子犬狂想曲03
気付いてしまった。
自分こそが人の中に入りたいと、願っていたことに気付いてしまった。
解錠して見えた光景は三日ぶりの瀞霊廷。何も変わりはない。いや、そう見えるだけで実際には何かが変わってしまっているのかもしれない。
現世にいる三日間、左陣はまるで生きた心地がしなかった。考えてしまうのは妹、一護のこと。見知らぬ人間に囲まれて怯えていることだろう。苛められてはしないか、泣いてはいないか。泣いて助けを求める一護が容易に想像できてしまいすぐにでも帰りたい衝動を抑えるのは至難の業だった。
離れたときに聞こえてきた一護の叫びに本当は踵を返して抱きしめてやりたかった。それを無視して去ったことを一護は恨んでいるのかもしれない。三日ぶりに帰ってきた兄を、一護は笑顔で迎えてくれるだろうか。
「東仙」
「お帰り、狛村。早かったね」
帰るのは今日の夕方だったはずだ。だが今は昼。
「それほど手間取らなかったのでな、早く終わったのだ」
「またまた、早く終わらせたんだろう」
見透かされている。東仙の言う通り本当は一護のもとに早く帰りたかったのだ。心を鬼にして一護を一人にしたとはいえ、心配でたまらなかった。
「でも今一護君はここにはいないよ」
「なんだと」
信頼して預けたというのにそれはどういうことだと左陣の霊圧がじわりと上がる。だが親友のただならぬ雰囲気に一切取り乱すこともせず、東仙はにっこりと穏やかに笑った。その笑みが心無しかいつもよりも機嫌のいいものに見える。
「まあ落ち着いて。一護君なら今十番隊でお手伝いをしてるから」 「手伝い?」
「微笑ましい限りだよ」
「隊ごとに仕分けできたぜ」
「ありがと。こっちが終わったらお昼にしましょうか。もうちょっと待っててね」
「うん」
一護はソファに座る。だが懐から鞠を出すとそれを投げたり転がしたりして遊びだした。
「ああん可愛い」
「悶えるな。仕事しろ」
冬獅郎が冷静にツッコミを入れるが乱菊は聞いていない。鞠を必死になって追いかける一護に釘付けだった。乱菊が買ってやった鞠は一護のお気に入りだ。暇さえあればそれで遊び、そうでないときは肌身離さず持ち歩いている。
「ああもう技術開発局の奴らめ、写真機くらい貸してくれたっていいじゃないのよ」
それで一護の写真を撮りまくる。だが肝心の写真機は中々貸してもらえなかった。
ぎりぎりと歯噛みする部下を放っといて冬獅郎は筆を急がせる。
一護は一人で遊んでいても寂しくはないと言っているが、端から見ているとそれはとても寂しげで心細そうだった。聞けば屋敷から出ずに本ばかり読んでいたらしい。難しい字を書いたり読めたりできるというが、冬獅郎が死神となる前はもっと自由に外で走り回っていたものだ。
だからこそ一護の相手をしてやりたい一心で冬獅郎は仕事を早く終わらせようと一人奮闘する。あんあん言って仕事をしない乱菊は抜いて一護と二人で昼飯を食べるために。
「一護、メシ食いに行くぞ」
だがそれを阻む輩が現れた。切れ長の鋭い目つき、その目が鞠で遊ぶ一護を捉える。
「行かねえよバーカっ!」
「んだとコラァ!」
可愛くない口を利く一護を修兵は怒鳴って追いかけた。そして首根っこを捕まえるとお尻を叩く。
「いてえっ!乱菊さーんっ!!」
「何してんのあんた檜佐木殺されたいのええコラ!?」
「す、すいません」
締め上げられて修兵は素直に謝った。女は恐いと言うがこれはもうそんな次元ではない。
乱菊の背中から一護が顔をのぞかせて口パクでざまあみろと言っていた。そんな一護を修兵が睨むが逆に乱菊に睨み返されてしまった。
「一護は私と一緒に食べるのよ」
俺は無視かよ、と冬獅郎が呟く。
