子犬狂想曲01
ずっと二人だった。
二人だけの存在だった。
この世に二人、たった二人。
孤独では、なかった。
「‥‥‥いってらっしゃい‥‥」
恨めしそうな声。俺を置いて行くのか、と恨みの声が聞こえてきそうだった。十二、三歳ほどの少女が大きすぎる浴衣を身に纏って唸り声をあげている。
左陣は大きくため息をついた。いつものことだったがため息をつかずにはいられない。
「行ってくる。‥‥一護」
片手を差し出す。左陣の大きな手に一護は己の手を重ねた。
「‥‥そうではない。鉄笠を渡してくれ」
いってらっしゃいと言いながらも一護は左陣の鉄笠を掴んで離さない。大きなそれを両手で胸に抱き込んでじっとりと睨みながらも首を横に振っていた。そろそろ出なくては隊首会に間に合わない。左陣が一護を嗜めるように厳しい顔をするが、一護はむうっと下唇を突き出して左陣の遥か下から睨みつけていた。
「兄貴は、そんなに人間のほうがいいのかよ」
「一護、」
「人間なんて大っ嫌いだ」
吐き捨てるようにそう言うと一護はぎゅうと眉をひそめた。
隊首会には遅れるが仕方ない、左陣は玄関に腰を下ろすと一護の背に手を回して引き寄せた。一護のほうがわずかに視線が高い。優しい獣の眼は一護を真っすぐに見据える。
「元柳斎殿も嫌いか」
「じじいは別。でも、それ以外は嫌いだ」
二人を拾ってくれた恩人。一護にとって元柳斎だけは人間の規格からは外されていた。
「儂は元柳斎殿に受けた恩をお返ししたい。儂を、お前を、あの地獄から救い出してくれた。あの方が死神であるのなら儂も死神となりその助けとなりたいのだ」
「人間だらけの所にいて平気なのかよ」
「お前が心配するようなことは何もない。お前が思っているような者達ばかりではないのだぞ」
「どうだかっ」
不機嫌は治ってくれなかったらしい。一護は左陣の頭を力いっぱい抱きしめた。一護がどれほど力を込めようとも左陣には痛くはなかったが、一護の想いが胸を痛くさせる。宥めるように一護の背中や頭を何度も何度も撫でてやった。それに心地良さそうに目を細めると一護は左陣のにおいを胸いっぱいに吸い込んだ。
「‥‥もう行けよ」
「大丈夫なのか」
「俺はいつだって大丈夫だ」
ほら、と満面の笑顔を向ける。無理しているのだと分かってはいたが左陣はあえて納得した振りをした。大事にすることは簡単だが甘やかすこととはまた別だ。一護が寂しさを我慢して送り出そうとしているのだから左陣はそれを受け入れてやらねばならない。
鉄笠を被る。あっという間に知らない人になってしまった兄を一護は見上げた。
「いってらっしゃい」
足を踏み出しかけて左陣は振り返る。
寂しそうに微笑んでいる一護の耳は獣の耳。本来ならば人間の耳があるそこには髪と同じオレンジ色の毛並みに覆われた大きな耳が生えていた。それが心無しか垂れ下がっている。左の耳は途中で切れて無くなっていた。それを優しく撫でてやると左陣は今度こそ一護に背を向けた。
「‥‥‥いってらっしゃい」
今日は早く帰る。嘘でもそう言ってやりたかった。
「左陣」
隊首会が終了、左陣は元柳斎に呼び止められた。
「本日は遅れて申し訳ありません」
「よい」
その話ではない。元柳斎は髭をしごくと片目だけを開けて左陣に視線をやった。
「一護のことじゃがのう」
左陣の脳裏に出かけに見た寂しそうな一護が思い浮かぶ。
「学院に入れる気はないか」
「学院に、ですか?」
「左様。霊圧は申し分ない」
「しかし、」
それは無理だ。そう左陣の気持ちを感じとったのか元柳斎がうむ、と頷く。
「あやつの人間嫌いは知っておる。じゃがこのままでよいとは思っておるまい」
一護はほとんど屋敷から出ようとはしない。日がな一日、本を読んだり庭で一人で遊んでいる。元柳斎の屋敷にいた頃には使用人の目もあったためか、部屋すら出ようともしなかった。
