子犬狂想曲02
人間がいっぱいだ。びびる。
一護はおどおどと歩みを進めていた。
「ちんたら歩いてんじゃねえ」
後方には修兵。首根っこをがしりと掴まれているため一護は逃げるに逃げられない。
もう一度噛み付いてやりたい。一護はその隙を虎視眈々と狙っていた。
「それになんだよこの布はよ」
「触んなっ!!」
ばりっと腕を引っ掻く。むきだしの修兵の腕は今や一護の引っ掻き傷でいっぱいだ。かちんときた修兵が一護の頭をばしりと叩く。頭に被った布がずれて落ちないように一護はぎゅっと掴んで耐えた。元柳斎の拳骨に慣れているためこのくらいは平気だった。
「なんで隠してんだよ」
見られたくないからだ。布の下を見られたときの反応を一護はよく知っていた。
「兄貴だって隠してるだろ」
「狛村隊長か?」
一護の口の利き方に腹が立っていて東仙の話を碌に聞いていなかったが、どうやら一護は左陣の弟らしい。だからといって修兵は優しくするつもりはない。基本的に男には厳しく、が修兵のモットーだ。
「ま、いいけど。とにかくお前にダチを作りゃあいいんだろ。俺に任せとけ」
なんだか偉そうだ。無性に腹が立って一護は無視した。ぷいっと顔を背ける。
「てめっ、ガキのくせに無視なんて高等技術を使うんじゃねえ。はいだろ、はい。言ってみろ」
絶対に言いたくない。一護は修兵が言うところの高等技術を使った。
「ムカつくガキだなっ」
子分にでもしてパシらせてやろうかといけない考えが浮かぶ。だが東仙から一応預かっているのだからそれはなんとか我慢した。
「あんたこそ、ムカつく人間だ」
「なんだって?」
「別に」
一護としても人間と仲良くなるつもりはない。ひどいことを言われて、ひどいことをされて、自分と人間は違う存在なのだということを嫌というほど刻み込まれた。それなのにどうして兄は人間との繋がりを求めるのか一護には理解できない。元柳斎への恩返しだけではない、左陣は人として人間の中にありたいと思っていることを一護は知っていた。
たった二人だけの存在なのに、ときどき左陣が遠くてならない。いつか置いていかれるのではないか、それが不安でならない。
捨てないでほしい。そのためならなんだってする。友達とやらも形だけだが作るのも致し方ない。ようは左陣を安心させればよいのだ。
「失礼な口利くんじゃねえぞ。阿散井なんか俺より容赦ねえからな」
とりあえず一護は頷いておいた。
「よし」
なにがよし、だ。一護はこっそりと舌を出してやった。
一護にとっては非常に運の悪いことにそこには大勢の人間がいた。修兵は彼らに気軽に声を掛けて一護を引きずったまま傍に寄っていく。だが足がすくむ、知らず頭の布を掴む力が増した。逃げ出したくてたまらなかったが左陣のためだと我慢した。それに修兵に笑われるのは癪でならない。
「檜佐木先輩、その子は?」
女の子の人間に一護はわずかに怯む。こんなに近くで見たことがないので一体どうすればいいのか分からなかった。
「狛村隊長の弟」
妹だバーカ、と内心で罵ってやった。だが一護の機嫌が底辺にあるのに対して周りはそうではなかった。
「うっそ、マジで?」
一護は今度こそ怯んで一歩下がった。人間の女の人、しかもこんなに胸の大きな人は見たことがなかったので驚きと信じられなさでじりじりと下がってしまう。
「松本さん、怖がられてますよ」
「うっさい、阿散井」
一護は恋次を見てぎょっと目を剥く。刺青というのを初めて見たからだ。一体どうなっているのかと恋次を凝視してしまったのがいけなかったらしい。思い切り睨まれた。
