前編 戻る

  北風と太陽、みたいな<後編>  

 親はいなかった。
 母親は一護を出産して間もなく亡くなったと聞かされていた。父親はどうだったか、聞いたような気もするが一護は忘れてしまった。母親は姉の烈だとずっと思っていて、父親という言葉の意味を知ったのは何歳のときだっただろう。
 姉は一護が物心つく随分と前から四番隊の隊長として活躍していた。隊長の証である羽織を纏って颯爽と働く姉の姿を見て、ひどく憧れた。
 それは今も変わらない。姉のようになりたいと願っている。
 それなのに現実は、人生は、意地悪で。いつも一護に対してそっぽを向いていた。
『おれ、おれもっ、よんばんたいに、はいりたい、』
 ある日泣きながら姉に訴えたことがあったが、姉の烈は曖昧に微笑むだけで確かな答えをくれることはなかった。それが無性に悲しくて、更に涙がこぼれた。
『みんなが、ムリだってゆうんだっ』
 そんなことないよな?  
 期待を込めて見上げてもやはり姉は微笑み返すだけだった。大好きな姉の笑みを、だが今はもうこれ以上見たくはなく、一護は抱きついて見えないようにした。
 本当は一護自身、四番隊に入れないことを薄々理解していたのかもしれない。だが姉がたった一言でいい、頑張れば四番隊に入れるのだと言ってくれさえすれば、どんな努力も惜しまなかった。
 霊圧を治癒へと変換することは誰にでもできることではない。ただでさえ鬼道の苦手な一護がそれを成せるとは誰も思ってはいなかった。姉の烈でさえも。
『どんな人間にも、得手不得手はあるものなのです。私に戦う力がほとんど無いように』
『でもっ、おれは、おねえちゃんのいもうとなのに、』
 心ない者達の中には二人が本当に血の繋がった姉妹なのかと疑う者さえいた。そんな悪意に触れるたびに、一護は不安で不安でたまらなくなるのだ。
 近づきたい。少しでもいい、誰も疑う隙など無いほどに一護は姉に近づきたかった。
 自分には他に誰もいないのだから。
『こだわる必要はありません。癒すことも、戦うことも、等しく誰かを守っているのですよ』
 優しく頭を撫でられても、いやいやと一護はそれを拒絶して、そして一層姉にしがみついた。
 せめて顔だけでも似てくれれば良かったのに。だが顔立ちも、気性も、霊圧の質さえも。
 なにひとつ似通るところはなかった。
『いやだ、いやだよ、』
 まるで迷子にでもなったかのように道を見失ってしまった一護を、姉の烈はただ宥めるように撫でてやることしかできなかった。
 言葉にしてもきっと理解することは難しいだろう。己の心で感じとらなければ、意味が無いのだから。
『泣かないで。私の小さな一護』
 ぐすぐすと泣き続ける妹を顔を上げさせて、真正面から微笑んだ。
『私達は姉妹です。誰が何と言おうとそれが変わることはありません。お父様もお母様も亡くなってはいますが、それでも私達の両親であることに変わりが無いようにね』
『でも、おれ、おぼえてない』
『覚えているかそうでないかはさほど重要なことではないのですよ。ただ私達の両親が愛してくれていたことを知っていてくれさえすればよいのです。大切なのは事実ではなく、真実なのだから』
『よく、わかんないよ』
 涙に濡れた頬を烈は袖で拭ってやった。そして幼い体を膝の上へと乗せてやる。
『今はまだ、ね。いつか分かるときがきます』
『だれかが、おしえてくれたりすんの?』
『‥‥‥そうね、そうかもしれないわね』
 それはきっと一護にとって大事な人間となるだろう。
 なぜかは分からない。ただそんな確信があった。