ひどく人間に対して恐れと憎しみを抱いている一護を元柳斎はいつも気に掛けていた。屋敷に籠り、外の世界を知ろうとしない一護が哀れでならない。一歩踏み出せば、輝かしい未来が開けている筈なのに。
「今でも昨日のことのように思い出せる。儂に対して果敢にも向かってきた者などそうはおらん」
拾われた日。左陣にとっても忘れることなどできはしない。
怪我と衰弱で座り込んでいた左陣に元柳斎は手を差し伸べた。その瞬間左陣の懐に隠れていた一護が飛び出して元柳斎を威嚇したのだ。がむしゃらに刀を振り回し、必死に左陣を守ろうとしていた幼い一護。その片方の耳は無惨にも途中で切り取られていた。
『あっち行けっ! 来るなあっ!!』
恐いだろうに、泣きながらそれでも一護は決して引こうとはしなかった。
拾った後も中々懐こうとしない一護に元柳斎は寂しく思っていたが、初めておじいちゃんと呼ばれた日のことは思い出すたびに頬が緩んでしまう。今ではじじいと呼ばれているが可愛いことには変わりない。
「護廷に連れてきてみてはどうじゃ。幸い隊長格には外見で判断するような腑抜けはおらん。慣れさせてから学院に入れてみてはと考えておるのじゃが」
「それは、一護に聞いてみなくてはどうとも、」
おそらく諾とは言うまい。一護が言うところの人間が大勢いる場所なのだ。一護が素直についてくるとは思えない。
「一護とおぬし、そして我々も皆同じ人間なのだと一護に分かってほしい。傷つけられるだけではないのだと」
「元柳斎殿‥‥」
「縁起の悪いことを言ってしまうがの、もしおぬしが死ねば一護はどうなる」
それは左陣も考えたことがある。自分が死ねば、いなくなってしまうことになれば、あの小さな妹はたちまち死んでしまうだろう。元柳斎に懐いているとはいえ一護にとって心のよりどころは左陣しかいない。
それが嬉しくて哀しい。たった二人だけの存在。それはつまりどちらか一人が死んでしまえば残されたほうはたった一人になってしまうということだ。たった二人ではない、世界には一護を大切にしてくれる人間が大勢いることを左陣は知ってほしかった。
自分が死んでも、一護を支えてくれる存在がいればと願わずにはいられない。
「必ず、」
鉄笠の向こうから決意の声が漏れる。
「必ず連れて参ります。どうか、一護にお力添えを」
「もちろんじゃ」
ほんの小さな物音にも一護は飛び上がった。布の下に隠れた耳がぴーんと立ち上がる。
「すこしは落ち着いたらどうだ」
「おおお、落ち着いてるっ」
「‥‥‥落ち着け」
一護は左陣の背中に張り付いて羽織をこれでもかと握りしめていた。きょろきょろとせわしない一護を左陣は嗜める。
「一護君、お菓子食べるかい」
「い、いらねーよっ!」
「一護っ!」
「ああ、いいんだよ狛村」
同室にいた東仙が穏やかに微笑む。この親友の妹に会うのは初めてだった。話には聞いていたがどうやら相当警戒心が強いらしい。屋敷から出ようとせず、狛村と元柳斎以外の者とは顔を合わせたこともないというのも頷ける。東仙が部屋に入ってきてから一護は常にびくびくしていた。
「すまんな、東仙。一護、儂の親友の東仙要だ。話したことがあるだろう」
一護がそっと頷く。
「‥‥親友?」
「そうだ。護廷で初めてできた友、最も親しい友人だ」
「‥‥ふーん」
それはなんだかムカつく。一護は嫉妬の目を東仙へと向けた。
「お、俺のほうが仲良しなんだからなっ!いい気になるなよっ」
「あはははははははは」
「わ、笑うなっ!!」
きゃんきゃんと子犬のように一護は噛み付くが東仙は可愛いものでも見るかのように目を細めている。実際には見えてはいないが反応が可愛らしくて微笑ましい限りだ。
穏やかとは言いがたいが中々いい雰囲気ではないかと左陣は安堵した。元柳斎以外の人間には怯えか憎しみしか感じない一護がこうも自然体に近い会話をしている。東仙に頼んで正解だった。東仙の相手に緊張を強いない性格を一護も無意識に感じとっているようだ。