「どうしても一緒に食べたいって言うんなら私の仕事を手伝いな」
「‥‥‥承知しました」
がくっと項垂れる。
乱菊と修兵の力関係を見て一護は笑った。くすくすと楽しそうに笑う一護に修兵は仕方がないとため息をつくと言われた通り机に向かう。だがまた一人で遊んでしまうことになった一護に修兵は振り返ると優しく頭を撫でてやった。小さな頭を、耳を、包むようにして。
「待っとけ。ちょっとだぞ」
「‥‥‥分かった」
再びソファに座り直すと今度は鞠で遊ばずに一護は仕事をする乱菊達を眺めることにした。
狐顔の男に殺されそうになってから三日、一護は乱菊から片時も離れようとはしなかった。
乱菊に抱きついて大泣きしてからいつのまにか眠ってしまい、目が覚めると頭に被っていた布がどこかにいってしまっていて一護は混乱した。そして泣きそうになったところで乱菊が現れ一護をまた抱きしめてくれたのだ。それから修兵達を顔を合わせても彼らは耳のことを嫌悪の目では見はしなかった。
なんだ、獣の耳でもすこしも嫌がられないじゃないか。
その事実を驚愕よりも真実として一護は妙にすとんと受け入れることができた。今まで怯えて屋敷の外に出ようとしなかった自分。随分損をしていたのだな、とその頃の自分を振り返って一護はそう思った。
早く兄に会いたい。
左陣がいない間に起こったこと。それを話したくてたまらなかった。
「っしゃーーーーー!!」
十番隊に威勢のいい女性の雄叫びが響いた。不意打ちのそれに隊員の何人かがびくりと肩を震わせる。
「松本、うるせえ。もっと静かにしろ」
「これが静かにしていられますかっ!」
乱菊は上機嫌だった。それはもう今すぐ踊りだしかねないほどに機嫌が天を突いていた。
手には一片の紙。新人隊員の名が記されたものだ。それを見た瞬間に乱菊が拳を突き上げて雄叫びをあげたのだ。
「前々から十番隊に入りたいってあいつも言ってただろうが」
「でも七番隊と迷ってたじゃないですか」
なんせ唯一の肉親だ。ぎりぎりまで迷ったのだろう。
「でも私を選んでくれたのねっ。なんて可愛いのっ!!」
ああんもう、とくねくねしだした乱菊はもう放置だ。だが一見冷静を装っている冬獅郎も内心では嬉しさで満ちあふれている。雄叫びは上げないものの小さく拳を握りしめていた。
「ざまーみなさい檜佐木のやつっ!!」
ついには高笑いしはじめた乱菊を置物だと思い込んで冬獅郎は仕事を再開した。
護廷十三隊の入隊試験に合格した。
配属先は十番隊。
一護は初めて死覇装に袖を通した。すこし大きめな作りだがすぐに体が成長してちょうどよくなるだろうと左陣に言われていた。新品特有のにおいが一護をわずかに緊張させる。
「俺、変じゃねえ?」
「変なものか。よく似合っておる」
それに笑み崩れる。嬉しくて仕方ない、まるでそのまま溶けてしまいそうな一護の笑みに左陣も自然と笑みがこぼれる。
初めて一護を突き放した日。あらゆる不安が左陣を覆い尽くしたが、帰ってみればそれは杞憂に終わった。その日に一護は耳を見られそして受け入れてもらえたのだ。乱菊と手を繋いで素顔を晒した一護を見て左陣はすべてを悟った。
一度きりだと心の中で決めていた。自分がいない間に一護が傷ついて泣いていたりしたら、誰が何と言おうともう二度と一護を離すまいと誓っていた。屋敷から出たくないと言うのならその願いを叶えてやろう、己も一緒に閉じこもってやろうと。これが最初で最後の試みだと固く心に決めていたのだ。
賭けだった。だがたとえ負けたとしても、己は後悔しなかっただろうと左陣は思う。
「兄貴?」
「いや、なんでもない」
己の考えにふけっていた左陣を一護が覗き込む。どこかバツが悪そうに一護はもじもじと死覇装の袖をいじりはじめた。
