繋がっているようで繋がっていない100のお題
003 肩も背中も軽くなって
夕日色の髪が揺れていた。
「あぁクソっ、こないだ買ったばかりなのに何で切れんだよっ!」
見ると、下駄の鼻緒が切れていた。その際、転んだのだろう。着物の裾を土で汚し、子供が悪態を吐いていた。
使い物にならなくなった下駄を手にしばらく唸っていた子供は、やがて諦めたのか裸足で歩くことに決めたらしい。無事な片方を脱いで、素足で歩き出そうとしていた。
「待て」
振り返った子供は、狛村の腹辺りを見つめ、そして徐々に視線を上に向けた。ぱっちり開いた目が、しきりに瞬きしていた。多くの人間がこの巨躯に驚いて、同じような反応を見せる。素顔を見れば、もっと驚くに違いないだろうに。
頭巾の奥で自嘲し、狛村は再度声を掛けた。
「直してやろう。素足は危険だ」
「あ、どうも‥‥」
子供は素直に従い、下駄を差し出した。怯えさせてしまっただろうか。声が震えていた。
大通りから離れ、路地に入った。商店の建ち並ぶ通りの為か、雑多に物が積まれている。丁度良い高さの木箱に子供を座らせ、狛村は鼻緒を直しにかかった。
「器用、なんだな、」
「それほどでもない」
褒められて悪い気はしない。頭巾の中の耳がぴんと動く気配を感じた。
子供は始終、狛村の手元を覗き込んでいた。ときどき感心したように声を漏らしては、ぶらぶらと足を揺らしている。視線が気になってしょうがない。
「あまり見るな」
子供がくすりと笑った。怯えていたかと思ったが、子供特有の警戒心だったらしい。頭の先から爪先まで、子供の視線を感じる。
切れた鼻緒を抜き取ると、狛村は懐から手拭を取り出した。裂いてこよりのようにして、鼻緒の代わりに穴へと通す。きつく結んで固定すると、じっとこちらに視線を注いでいた子供の足に履かせてやった。
「あ、ありがと」
頬を赤く染めて、子供がはにかんだ。
先ほどの笑みといい、今の表情といい、これまで向けられたことのない表情ばかり。子供どころか大人でさえ、自分を見るときの視線は怯えと警戒が滲むというのに。
頭巾を取ればそれが一気に噴き出すばかりか、罵られ、石を投げられるのだ。刀を持った男達、逃げ惑う女達。
怒りや悲しみを通り越し、呆然とする、自分。
「どうかした?」
強張った体に子供の手が触れた。心配そうな顔で覗き込んでくる。
こんなにも至近距離で、他人と視線を合わせたことはない。思わず仰け反り、その拍子に後ろにあった壁で頭を打った。
「うわっ、大丈夫!? 俺のせい!?」
慌てる子供の手が、今度は後頭部に触れた。上下に擦られ、狛村は息を止めた。
「冷やしたほうがいい。待ってろ、手拭濡らしてくるから」
「いや、構わぬ、」
「でもっ」
「いいのだ。ありがとう」
走り出そうとする子供を押しとどめ、小さな頭を撫でてやった。少々力加減に失敗して、がくんと頭を揺らしてしまった。折れてしまうかと冷や冷やしたが、なぜか嬉しそうに笑っている。まったく理解できない。
去り際、礼がしたいと子供が離してくれなかった。
「気持ちだけで結構だ」
「そんなこと言わずにっ、俺の家、ここから近いんだ、寄ってけって!」
細いくせに子供の力は中々のもので、けれど狛村が引っ張ればずるずると引きずられる。通りの視線が痛い。まるでこちらが幼気な子供を攫おうとしているようではないか。
「礼が欲しくて声を掛けたわけではない。早く帰れ。家の者が心配しているぞ」
今度はちゃんと力加減に気をつけて、子供の頭を撫でた。その拍子に手が離れたので、狛村は大股で歩き出す。背後から、名前が知りたいと子供の声がした。
名乗るほどではなかったので、その意を告げると、子供の顔がなぜかいっそう赤くなった気がした。日が沈む間際、一際煌めいたからだろうか。
橙色の髪が、まるで夕日のように美しい子供だった。
寝て起きると、後頭部に瘤ができていた。ちゃんと冷やして寝るべきだったか。押せば痛みを覚えた。
「頭がどうかしたのか?」
「いえ。少し打っただけです」
元柳斎はそれ以上の追求はせず、話題を護廷入隊に戻した。内心では、どこぞの人間に石でも投げられたかと思っているのかもしれない。
狛村は、つい先日統学校を卒業した。流魂街で元柳斎に拾われ、世話になること数年。ようやく恩返しできるのだと思うと胸が熱くなる。