「おい、手ぇ離せ。包帯が巻けねえだろ」
「お、おう、悪ぃ」
 恋次は慌てて握っていた一護の手を離した。
 そしてくるくると器用に包帯を巻いていく一護の指に自然と見入ってしまった。
「うまいもんだな」
「練習、したから」
 ぽつりと零した言葉にどこかいつもと違う響きがあったように感じて、恋次は一護の伏せられた瞳を覗き込んだ。だが至近距離から見返されて、すぐさま顔を離してしまったが。
「動くなって」
「ごめん」
 なんだかせわしない恋次を一護は嗜めた。それに大人しく従う六番隊の副隊長を見て、周りにいた四番隊員達は笑いを噛み殺していた。
 護廷の入隊試験に合格してからは、一護は一足先に統学院を卒業した。そして入隊までの間、暇さえあれば四番隊に顔を出していた。もちろん鬼道は使えないので、恋次のように軽症だったり、また入院している患者の世話をしていた。
「できたぞ。もう怪我したりすんなよ」
「あー分かってる。それよりも、その、メシとか食ったのか?」
「まだだけど。でも姉貴と一緒に食う約束してる」
「そ、そうか」
 玉砕。
 包帯を巻かれたばかりの手で恋次は誤摩化すように頭を掻いて、話題を切り替えた。
「お前って、ほんと卯ノ花隊長のことが好きなんだな」
「なんだよ、悪いのかよ」
「や、悪くはねえけど」
 一護の姉大好き振りと卯ノ花の妹溺愛振りが重なって、正直入り込む隙間が無い。
 噂で聞いていた卯ノ花の妹。恋次が想像していたのは一見穏やかで実は恐い、それでもって三つ編み、だった。だが実際に会ってみると、鮮やかなオレンジ色の髪は短く、そして男のような言葉遣いや所作は姉とはまさに正反対の位置にいた。
 だが恋次にとってはど真ん中だった。一見荒っぽいのだが、先ほど手当をしてくれたように繊細な仕草もするのだ。そういう見た目との不一致さというか、格差がツボにハマるというか、とにかく自分の男心を存分にくすぐってくれるのだ。だから手当の折り、恋次は気付いたら一護の手を握ってしまっていた。
 唯一不満があるとすれば、そう思っているのは自分一人ではないことだ。
「一護。怪我した。手当してくれ」
「‥‥檜佐木先輩」
 嫌そうな顔をした後輩を修兵は無視して、一護へと近づいた。
「どこ」
「ここ」
「‥‥俺には書類の端で切ったような傷にしか見えないんだけど」
「これが結構地味に痛いんだ」
「俺が舐めてあげましょーか」
「ああ?ふざけんなてめえ。舐められるなら一護がいいに決まってんだろ」
「ふざけてんのはあんただ。自分で舐めてろ」
 使った包帯や鋏をてきぱきと片付けながら一護は出ていけと視線で言った。だが出ていく気が無い修兵に、二人きりにさせるのが嫌な恋次も出ていこうとはしない。
「なあ、一護。九番隊に入れよ」
「なんで」
「俺がいるから」
 直球だ。内心ひやりとしながら恋次は一護の反応を伺った。
「どうでもいい特典だな」
 あっさりと打ち返された。一護のつれない反応に修兵の顔が引き攣った。
 それをざまあみろと思いながらも、恋次は自分も誘うことを忘れない。
「だったら六番隊に入れって」
「ぜってーやだ」
「なんでだよ!?」
 投げる前に打ち返された。今度は修兵が嘲笑ってやった。
「隊長がやだ。なんか無表情で変なこと言ってくるし。正直、怖えよ」
「‥‥それは否定できねえ」
 二人揃って惨敗だった。
「じゃあどこに入るんだよ。まさか五番隊か?なんか雛森とすぐに仲良くなってたし」
 よく二人で話をしているところを見かける。それに入ろうとすると、男は駄目だと追い払われたのはつい昨日のことだ。
「あそこも勘弁だな」
 一護は途端に苦い顔をした。
「桃さんは好きだけど、あの藍染って隊長は好きになれない。なんかこう、得体が知れないっていうか。笑顔が嘘くさい。つーかあれほんとに笑ってんのか?」
 ずばずばと言う一護に恋次と修兵は黙っていた。ものすごくその人物像に重なる人間がもう一人浮かんでいたからだ。
 一護にとっては非常に近しい人間なので、決して言うことはなかったが。
「十三番隊ならいいかもな。俺、浮竹隊長好きだし」
 好き。
 その単語に激しく反応した二人が一気に一護に詰め寄った。
「早まるな!それは思春期にありがちな一過性のものであって、気の迷いってやつだっ。雲みたいなもんだ。そのうち流れて消えちまうんだよ!」
「詩的だな」
「年上すぎだろ! 『あたし、お父さんのお嫁さんになるっ』みたいなもんだ。そのうち超ウゼーとか思っちまうんだよ!」
「女の声真似が気持ち悪い」
 熱くなる二人に反して、一護は呆れていた。他の副隊長である勇音や雛森とは大違いだ。
 男はいつまでたっても子供。そう言っていた姉の言葉を一護は思い出していた。
「好きって別にそういうのじゃないし。恋愛かそうでないかぐらい、俺にだってもう分かるよ」
 そう言って笑った一護の顔が、これまでに見たことがないくらいに優しげで。
 ぽかんと立ち尽くしてその微笑みに見入る男二人の間を一護は通り抜けた。そして去り際に一護は付け加えておくのを忘れない。
「それから、俺もう十番隊に入るって決まってるから」




