闇を振り切るスピードで
伍、血、涙
虫の知らせ。
そんなもの信じている訳ではなかった。けれどその日、その時だけは根拠のないそれに突き動かされて、恋次は現世へと降り立った。
ざわざわとした何かが胸を支配する。今日はおかしい、己の中でこれほどまでに理解しがたい焦燥感が渦巻くことは今までに一度もなかった。
そしてその焦燥感が急げと己に命令する。
「‥‥‥‥何だってんだよっ、」
誰かが自分を導くかのようだった。不思議な引力を感じて空を駆ければ、やがて雲が割れ、月が姿を現した。
その一瞬、大きく震えた霊圧が恋次を襲う。
「‥‥‥‥っ、」
鋭い氷のようなそれは恋次の上司のものだ。それが大きく乱れ、そして瞬時に消えた。
焦燥感が危機感へと変わる。それが何かだなんて考えている余裕は無く、恋次は霊圧のもとへと急いだ。大した距離でもないのに息が切れ、動悸が激しくなる。
見えた、まぎれもない白哉の姿。
そして白哉に抱き込まれ、自分の名前を呼んでいるのは、
「‥‥‥‥‥一護!!」
初めて唇を重ねられ、熱い吐息で絡められたとき、一番に思ったのは恋次のことだった。
ごめん、と心の中でなぜか謝って、涙があふれた。
その雫を舌で吸い取られ、抱きしめられたとき、恋次の名前を何度も呼んだ。誰の耳にも聞こえない言葉だけれど、もしかしたら助けにきてくれるんじゃないかと期待していた。
恋次、恋次、助けにきて
そんな都合のいいことが起きる筈も無く、恐ろしい時間はただ過ぎていった。一生分の名前を呼んで、それで違う男の腕の中にいるなんて滑稽だった。
今もそうだ。
なんて馬鹿らしい。天国に逃げてきたのに、結局同じことを繰り返している。
馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ。自分はどうしてあのとき、恋次と離れてしまったんだろう。
「ん‥‥‥ぅ、‥‥‥っく」
「何を泣く」
そんなことも分からないのか。あんたが好きじゃないからだよ。
俺の気持ち無視して、好き勝手にするからだ。
本音を全部ぶちまければこの人は手を離してくれるだろうかと一護は思った。いや、それはきっと無理だと、すぐに否定の言葉が浮かんだ。
「泣くな」
「っう、‥‥‥ぅうう、」
嫌だ、泣きたい。
どうしてあんたなんだよ。どうして恋次じゃないんだ。
「一護」
「いや、だっ、」
抵抗するなんて本当に久しぶりのことだった。白哉は目を見開いてこちらを見下ろしている。そんな表情は初めて見たが、今それに構う余裕なんて無かった。
ずっと押し込めていた感情が爆発してしまいそうで、息が苦しくて仕方なかった。
「なんでだよっ、なんでっ、あんたなんだっ」
恋次、どこにいる。
自分は今ここにいるのに、どうして来てくれない。
喘ぐように息をして、ぼろぼろ零れる涙をそのままに白哉を睨みつけた。
「俺に、触るなっ」
こんな恐ろしいことができるなんてと、思考の片隅では驚いていた。けれどもう止まらない。
がむしゃらに暴れて白哉の束縛から逃れようとした。
「逃げるな」
「いやだっ、れんじ、」
腕に白哉の指が食い込んでくる。この人は加減を知らない。きっと、知る必要も無かったのだ。
その手に掴んで壊れてしまえば、また別のものを掴めばよいのだから。
けれど自分は一人だ。
代わりなんて無い。あったら困る。
「恋次ぃっ!」
心の声なんて届くものか。
本当に助けてもらいたければ、声を出してその名を叫べ。
「やめろ」
「恋次! 恋次!!」
もし来てくれたら、二度と離れないでおこう。
「‥‥‥恋次っ」
「よせ、その名、二度と口にするなっ」
荒げた声は初めて聞いた。痛いほどの口付けも、初めてだった。
「っぁ、‥‥‥ぃや、だっ」
血の味がする。切ったか切れたか、そんなことは重要じゃない。
ただ、叫ぶ。
「れ ん じ !」
「‥‥‥‥‥一護!!」
来てくれた。
もう二度と、離れない。
「一護から離れてください」
「何故」
「‥‥‥‥俺の名前を、呼んでいたからです」
現世の衣に身を包んだ一護は別人に見えた。しかしそう見えたのは衣のせいではない、一護の目だ。
生気のなかったその目が、今は自分だけを見ている。
「れんじ、」