次いで隣には小さな男の子がいた。それも左陣と同じ白の羽織を着ているということは隊長なのだろう。お団子頭の女の子よりも更に小さい男の子を一護はまじまじと見てしまう。
「なんだよ」
目線の近い冬獅郎からは一護の顔がわずかに見えた。一瞬だったが視線が合ってしまい一護は慌てて布を目深に下ろす。
「東仙隊長いわく、恥ずかしがりやさんだ。おら、自己紹介」
頭を小突かれる。いまだかつてこれほどまでに神経を逆撫でしてくれる人間を一護は見たことがない。だが噛み付いてやりたいのを抑えて修兵の言う通り一護は名乗った。
「狛村一護」
「なんかもっとあるだろっ」
また叩かれた。痛くも何ともないが腹が立つ。
「檜佐木先輩、叩いたりしたら可哀想ですよ。一護君、私は雛森桃っていうの。よろしくね?」
雛森の首を傾げるその仕草は一護にリスを連想させた。一護は被った布を握ったままこくこくと頷いた。だがちゃんと挨拶しろと言わんばかりに修兵が拳を持ち上げたので一護は渋々声をしぼる。
「どぞ、よろしく」
ぼそぼそと喋る。それが気に入らなかったのか再度修兵が一護を叩こうとしたが女性陣には非常に受けがよろしかった。
「かわいー!!」
乱菊が一護を抱きしめる。胸が当たって一護はぴき、と固まった。雛森も一護を可愛いとばかりに頭を撫でている。
「可愛いっ、檜佐木、でかした」
一護を抱きしめたまま乱菊は親指をぐっと立てた。一護の顔など目深に被った布で見えなかったが、その仕草や喋り方が妙に乱菊のツボにはまったのだ。雛森も然り。
「まだ死神じゃないの?」
まだどころかなる気もない。だが一護は首を振っておいた。それがまたツボにはまったらしく乱菊に一層抱きしめられる。
「日番谷隊長。この子絶対うちに入れましょうねっ」
「ああっ、乱菊さんずるいっ」
「どれだけ気が早いんだ」
そう言いつつも冬獅郎も気にはなるのだ。一瞬垣間見えた一護の目が焼き付いて離れない。茶色に見えたが陽の下ではもっと明るいのかもしれない。自分たちは一護の素顔どころか髪の色さえ知らないのだ。なぜこうも頑なに隠そうとするのか冬獅郎には不思議でならない。
「良かったなー友達ができて」
にやにやと笑いを浮かべる修兵が腹立たしい。噛み付いてやりたいが乱菊の腕は予想以上に力が強く一護を抱きしめて離さない。代わりにううう、と子犬の唸り声のようなものを出すことしか一護にはできなかった。そしてそれがまた乱菊のツボにはまり抱きしめられるという悪循環だったのだが。
「く、苦し」
左陣にさえこんなにも強く抱きしめられたことはない。左陣はいつも絶妙の力加減で触れてくれる。他の人間に抱きしめられて初めて一護を傷つけないように、抱き潰さないようにと気を遣ってくれていたのだと分かる。
一護は乱菊の顔を見上げた。この人は、自分が人間ではないと知ってもこうして抱きしめてくれるのだろうか。
「あんたって子犬みたいね」
だがすぐに馬鹿な、そんな筈はないと打ち消した。獣の耳が生えていると知れば、たちまちこの腕を離してしまうだろう。
優しかった顔が、醜く歪んでいくさまを一護は何度も見てきた。笑みが消えていくさまに何度も思い知らされてきた。優しいものはすべて鋭く一護を貫くものとなった。
きっと今回もそうだ。一護が一番傷つく言葉を吐いて、刀で斬りつけるかもしれない。
そう考えると誰かの腕の中にいるのがひどく恐ろしくてならなかった。
「あらら、どうしたの」
突然暴れだした一護に乱菊は腕を離す。自由になった途端一護は近くの屋根の上に飛び乗った。その身軽で足音一つしない獣のような身のこなしに一同感心してしまう。