『俺も四番隊に入りたい』
 何年かぶりに零した言葉。
 しかしそれを聞いたのは姉ではなく、一護よりも一回り小さい少年だった。膝を抱えて絞り出すように声を吐き出す少女を見て、冬獅郎は肩に手を置こうとするも結局はその細い肩に置くのは憚られて宙を彷徨うばかりだった。
『四番隊に入って、俺は姉貴の妹なんだって認めてもらうんだ。誰にも文句は言わせない。俺は自慢の妹だって、姉貴が言えるような、そんな、』
 顔は伏せられたままだ。どんな表情をしているのかは冬獅郎からは伺うことはできないが、声や握りしめられた拳がその心情を代弁していた。
『認めてもらうって、誰にだよ』
『分かんねえ。でも、認めてもらうんだ』
 ああ、この少女は迷ってしまったのだと冬獅郎は気付いた。どこへ行けばいいのか分からないのだ。ただ姉のようになることで己の居場所をどうにか保とうとしている。
『親父もお袋も、生きてたらきっとがっかりするんだろうな』 
 どういう繋がりの親戚かは分からないが、ある日言われたことがあった。鬼道を使えない一護を見て、両親はさぞ嘆いていることだろうと。
 すぐさま姉が追い返してくれたが、その言葉は一護の心に針を刺したかのようにちくちくといつまでも苛んだ。
『それでも、愛してくれてることには変わりはないだろ』
 ようやくそこで一護も顔を上げる。今は夜で、月が出ていた。冬獅郎の銀髪が月明かりに反射し幻想的でさえあったが、その髪の持ち主の表情が悲しげで一護の胸を打った。
『俺達流魂街にいる奴らには血の繋がった家族なんていないも同然だ。それでも肩寄せ合って生きてきた。家族ごっこって言われたらそれで終いだけどな』
『そんな、』
『家族が繋がっていられるのは、それは血なんかじゃない』
『じゃあ、何で繋がってんの』
 妹である証が欲しかった。同じ両親から生まれたという血の繋がりが、一護を姉とかろうじて繋げているとそう思っていた。
『そうだな。‥‥‥これだ、って確かには言えねえけど、きっと目には見えないものだと俺は思うんだ。血とか、そんな事実じゃなくて、この人の家族なんだっていう想いとか、そういうのが互いに繋がるってことじゃないのか』
 強い風が吹く。
 頬がやけに冷えると思ったら、一護は泣いていた。
 そしてそのときの涙が、針の刺さった心を洗い流していった。




