなかったからか、あの敵意の籠った茶色の目には強烈な印象を受けた。
つつけばまだまだ知らない一護が出てくるのだろう。それを知ったときのことを考えれば、傷の痛みなど容易に忘れることができた。
三番隊へと戻る分かれ道でギンは足を止める。反対側から近づいてくる霊圧に、悪いクセが刺激された。
端から見れば心底楽しくて仕方ないという笑みを浮かべて、ギンは三番隊ではなく、近づいてくる霊圧のほうへと足を進めた。
「こんにちは、阿散井くん」
「‥‥‥‥‥どうも」
睨まれた、その視線の質が一護と似通っていてギンは面白いと内心で笑った。
「どないや? 一護ちゃんは見つかった?」
「‥‥‥‥いえ、」
知ってて聞くとは意地が悪いと自分でも思う。けれど苦悩するかのように表情を歪める恋次を見れば、苛めてやろうと意地の悪い考えがギンを突き動かした。
「今頃どうしてるんやろうねえ。案外あっちでうまくやっとるかもしれんよ」
ひく、と恋次の眦が引き攣った。
「朽木はんはそら恐ろしいお人やからなあ。‥‥‥‥それが分かっとったら、一護ちゃん離したりせえへんかったて、‥‥‥思うても遅いことか」
「何が言いたいんですか」
フフ、と笑ってギンは引っ掻かれた手で口を覆い、沈黙を作った。
そして恋次の苛々が最高潮に達したのを見計らって、言ってやった。
「キミには一護ちゃんは救えへんよ」
「な、」
「連れ戻してどうするん? また朽木はんに奪われるだけやないの」
「そんなことはさせねえよっ」
「キミがそう思とるだけやろ。いくら足掻いたところで朽木はんには勝てへん、違うか?」
薄く開いたギンの目には嘲りとそして抗いがたい真実があった。それを認めたくないと恋次は目を逸らし、いつの間にか汗をかいた拳を握る。
「キミみたいに分かりやすく燃えとる男はまだええけどな、たちが悪いんは燻っとる火ぃや」
自分よりも背の高い恋次を、気構えでは圧倒的に見下ろして、ギンはじわりじわりと追いつめる。
「傍目には燃えとるって分からへん。けどなぁ、あれは根深いで」
「何を、」
そこで恋次は何かに気付いたように言葉を切った。ギンはそうだと言うようにわずかに首を縦に振る。
「水を掛けても火は消えん。消えた思ても奥底で燃え続けとるからなあ。‥‥‥‥せやから念入りに、消さなあかんで」
ま、気張りや。
肩をたたき、ギンは恋次を残して立ち去った。
最後のあの恋次の顔。思い出しても笑いが止まらない。それを無理矢理内へと押し込め、これから始まる何かを期待して、再び傷に舌を這わせた。
当分は外に出ないほうがいいと言われたが、一護はその日の深夜、ちょうど日付が変わる頃に浦原商店を後にした。
ギンに見つかってしまったのだ。もうこの辺りにはいられない。
何も言わずに出てきてしまったのは悪いとは思うが迷惑をかけるよりはましだ。せっかく仲良くなれた店員達と別れるのは寂しかったけれど。
気付けば走っていた足は歩くものへと変わり、やがて立ち止まっていた。
浦原商店がある方角を振り返り、そして最後にお辞儀をして一護はまた歩き出した。
あそこでは自分はいつも笑っていられた。それがもうできなくなると思うと、目の奥が熱くなり、止まれと思うものの涙が次から次へと溢れ出た。
「‥‥‥‥クソっ」
乱暴に目元を払い、それでも滲む視界に胸を張り前を見据え、一護は歩き続けた。
厚い雲が上空で割れる。辺りが一気に明るくなって、一護の前に影を作った。それは、二つ。
自分と、それから、
「ーーーーーー!」
引き攣った喉では声を作ることはできなかった。
振り返ってはいけない。それは知ったフォルム、影の形。違う、なんて思わなかった。
「‥‥‥‥‥っ、」
走れ、走れ、逃げろ!
それなのに、足が動かない。
身に染み付いた恐怖が、足に枷を付けていた。
「どうした。逃げぬのか」
その声が、一護を縛る。
「あの日のように、駆けていきはしないのか」
低くて、それでいて優美な声。
綺麗な人だと思った。それが最初の印象。
「私は言ったな。斯様な真似は、二度とするなと」
恐ろしい人だと知ったのはそのすぐ後だ。無感動だと思った目は、自分しか映していなかった。
怖い、見るな、助けて。
「一護」
自分を呼ぶその声。優しくはない、けれど、冷たくもない。
燻る炎のように、後から後から熱を感じた。
初めて抱きしめられたとき、深く唇を重ねられたとき、その熱に死ぬかと思った。
「一護、一護、もう、」
己の体に触れてくる指は冷たい。けれど後から、熱が籠った。
胸へと閉じ込められて、怖いと、逃げたいと思うのに、トクトクと鳴る義兄の心臓の鼓動が一護を追いつめた。
どうしてそんなに速いんだ。どうして、詰らない。
朽木家の面汚しめと、頬をはってくれさえすれば、自分はきっと逃げられる。
「もう鬼ごとは終わりだ」
ああ、けれど、背中に回る腕は優しい。
近づいてくるその目は相変わらず自分しか映していなくて、それが一護の意志を奪う。
「‥‥‥‥兄様、」
血の繋がりが無いことなんて知っていた。
目の前にいるのはただの男。唇を重ねてくるのは、義兄などではない。
ただの一護とただの男。それが何より怖かった。
‥‥‥‥恋次、
だから、恋次、
「‥‥‥‥一護!!」
早く俺を、攫いにきて。