入隊試験には既に合格し、今はどの隊に振り分けられるかを待っている期間だった。狛村としては元柳斎のいる一番隊で己の腕を振るいたいと思っていたが、同時に甘えを持ってしまいそうで怖くもある。自分を理解してくれている人物が傍にいると思うと人は弱くなってしまう。より過酷な場所でこそ、己は磨かれるのではないかと狛村は考え、十一番隊に入隊希望を申請しているのだが。
「やめておけ。頭巾を引き剥がされるぞ」
元柳斎が言うには、顔も見せられない人間などお呼びでないらしい。元柳斎自身の皮肉も含まれた助言にちくりとやられ、狛村は黙り込んだ。
「十一番隊は選択肢から外しておけ。ちなみに、お前の素顔に難癖つけるような器の小さい隊長格は一人もおらん。配属が決まれば、頃合いを見て素顔を晒してもなんら問題無い」
狛村は、頭巾の奥で気取られぬようにそっと溜息をついた。元柳斎の言う通りであれば、どれほどよいかと。
現実が自分に対して優しくないことを狛村は知っていた。元柳斎がどう言おうと、己は獣なのだ。人間が、獣を同等に扱うだろうか。答えは否だ。
否なのだ。
新入隊員を迎えるその日、十番隊では隊長以外の隊員達が忙しく動き回っていた。
隊長の一護はというと、隊長室の窓辺に座り、ぼんやりと外を眺めていた。
「秋だなぁ‥‥」
食欲の秋。読書の秋。恋愛の、秋。
「うわっ、うわぁああああ」
取り乱した一護が床をバシバシ叩いて、その音が外に漏れようとも隊員達は気にも留めなかった。一月程前から隊長はおかしいので、既に慣れたものだった。
一護は真っ赤になった顔を両手で包み、熱い溜息を吐き出した。
鼻緒を直してくれた彼のことが忘れられない。結局、夜一どころか誰にも言えず、悩む日々が続いている。
誰かが言った。自分は恋していると。
『だって綺麗になったもの』
あぁ、そうだ、京楽だ。言われた日から、一護はますますおかしくなった。
恋だと自覚すると、寝ても覚めても彼のことばかり考えてしまう。ぼんやりすることが多くなって、必然的にミスも増えた。気付けば目の前に虚が迫っていたことさえあるのだから、まさに恋は盲目。
「初恋かぁ」
気付けば畳にのの字のの字。最近の自分の乙女っぷりときたら、自身でもおぞましいと思うほどだ。
小さい頃から男装して、浦原を子分に夜一とガキ大将していた自分が、顔も名も知らぬ男に横恋慕。恋愛なんて今度生まれ変わったらしとけばいいじゃん、とか言ってたくせに、今はどこかの誰かに骨抜き状態。
似合わない。お笑いだ。絶対おかしい。
でも頭の中は、彼でいっぱい。そしてのの字がいつの間にかハート形を描いていることに気付き、一護は恥ずかしさのあまり再び叫んで畳の上を転げ回った。
「黒崎隊長?」
「なんだ!?」
知った顔の部下が、唖然と見下ろしていた。「声を掛けたのですが返事がなくて、」とのこと。恥ずかしい。どこから見られていたんだ。
「‥‥‥新入隊員が挨拶したいと、」
「そっ、そうか、分かった、」
「隊長、御髪を直してくださいね。ひどい状態です」
「うん、うん、」
一人になると、一護は大急ぎで身だしなみを整えた。これから会う新入隊員に、鳥の巣頭で迎えるわけにはいかない。手櫛で髪を整えていると、ふとあの大きな手を思い出した。
革手袋のごわごわとした感触。
思わずいやんと叫びたくなるほどのトキメキを覚え、一護はしばらく身悶えた。
「隊長、入ります。大丈夫ですか? 大丈夫ですね?」
「‥‥‥‥っ!! お、おうっ」
大丈夫じゃなかった。
心の中で、これまでの人生で苦しかったことベスト3を思い出すことによって、一護の体温は急激に下がり、平常心へと戻ることに成功した。若干気分が悪くなったが、表情を引き締め、新入隊員を迎え入れる。
「失礼します」
聞こえた声に、一護の体が大きく反応した。
そんな、まさか、と否定の言葉が頭を駆け巡る。襖を開けて現れた巨躯に、一護は思わず声を上げそうになったが、唇が戦慄く、それだけだった。
「狛村左陣と申します。未熟者ですが、ご指導ご鞭撻のほど、よろしく、お願、い‥‥‥‥」
彼のほうも絶句していた。会ったときとは色の違う頭巾の向こうで、息を呑んでいるのが分かる。
「狛村、左陣」
舌に乗せ、発音する。それだけで震えるほど胸がいっぱいになった。駆け寄って、やっと会えたと親し気に話しかけてしまいたい。
けれど。
「‥‥‥‥期待、している。十番隊に、よく来てくれたな」
ちゃんと言えただろうか。格好悪いところを見せたくない一心だった。甘い声音は隠しきれなかったと後に反省したが、それでも。
一瞬の逡巡の後、彼は深く頭を下げた。