 事実よりも真実を。
 やっとそれが分かった気がする。
 四番隊を出てすぐのところに佇んでいた人物に、一護はそれを教わった。
「冬獅郎!」
「遅い」
 ぶすっとした顔をしているところを見ると、どうやら恋次と修兵と話していたことを知っていたらしい。機嫌を直してもらおうと一護は正面に回り込んで冬獅郎の手を握った。
「ごめんなさい、冬獅郎さま」
「おっ、まえ、それやめろって言っただろ!」
 顔が赤い。
 一護は唇の端が持ち上がっていくことを止められないでいた。普段は冷静に隊長として振る舞っているのに、自分にはいとも簡単にそうやって素の部分を見せてくれる。それが嬉しくてたまらないのだ。
「だって上司だし」
「頼むからやめてくれ。いまだに松本にからかわれるんだぞ」
 初めて一護がそう呼んだとき、すぐ近くに乱菊がいた。そして恋に落ちた瞬間を目撃してしまった部下は、それをネタに今でも上司をつついてくるのだ。
「そんなに嫌か? 男は様づけしたら嬉しがるってルキアが言ってたんだけど。ええと、もえ?」
 冬獅郎は一気に脱力した。
 友人が多くできることは喜ばしいことだが、最近の一護は碌でもない言葉を覚えて使うようになった気がする。
「『さま』はいらねえよ。それにまだ入隊してねえんだから。今はただの、」
 恋人同士だ。
 小さな声だったが、冷たい風に乗って確かに一護の耳へと届いた。それを聞いてこちらも自然と頬が赤くなる。
「なんか早く十番隊に入りたいって思ってたけど、今のままでもいいかもな」
 一緒にいられることはもちろん嬉しいのだが、その間は上司と部下として公私は分けなければならない。
「皆の日番谷隊長か。俺、嫉妬するかも」
「なん、」
 狼狽えて咄嗟に言い返そうとする。
 だが口調のわりには、前髪に見え隠れする一護の瞳が悪戯めいていたので冬獅郎は寸前で騙されずに済んだ。
「お前、やっぱり卯ノ花の妹だな」
 最初は似ていないと思っていたが、そんな考えはすぐに訂正せざるを得なくなった。姉には敵わないまでも、一護も十分に相手を欺く術に長けていた。だが一護の場合、少しからかうぐらいで悪意によるものではないことが冬獅郎にとっては救いだった。
 騙しきれなかった冬獅郎をくすくすと笑いながらもごめんと一護は謝った。
「昔は似てないのが悲しかった。俺、本当に姉貴の妹なのかなっていつも不安だったんだ」
 姉のようになりたいとそればかりが頭にあって、それが実現しないことで心が軋んでいった。四番隊に入れなければ死神になる意味などないとそう思っていた。
「今はそんなことないけどな。冬獅郎が、いるから」
 握った手に力を込めると握り返してくれた。  視線が交錯すると自然と顔が近づく。
 一護がすこし屈むのだが、こんなときに文句を言うほど冬獅郎も野暮ではない。背なんてあっという間に抜かしてやる。そう誓いを込めて唇を重ねた。
 人の往来が普通にあったが気にしない。むしろ見せつけてやるくらいの思いで冬獅郎は一護を引き寄せて何度も口付けた。  
 二人の関係はすぐさま周りに知れるだろう。一護にちょっかいをかける隊長格達に、心の中で笑ってやりながら、やがて目の前の恋人のことだけを考えた。
 愛しい。その想いが伝わったのか、一護がくすりと重なったままの唇を笑みへと吊り上げた。
 繋がっている。
 その真実が、寒空の中、二人の胸を暖かくさせた。




前編 戻る

-Powered by HTML DWARF-