繋がっているようで繋がっていない100のお題
002 何もかもを放り出したら大分楽になった
「ほぅら一護ちゃん、イチゴやで」
真っ赤な果実を盛った皿を手に、そいつはノックもしないで一護の部屋へと入ってきた。
「美味しそうやろう?」
暢気に話しかけてくるこの男はこちらの乱れた格好など気にもしていないのだろうか。そいつにとって見覚えのあるだろう羽織を肩に掛けた一護は極自然に顔を逸らす。
「あれ、その顔どないしたん?」
「‥‥‥‥‥別に」
熱を持った頬を押さえて一護は俯いた。
「あの人に、殴られたん?」
「‥‥‥‥よく、分かんねえよ、アイツいきなりっ‥‥更年期障害じゃねえのかあのオッサン!」
心配するようなそいつの声音に喉の奥が痛くなった。泣きたくない、唾を呑み込み嫌味な笑みで言い放つ。
そいつは笑ってくれた。
「なあ、現世から調達してきたんや。今が旬やから」
話題を変えて、一護が座り込んでいる寝台に腰を下ろしたそいつはハイどうぞとイチゴを一護に差し出した。ほのかな甘い香りに懐かしいとは思ったが。
「‥‥‥‥俺、イチゴ嫌い」
「えぇっ、一護ちゃんやのに?」
関係無い。
嫌いなものは嫌いだ。
「ぶつぶつが気持ち悪い」
「水玉模様と思ったら可愛いやん」
「どこが」
話したくない、そう言うように一護は柔らかな寝台に埋もれた。そこは一護の体を優しく受けとめてくれる。シーツも枕もカーテンも、すべてがあの男の匂いで包まれていた。それらを取り替えたとしてもじきに匂いが定着して一護はそれに慣れてしまうのだ。
けれど今日だけは違った。イチゴの甘い香りと、それから。
「こんなに美味しいのになあ」
もったいない。
そっぽを向いた一護を置いて、一人ぱくぱくとイチゴを食べる男の纏う香り。
あの男が段々と浸食するようなものだとすれば、この男はそっと掠めるような薄い香りだった。とても自然で押し付けなくて、一護は無意識にくんと鼻を鳴らす。
「そしたら何が好き?」
「あ?」
彼の纏う香りに集中していた。イチゴの甘い香りで正気に戻る。
「何でも言うて。何でも取ってきたるから」
「‥‥‥何でも?」
うん、と頷かれて一護は考えた。
何がいいだろう。
一番最初に浮かんだのがチョコレート。もう随分食べていない。甘くて濃厚な風味を思い出し、唾液が出た。
「だったら‥‥」
「うんうん」
人懐こい笑みに一護もつられて笑みになる。
チョコレート。
言おうとして、けれど言えなかった。
「‥‥‥‥‥やっぱりいいや」
「なんで?」
忘れていた。
ここがどこか。自分がどうなったか。
忘れていた。
「‥‥‥‥眠い。もう帰ってくれ」
「どないしたん? ボク、何か気ぃ悪いこと言うてしもた?」
一護は違うと一言だけ言って寝返りを打った。誰もいない、ただ無機質な窓があるだけの壁へと視線を向ける。羽織を手繰り寄せればもう慣れて久しい匂いがした。あの男の匂い。もう離れられない匂い。
好きではなかったが嫌いでもなかった。なぜなら自分も同じ匂いを纏っているからだ。
「一護ちゃん」
「帰れよ」
一護の首を捕らえる細身の首輪。
所有の証だった。自分はあの男のものだから、この部屋に他の男は入ってはならない。もう一度、出ていけと言った。
「苦しいん?」
首に触れられた。正確には首輪に。あの男以外が触れるなんて。
「ギンっ」
咎めるように名前を呼べば、やっと呼んでくれたとそいつは笑う。死にたいのか、そう言ったらそいつは、ギンはにいっと笑みを深めた。
「なあ、一護ちゃん」
「馬鹿っ、帰れよ!」
「何が食べたい? 好きなもんは? お花は好き?」
「帰れったら! 帰れよっ、かえれ‥‥っ」
身を起こして振り返れば思ったよりも近くにギンがいた。間近に覗き込まれて吐息が掛かる。
「好きなもんに会うたら余計寂しくなる? せやから何もいらんて言うんか」
「分かってるならっ、」
「会えるうちに会うたらええよ。物でも人でもなあ、触れ合えるときに触れたらええ。格好付けて我慢してたら会うに会えんようになるよ」
髪を撫でられた。それがまるで慰めるかのようで。
耐えきれない。全部、全部ぶちまけた。
「‥‥‥‥‥引き離したのは、そっちじゃねえか! 俺のこと、無理矢理連れてきて!」
「うん、そうやね」
「馬鹿っ、死んじまえっ、お前ら全員死ねばいいんだ!!」
「うん、そうかもしれんなぁ」
「もう、会えねえんだろ、会わせてくれねえんだろ‥‥っ」
「うん‥‥‥‥‥ごめんな」
だったら言うな。
俯いて詰って、一護は静かに涙した。
「切ないなあ」
声とともに、ぱさりと音が聞こえた。
一護が纏っていた、あの男の羽織が落ちる音だった。正確には、落とされた。
「切ない、なあ」
「‥‥‥ギン?」
「切なぁ」
「っあ、」
抱きしめられた。ギンの香りが、自分を包む。
長い腕に、肩を、背中を囚われた。
「ギンっ、」
後ろから首輪に触れる指を感じ、一護は必死に身を捩る。
いけない、触ってはいけない。
「あの人も、趣味の悪いこと」
「触るなっ」
「苦しいやろう? ボクが取ったろか?」
首輪に指が掛かる。じわ、と霊圧が上がった。
やめてくれ。
「ギン!!」
やめてくれ。
金切り声にやっと、指が離れていった。
「一護ちゃん」
男の胸に顔を寄せ、一護は泣いていた。こんなふうにしてあの男の腕の中でも泣いた。
帰りたい。
「ごめんなぁ」
駄目だよ。
あの男はそう言った。
「かえりたい」
もう一度。
うわ言のように繰り返して、やがては喋ることさえ億劫になった。泣き疲れてギンの胸に一護は自分のすべてを預けてしまった。あの男とはまた違った香り、けれど落ち着いて離れられなくなるのは一緒だった。
「一護ちゃん‥‥」
頬を撫でられた。あの男が殴った頬を。
死のうとしたら、殴られた。
「チョコレート‥‥‥」
「ん?」
「食べたいな」
きっと泣いてしまうだろうけれど。
「食べたい」
「えぇよ。なんでも手に入れたるよ。せやからもう、泣かんとき」
「‥‥‥ん」
懐かしさに泣いて、それですべてを忘れられるだろうか。
決別のチョコレート。
妙な言葉に一護は力無く笑った。
「やっと笑うた。楽しみにしといてな」
あぁ、楽しみだ。
この男が決別を、持ってきてくれる。