繋がっているようで繋がっていない100のお題
007 この恋が消えたらきっと邪魔になる
十三番隊の敷地の外れ、隊員達もあまり使用しない舎屋に一護はいた。
「おい、コラ、動くなよっ」
さっきからちっとも大人しくしてくれない赤ん坊に、一護はかれこれ数時間も苦戦を強いられていた。これなら虚を相手にしているほうがずっとマシだった。
「あうー」
「涎を零すなっ」
「だぁっ、うー」
「俺の死覇装で拭くなっ」
「うぁああんっ」
「泣くなよ!!」
言葉も分からない赤ん坊相手は疲れると言ったら無い。死覇装の胸の辺りは赤ん坊の涎でべたべただし、引っ張られたり暴れられたりして皺が寄って着崩れている。なんとも情けない格好にさせられた一護は、世の母親達を本気で尊敬した。
そもそもどうして一護が赤ん坊をあやしているのかというと、事情は数時間前まで遡る。
「妻が実家に帰っちゃいまして‥‥‥」
そう言って申し訳なさそうに苦笑いする男性死神の背中には、生後数ヶ月の赤ん坊が背負われていた。
「キャー可愛いー!」
「ちいせえー」
真っ先に飛びついたのは独身の隊員達だった。父親である隊員はほっとした顔を見せると、端で見ていた海燕に伺うような視線をよこす。
「まあ、仕方ねえだろ。家に置いとく訳にはいかねえし」
副隊長の許しが出ると、赤ん坊はその日一日隊舎にいることとなった。しかし父親が任務で現世に下りたことから悲劇が始まった。
「イヤー! この子半紙食べてるー!!」
「吐き出させろっ」
「硯ひっくり返されたぁああ!!」
「やめてー! 墨汁の付いた手で書類に触らないでー!」
執務室はまさに阿鼻叫喚な様相を呈していた。そして短時間で育児ノイローゼになった隊員達は、ある平隊員に目をつけた。
「黒崎、お前たしか小さい妹がいるって言ってたよな!」
「育児とか御手の物だろ! な!」
「‥‥‥‥は? 何の話?」
昼からの出勤だった一護は、同僚達の異様に気迫のこもった台詞の意味がまったく理解できなかった。
「そういやさ〜、お前浮竹隊長と付き合ってんだよな〜?」
「‥‥‥なんスか、急に」
特に隠してはいなかったが、それでも浮竹との関係を聞かれると、一護は恥ずかしくて思わずつっけんどんな返事をしてしまった。
「照れんな照れんな。最近のお前は可愛くなったよ」
「だからっ、何なんですかっ」
頬を赤く染めながら目を険しくさせる後輩に、先輩隊員達はにやりと笑った。
「いずれは結婚、そして二人の間に育まれる命‥‥」
「今から予行演習しといても悪くはない」
「黒崎君、これは試練よ」
「何の説明にもなってないけど、つまりは俺に何をさせたいんだ‥‥」
先輩達の行動は早かった。一護に赤ん坊を押し付けると、笑顔で親指を立てた。
「黒崎、似合ってるぞ!」
「隣に浮竹隊長がいればバッチリだ!」
「母性が滲み出てるわ!」
口々に言われる台詞と拍手がとてもいい加減だということが一護には分かった。しかしそれよりもどうして赤ん坊がこんなところに。
「じゃあな、頑張れよ」
「え」
「父親は夕方には帰ってくるから、それまでは自分の子供のように育てるんだぞ」
「へ」
「黒崎君が羨ましいわ〜。こんな体験、しようと思ってできるもんじゃないもの」
「ちょ」
ちょっと待て、と言う間もなく、先輩達は一斉に散っていった。他の隊員達も一護と目が合うや、ささっと持ち場に戻っていった。
「くっそう‥‥っ、下っ端に押し付けやがって」
十三番隊の炊事場で、一護は恨み言を吐きながら任務を遂行していた。その任務はミルクを作るというものだった。
「人肌‥‥‥こんなもんか」
頬で熱を測ってみる。現世で人間をやっていた頃、生まれたばかりの妹達にミルクを作ってあげた記憶が朧げに甦ってくる。同時に母の思い出も。
「あぶー!」
感傷に浸っていた一護はすぐさま現実に引き戻された。腕の中では早くよこせと言わんばかりに、赤ん坊が小さな手をめいいっぱいに伸ばしていた。
「‥‥‥‥ほらよ」
過去に思いを馳せる時間すら許されないというのか。本当に母親って凄い。
そんな一護の苦労も知らず、赤ん坊はんっくんっくと哺乳瓶に吸いついていた。黙ってそうしていると、たしかに赤ん坊は可愛い。このまま一生飲み続けてくれねえかな、と一護が考えていると、炊事場の扉近くに人の気配を感じた。
「あ、浮竹隊長」
見るとそこには雨乾堂で寝込んでいる筈の浮竹がいた。それも手で胸を押さえてぷるぷると震えている。