連れてきてよかったとそう思う。話をした途端嫌だとわめいて散々暴れ回り、左陣は引っ掻かれながらも一護をなかば無理矢理護廷へと連れてきたのだ。最初は不安だったがこれなら大丈夫そうだと、左陣は背中に張り付いた一護を離し心を鬼にして立ち上がる。
「それでは東仙、一護を頼む」
「分かった」
何がなんだか分からないのは一護だけだ。なぜ左陣は自分を置いて部屋を出ていこうとしているのだろう。ぽかんとしていた一護だが我に帰ると左陣に縋り付いた。
「どこ行くんだよ、俺も行く」
「駄目だ。任務のため現世へと下りねばならぬ。終われば迎えにいく。それまで東仙のところでおとなしく待っているのだぞ」
「い、いやだ」
「一護」
「いやだいやだいやだっ!!」
「お前のためなのだ」
言うや否や左陣は瞬歩で一護の目の前から掻き消える。あまりのことに空を切った己の手を一護は呆然と見下ろした。
「一護君、」
気遣うように東仙が声を掛けるが一護には聞こえていない。
「‥‥うっ、」
ぽろ、と雫が落ちたかと思うと一護は崩れ落ちて泣き出した。頭に被った布を引き寄せてわんわんと大声を上げて泣いてやった。泣けば左陣は必ず駆けつけてきてくれる。そうでないことなど一度もなかった。
それなのに。
「うぅっ、‥‥うえぇ、‥‥ひっく」
来てはくれない。
兄は、左陣は来てくれはしなかった。
離れるにしてももうちょっとやり方があったのではないかと東仙は親友に言ってやりたかった。だが決して左陣から離れようとしない一護にはああするしか術がないのだ。それを知らない東仙は泣いてすっかり落ち込んでしまった一護を不憫に思った。
「一護君、狛村は三日で帰ってくるそうだよ」
「‥‥三日も」
泣きすぎて枯れた声が痛々しい。東仙は茶を入れてやると一護に差し出した。その動作でさえも一護はびくついて布で隠れた目でおそるおそる東仙を見上げてくる。それを極力怯えさせないように東仙は微笑んだ。一護も左陣の親友だという男にわずかだが緊張を解き、湯飲みを持つとくんくんとにおいを嗅いだ。
「毒なんて入ってないよ」
「‥‥‥癖なんだ」
流魂街にいた頃は粗悪な食べ物が多かった。左陣と二人で食べても大丈夫かいつも鼻を利かせてから一護は食べていた。
「おいしい‥‥」
「良かった。お菓子も食べなさい」
いきなり動くと一護が驚くので東仙はゆっくりとした動作で菓子を勧めた。一護は先ほど失礼にもはねつけてしまったのでどうしたものかと東仙をちらりと見る。
「子供が遠慮しなくていいんだよ」
「‥‥‥さっきはごめん」
「うん。さ、食べなさい。狛村もこの菓子が好きなんだ」
「兄貴が?」
「唯一好きな菓子なんだよ」
それは知らなかった。左陣が菓子を食べること自体一護は知らないでいた。てっきり嫌いなものだと思っていたのだ。
包みを開けてにおいを嗅ぐと一護はそれを口に入れる。控えめな甘さが広がって思わず口が笑みとなった。だが東仙がいることに気が付くときりりと口を引き締める。見えていないと分かってはいても一護は警戒してしまう。食べているときが一番隙ができやすいのだ。
「似ているね」
「なにが」
「君と狛村さ。雰囲気がとても似ている」
「当たり前だろ、兄妹なんだから」
ぶっきらぼうに返すが東仙の言葉は嬉しかった。知らず一護のなかでの東仙の好感度が上がる。
その後も東仙の巧みな話術で一護は徐々に警戒を解いていった。だがそれをぶち壊す人物が部屋へと近づいてきていた。人とは比べ物にならないほど聴覚の発達した一護の耳が部屋へと近づいてくる足音にぴくりと反応する。
「ああ、大丈夫。私の副官だから」
だが一護にとっては全然大丈夫ではない。被った布をぎゅっと握りしめると東仙の背中に隠れてしまった。それにおやおやと思いながらも少しは気を許してくれたのかと東仙は嬉しくなってしまう。