「一護、下りてこい」
怒りながらも修兵が両手を一護に伸ばしてくる。だが一護は首を振るとそのまま屋根から屋根へと飛び移ってあっという間に姿を消してしまった。
「この馬鹿もんが」
一護は頭を押さえて蹲る。修兵達から逃げ出して元柳斎のもとへと行くと、事情を察したのか拳骨を頂いてしまったのだ。
「くそじじい」
「もう一発もらいたいか」
ぶんぶんと首を振る。ほんの小さな声だったのにこの老人には聴覚の衰えというものは存在しないらしい。拳骨も相変わらず涙が出そうなほど痛かった。
「俺、もう嫌だ。帰りてえよ」
耳がしゅん、と垂れ下がる。それを見て元柳斎は撫でて慰めてやりたくなるがそれでは今までと何も変わらない。左陣も自分も今回は心を鬼にすると決めていた。
「弱音を吐くでない。それでも左陣の妹か」
「俺は兄貴がいてくれたらそれでいい。友達なんてつくる必要ないだろ。なんでこんなことするんだよ」
すべて一護のためなのだ。たった一人に心のすべてを委ねてしまう恐ろしさを一護はまだ知らない。気付いたときにはもう手遅れなのだと言っても、今の一護に理解することはできないだろう。
「左陣も通った道じゃ。素顔を知っても離れていかぬ人間がここには大勢おる」
「そんなの分かんねえよっ」
恨みは根深い。特に一護には欠けた片耳がそれを形として残していた。
「一護」
「どうして拾ったんだよっ!」
俺と兄貴を。
「流魂街にいれば、兄貴は俺から離れたりなんてしなかったっ!!」
あんなに泣いてその名を呼んだのに。左陣の耳にはその声が届いていた筈だ。一護が呼べばいつだって駆けつけてきて、抱き上げてくれたのに。どうしたのだと優しい声音で聞いて、涙も傷も舐め取ってくれたのに。
「そのようなことを言うな、言わんでくれ」
元柳斎が顔を覆って俯いてしまう。一護達を拾い養ったことを後悔したことはない。だが一護がそんなふうに考えていたのだと思うと哀しくてならなかった。
小刻みに震える元柳斎の肩を見て一護は言い過ぎたと後悔した。今のは嘘だ、左陣に置いていかれて八つ当たりをしたのだと謝ろうと駆け寄る。本当は拾ってくれて感謝しているのだと伝えたかった。
「じ、じじい、泣くなよ」
「儂は、儂は、」
声が震えている。どうしよう、まじで泣かせてしまったと一護はおろおろした。だがそこに誰かが近づいてくる気配まで感じて一護は飛び上がる。とりあえず布を頭に被り直し元柳斎に引っ付いた。
「先生、呼びましたか」
部屋に入ってきたのは二人。無意識に一護は元柳斎の羽織を握りしめる。
元柳斎は顔を覆ったまま無言で頷いた。その常とは違う様子に不審に思い訪問者二人が近づいてきたので一護は不安になる。
「山じい、どうかしちゃったのかい?」
まさか自分が泣かせてしまったとは一護は言えなかった。ぎゅうっと元柳斎にしがみついてどうしようと小声で聞く。
「京楽、その子が怯えている」
「ええ、なんで? おじさん恐くないよー」
「語尾を伸ばすな」
白い髪の死神が膝を折って一護に目線を合わせてくる。それに驚いて一護は布で完全に顔を隠してしまった。
「浮竹だって怖がられてるじゃない」
「おかしいな。子供には怖がられたことはないのに」
早くどこかに行ってほしい。元柳斎の羽織に顔を埋めて一護は拒絶する態度を示す。だが首根っこをがしっと掴まれたかと思うと一護はぽいっと浮竹に向かって放り投げられた。
「!?」
「先生っ!?」
咄嗟に受けとめる。投げられた一護は驚きで何も反応できないでいた。
「呼んだのはほかでもない。そやつの子守りじゃ」
しっかりとした声だった。
「じじいっ、嘘泣きかよっ!」