「怒ってんのか。その、十番隊に決めたこと」
「いいや。お前が決めたのだから、怒ったりなどせん」
本当は少し寂しかったのだが、それは黙っておく。
「できるだけ顔見せるようにするからな」
「ああ」
時間だ。左陣は一護を抱き上げると草履を履かせて屋敷を出る。
一護も、左陣も、その顔を隠すものなど身に付けてはいなかった。
「自分で歩くって」
「今日ばかりはこうさせてくれ」
片手だけで一護を抱いて護廷への道を歩く。統学院にいる間に一護は背が少し伸びたのだが、左陣にとってはきっといつまでも小さな妹のままだろう。
「ここ数年、お前はあっという間に成長した」
体も、心も。屋敷に引きこもり弱々しかった頃とは大違いだ。
「だが今少し、こうして儂の腕の中に収まっていてくれ」
一護はおとなしく左陣の胸に寄りかかった。流魂街にいる頃は常にこうして移動していたのを思い出す。歩幅があまりに違いすぎるため左陣はいつもこうして一護を抱き上げてくれていた。だが死神となった今、もう常にそうすることはできないのだろうと一護は分かっていた。
これからは自分の足で歩くと決めたのだから。
「昔を思い出す」
「うん」
ちょうど同じことを考えていた。
「初めてお前と出会ったとき、お前は儂の姿を見て泣いてしまっていたな」
「あれは、嬉しかったんだ」
耳を斬られ、人間に殺されそうになっていたところを左陣に助けられた。見たこともない獣の姿に、人間達は悲鳴を上げて逃げていった。一護は左陣をただ見上げるばかり。それを恐れととったのか左陣は踵を返して去ろうとしたが、すぐさま一護は正気に戻る。
初めて出会えた同胞。だが幼い一護にそんなことを考える暇はなく気付けば左陣に駆け寄って縋り付いていた。
嬉しい嬉しい嬉しい。自分は一人ではなかった。
片耳からは血が止めどなく流れ続けていたが、そのときは痛みよりも歓喜が勝っていた。このまま死んでしまってもいいくらいに幸福な瞬間だった。
「あれからずっと兄貴は俺を守ってくれてたんだよな」
本当は左陣だって死神となり護廷で働くことは恐かったに違いない。それでも生きていくためには必要なことだった。それを理解せずに不満ばかり言っていた己の幼さと愚かさを一護は悔いた。
「感謝するのは儂のほうだ。お前はいつも、傍にいてくれたな」
孤独だった。異形の姿に生まれついてしまったことを何度呪ったか分からない。この姿を見ると誰もが恐れ、謂れの無い暴力を与えられる。そして左陣自身も己を恐れ憎んでいた。
だからこそ獣の耳をした子供に抱きつかれて、初めて感じた暖かさに左陣は感動した。子供特有の体温の高さ、左陣にとっては熱いほどだった。
「このままお前が巣立っていくこと、それが誇らしいが、寂しいものだな」
「嫁に行くんじゃあるまいし」
一護は笑って返すが、成長した一護を見る男の目が左陣には心配でならない。
「兄貴以上の男なんていねえよ」
そう言ってもらえると嬉しい。一護が男を紹介しようものなら左陣はぶっ倒してしまうだろう。己よりも弱い男に一護は任せられない。
護廷の隊舎が見えてくる。もうそろそろ、一護を下ろさねばならない。
「兄貴」
「なんだ」
立ち止まる。地面に下ろそうとしたが一護は首を振った。
視線を交わし何かを喋ろうと口を開けるが一護は悩んだように閉ざしてしまう。眉を寄せ言葉を探す。少ししてこれだ、と思いついた顔をすると次いでにこっと満面の笑みを浮かべた。
「これからも、よろしくお願いします」
言ってすぐに左陣の腕から飛び降りると手を繋いで引っ張った。
これからは二人きりではない。
たった二人でもない。
孤独よ、さらば。