障子を開き現れた副官に一護は体をすくめる。左陣がいない今、そっと覗くことすらできないでいた。
「ただいま戻りました。幸い怪我人は出ていません」
「それはなによりだ」
声を聞く限り若い男のものだと分かる。一護はできる限り目立たないように息を殺してその人物が出ていくのを待った。
「東仙隊長。それ、なんです?」
東仙の後ろからはみ出ている見たことのない羽織が修兵には気になって仕方がない。一護は咄嗟にそれを手元に引き寄せた。それを見た修兵が後ろに誰かがいることに初めて気が付く。
「誰かいるんですか」
そういえば左陣と出会ったときも東仙は気配を読むことができなかった。一護も同様に気配を消すことに長けており、さすが兄妹と東仙は感心した。
「一護君というんだよ。とても恥ずかしがりやさんなんだ」
恥ずかしがりやなんかじゃねえ、と一護は反論するが声は出せない。
「一護君、彼は副官の修兵。噛み付いたりしないから出ておいで」
あんまりな紹介に修兵は困惑するが東仙の後ろから出てきた人物を見て更に困惑してしまう。なぜなら顔が布に隠れていてほとんど見えない。しかも修兵の顔を見るとすぐに引っ込んでしまった。
「近々学院に入れたいそうなんだけど、この通りでね。修兵、阿散井君達を紹介してみてはどうかと思うんだけど」
これ以上人に会わなくてはならないのかと一護は恐怖におののいた。どうにかやめさせようと東仙の背中をつついて文句を言う。
「俺は会わないからな」
「何事も経験だよ。それに狛村から頼まれているんだ。帰ってくるまでに君に友達が一人もできていなかったら彼はさぞや悲しむことだろうねえ」
脅迫だ。東仙の優しいだけではない気質に一護は呻く。左陣も東仙も自分を思ってのことなのだろうが一護には友達なんてものは必要なかった。兄の左陣がいてくれればそれだけでいい。
「友達なんていらねえよっ! 余計なことすんなっ!!」
そのままの気持ちを叫んでやった。だがそれがいけなかった。
「ああ!? てめえ東仙隊長になんだ、その口の利き方はよっ!!」
「修兵、」
敬愛する上官に無礼な態度は許さない。修兵は東仙の背中に回り込むと一護の首根っこを引っ掴んだ。
「なにすんだ離せ、バカっ!!」
「馬鹿はてめーだ。俺が礼儀ってもんを教えてやる」
一護にとって人間は見ている分には恐いという感情が先行してしまうが、修兵のようにこうも真正面から来られると怒りしか湧いてこない。思い切り噛み付いてやった。
「いてえっ!!」
一護の鋭い犬歯に噛み付かれて修兵は思わず怯むがそこは副官、がっと一護の首に腕を回して羽交い締めにした。すかさず腕を引っ掻こうとする一護の両手を封じるとそのまま部屋の出口までずるずると引きずっていく。
「あまり乱暴にしてはいけないよ。穏便にね」
「分かっています、東仙隊長。俺に任せてください」
現在進行形で乱暴にされている。だが一護がそう抗議しようにも首に腕が食い込んでいてうまく声が出せない。
「おら、行くぞっ!」
穏やかな表情の東仙に見送られて一護は連行されていった。
一人になった部屋で東仙はあることに気が付く。
「女の子だって言うの忘れてた」
おかしいと思ったのだ、修兵は基本的に女性には優しい。一護の格好が男物の着物だったこともある。だが狛村からは少々手荒にしてもかまわないと言われているので大丈夫だろうと追うのはやめておいた。
友の言葉を思い出す。大切すぎて手荒にできない、傷つけることなど問題外なのだという。だからこそ第三者に委ねたのだ。真綿で包むように接するだけでは一護のためにならないと左陣は知っていた。傍にいてはきっと手を貸してしまうと分かっていたので今回左陣は一護のもとを離れることを決意した。
帰ってきた頃には傷の一つや二つ付いているかもしれないが、怒られ役には買って出てやろうと東仙は密かに決めていた。