「ああ、待ってろ」
その声はどこか幼い。昔に戻った既視感を覚えた。
恋次は斬魄刀の柄に手を掛け、白哉を射抜いた。
「そいつを離してください」
「離したのは貴様だ。今さら返せとは、都合のいい」
恋次は厳しい表情を変えない。白哉の言葉で、一層険しく目を細め、霊圧を上げた。
「俺のいい加減さは知っているでしょう。昔とは違う、今は返せってことです」
柄を握る手が震える。恐怖ではなく、今にも抜いてしまいそうになるのを押しとどめているからだ。斬り合いになればどちらに分があるなんて自分の頭でも理解できる。けれどそんな計算をして退いてしまうほど、腰抜けでもなかった。
「一護、帰ったら、一緒に」
「恋次っ、」
一緒にいよう。
視線でそう言えば、一護は涙を浮かべ頷いた。
「くだらぬ話だ」
言葉だけで斬られたような、それほどに冷たい声だった。
白哉の腕の中にいる一護が身を竦ませる。恋次もぞっと背筋に寒気を覚え、しかしそれでも視線はきつく見据えたままだった。
「貴様は身の程を知らぬようだ」
「それが、どうした」
そんなものはクソくらえだ。そんな目に見えないものを気にして、一護を離した自分を殺してやりたい。
だがまだ間に合うならば、白哉の言う身の程とやらには唾を吐いて、恋次はもう一度一護を取り戻したいと思った。
「ではこの機会に知るがいい。知って、存分に後悔しろ」
そのとき、一護の視界が暗く閉ざされた。
優しく、そして抗うことを許さない手が一護の両目を静かに覆った。聞こえるのは、恋次の息を呑む音だけ。
「恋次?」
白哉の息づかいさえ聞こえない。
奇妙なほどに静かな時間が過ぎ、やがて一護の視界を奪っていた白哉の左手が外された。
「終わりだ。過去はもう、捨てるがよい」
外された手が一護の頬を撫でる。ゆるりゆるりと撫でられて、けれどその優しい仕草に一護は見向きもしなかった。ただ目の前の光景から目が離せない。
「うそ」
全部赤だ。
髪も、体も、地面さえも。
「嘘ではない。すべて」
本物だ。
「ーーーーー恋次!!」
すんなりと一護の体は解放された。最後の別れと思ったのか、白哉が捕まえる様子は無い。
倒れるように恋次の体へと駆け寄れば、濃い血の匂いが鼻を突いた。
「恋次、恋次っ」
体に触れれば粘着質の血が指に絡む。それでも頭を抱き起こし、血とは違う赤い髪を払ってやれば、恋次の意志の強い目と一護の目がかち合った。
「恋次‥‥‥‥、」
ぽろ、と涙があふれ、恋次の頬を打った。
「‥‥‥っハ、情けねえ、」
「笑うなっ、」
「あぁ、でもお前がいる、」
こんなに近くで言葉を交わしている。
涙に濡れる頬に触れれば赤い血の跡がついた。咄嗟に離そうとすると、一護が上から手を重ね、愛おしそうに頬を寄せてきた。
「ごめん」
自分が言おうとしていた言葉を一護に先に言われてしまった。
出血し、ぼうっとする頭で恋次は目の前の一護を見つめる。
「ごめんな、恋次」
「それは」
こっちだと言おうとすれば、柔らかい感触が唇に下りてきた。至近距離で見える一護の顔はぼやけていてはっきりとは見えない。
二、三度啄まれ、最後に深く重なった。小さく溜息をつく一護の吐息を感じ、死にかけだというのに体が熱く火照った。
「もっと早くこうしてればよかった」
そう言った一護は恋次の斬魄刀を握り、白哉と相対した。
「‥‥‥‥何のつもりだ」
「何のつもりもねえよ。もっと早く、こうしてればよかったんだ」
白哉の目が怒りの火を灯す。それを見ても一護は少しも怖くはなかった。
恋次の頭を抱えたまま、刀を白哉へと向ける。
「勝てるとでも」
「思ってねえよ」
それなのに強い光を宿す目が白哉には理解できなかった。
一護は静かな気配を称え、霊圧も穏やかだった。
「俺は、あんたのものにはならない。ずっと昔から俺は恋次のものだ」
「戯言を」
「いいんだ、それで。馬鹿でもくだらなくても、俺達は離れちゃいけなかった」
恋次の視線を感じ、見下ろせば視線が合った。離れてからは碌に合わせられなかった視線が今ならまっすぐ向けることができる。
「全部終わりだ、バカ兄貴」
白哉が斬魄刀を抜くのを見た。
一護は笑って、名前を呼んだ。
‥‥‥‥れんじ。
このまま死んでも、ずっと一緒。