「ほっほっほっ。十四郎、春水、そやつを連れて早う行け」
「‥‥‥はあ」
事情がよく分からないが浮竹は一護を抱え直すと京楽とともに部屋を出た。くそじじいと叫びながら散々暴れ回る一護を抱えるのは至難の業だったが。
「いたたたたっ、こら、引っ掻くな」
「離せよっ!」
「京楽っ、」
「はいはい、ってイッタあっ!」
「そんなもの噛むんじゃないっ」
「そんなものってボクの指なんだけどっ!」
「ううー!!」
がじがじと一護は京楽の指を噛んで離さない。手は浮竹の髪を引っ張ってくしゃくしゃにしてやった。だがそれでも一護を下ろそうとしない浮竹に今度はどうしてやろうと考えたとき。
「何してますのん」
「市丸、」
だけではない。副官の吉良も廊下の向こうから歩いてきた。
「このチビッコは?」
市丸が顎で一護を示す。一護は暴れた状態のまま固まっていた。
「先生から子守りを頼まれたんだ」
「そうなんだよ」
一護が固まっているうちに京楽は指を抜く。自分の無骨な指に可愛らしい歯形がくっきりと付いていた。
「ものすご嫌がられてますやん」
そう言って不用意に一護の顔を覗き込んだのがいけなかった。
ばり。
後方で吉良がひい、と悲鳴を上げた。
綺麗な三本線。己の頬に付いたそれを市丸がなぞる。そして指に付いた血を見て市丸がにい、と凄絶に笑った。
「浮竹はん」
「な、なんだ」
「その子そのまま捕まえとってください」
なんでだ、と言う前に浮竹の体が動いた。本能が危険を察知して。
「わー!!」
市丸の神鎗がすれすれを突き抜ける。一護を抱えたまま浮竹はそれをなんとか避けた。
「殺す気かっ!」
「いややわあ、殺すやなんて大げさな」
けらけらと笑ってはいるものの霊圧が完全にそれを裏切っていた。ずんと増した霊圧が一護に襲いかかる。まるで上から頭を押さえ付けるような霊圧に一護は意識を保っていられない。
「よさないかっ、市丸っ!」
「子供やからて甘やかしたらあきません。怒るときはちゃあんと怒ってやらな、それが躾でっしゃろ」
殺すのと躾は違う、そう言いたいが今の市丸には通用しないだろう。今にも失神しそうな一護を守るように浮竹は体勢を変える。
「なに、ちょおっと刺すだけやから。‥‥‥動いたらあきませんえ」
「市丸、いい加減に」
「しなさいよっ、このバカギンっ!!!」
どかっと後方から蹴りを入れられる。倒れはしなかったものの突然の打撃に市丸は数歩たたらを踏んだ。
「お乱?」
蹴られた背中をさすりながら市丸は後方を振り返るがそこにはもう乱菊はいない。
「うぁ、‥‥‥うわーーーーんっ!!」
「ああよしよし、恐かったね」
現れた救世主に一護は飛びついた。初めは恐れおののいた乱菊の胸だが今は暖かくて柔らかい。とても安心した。力いっぱい乱菊の首にかじりついて一護は大泣きする。
一度は怯えられて逃げられた乱菊だったが一護に一身に頼られて嬉しかったのかぎゅうっと抱きしめ返してやった。その母と子の感動の再会のような光景に男性陣はただぽかんとするしかない。
「もう大丈夫だからね」
「ぅくっ、」
優しい声音。安心するのに涙が止まらなかった。
「ほら、泣かないのよ」
でも止まらない。涙が止まってくれない。
この暖かさがいけないのだ。兄ではないのに、自分をこんなにも暖かく抱きしめてくるから。
「よしよし」
母親なんて知らないのに。そんなもの、いたのかさえも。
「おかぁさん‥‥‥っ、」
耳を隠していた布が滑り落ちる。現れた獣の耳に周りは息を呑んだ。
乱菊一人を除いて。
「か、可愛いっ」
またもやツボにはまり乱菊は悶絶した。