「大丈夫ですか?」
肺の病だと聞いていたが、心臓も悪いのだろうか。それに歳だし、と失礼な感想を付け加えて、一護が近寄ろうとすれば、それよりも早く浮竹がやってきた。
そして赤ん坊ごと一護を抱きしめるやいなや、部屋中に響く大声でこう叫んだ。
「結婚しよう!」
「‥‥‥‥けぷっ」
「いっ、一護!? こんなときにげっぷなんて酷いじゃないか!」
「俺じゃねー!」
膝で浮竹を押しやると、一護は挟まれた拍子にげっぷした赤ん坊を見せてやった。しかし浮竹はいまだ興奮冷めやらぬ状態で一護を再度抱き寄せると、熱っぽい調子で口説いてきた。
「赤ん坊の世話を自ら買って出るくらい子供が欲しいとは知らなかった。一護、改めて申し込む。結婚し」
「しねえよ。なんだそれ、誰が自ら買って出たって?」
「だって、皆が‥‥」
あいつら適当なことを。
一護が復讐を誓っていると、浮竹が締まりのない表情で赤ん坊の頬をつついていた。
「可愛いなあ。ふくふくしてる」
腹いっぱいになって満足したのか、赤ん坊が眠そうに目を細めていた。ようやく大人しくなってくれたことで、一護もほっと息をつく。
「さっきまで大変だったんだ。今は可愛いけど、起きたらそんなこと言ってらんないんだからな」
真面目くさってそう言うと、浮竹はさらに表情を緩めて一護を見つめてきた。その幸せそうな表情に一護はどきりとして、思わず視線を逸らす。
「まるで母親のようなことを言う」
「‥‥‥‥別に、そんなんじゃ、」
「早く欲しいな」
なにが、とは聞けず、一護は口籠った。首から上が火照っているのが分かる。
「一護」
「‥‥‥‥はい」
「好きだよ」
緩んだ表情が真顔に戻り、それを横目で見た一護はますます頬を熱くした。普段から煩いほどに好きだ好きだと言われているのに、今この瞬間だけは恥ずかしくてたまらないのはなぜだ。
子供、そんなに欲しいのだろうか。俺と、浮竹隊長の、子供。
「‥‥‥‥‥う、わぁ」
顔とは言わず、全身が熱くなった。
二人の子供。この人の子供を、俺が。
「‥‥‥む、無理、」
「一護?」
「無理ったら無理! だって俺がまだまだ子供だしっ、だから、‥‥絶対、‥‥‥そんなの」
しぃ、と人差し指を唇に当てられ、一護は優しく黙らされた。
「赤ん坊を抱いているお前は母親の顔をしていた。少なくとも俺にはそう見えた」
安心した顔で眠っている赤ん坊がその証拠だと言われて、思わず見下ろすとたしかに眠っていた。小さな手が一護の死覇装をしっかりと握りしめている。思わず一護の表情が緩んだ。
「添い遂げたいと思うのはお前だけだ。過去の所業を振り返ると、お前は信じてくれんかもしれんが‥‥。しかし真実そう願うのは、一護、お前だけなんだ」
「そんな、俺は‥‥」
素直に嬉しいと思えばいい筈なのに、なぜか居たたまれない気持ちにさせられた。
どうしてそんなこと言うんだろう。偉い人なのに、本当なら一護なんて相手にしないのが当たり前の人なのに。
それなのにどうして、自分にこんな大切な言葉を言ってしまうんだ。
視界がぼやける。浮竹の驚いた顔がぐにゃりと歪み、一護は慌てて目元を拭った。
「すまん。泣かせるつもりじゃなかったんだが」
「っう、いやっ、俺も、泣くつもりじゃ」
嫌だな、この人を好きになってから、涙もろくなった気がする。
死神になったらもう泣かないんだと決めたあの日が、どこか遠くに感じる。前よりずっと弱ってしまった自分を自覚して、どうして、と再び自問した。
困ったようにこちらを伺う浮竹を見上げて、一護は覇気のない声で聞いた。
「浮竹隊長、俺のこと、ほんとに好きですか‥‥、」
「っな、なにをいきなり、好きに決まってる!」
「ほんとに、ほんとですか‥‥、」
「本当だ。どうしてそんな顔をするんだ」
「だって‥‥っ」
これはきっと劣等感だ。
どうしても考えてしまう。自分はこの人の隣に立っていていいのだろうかと。
前の恋人達は誰も彼もが綺麗で才媛と有名で、間違っても自分みたいな子供はいなかった。浮竹の気持ちがいつか冷めるんじゃないかと心の隅では考えていて。この人に飽きられるまでは傍にいようと、別れたいと言われたら余裕の笑みで別れてやるんだと決めていた。けれど今は。
「うきたけ、たいちょぉ‥‥‥」
そのとき目の前で揺れる浮竹の指が一護の視界に入った。ヤケになっていたのかもしれない。気がつけば、その人差し指をぱくりと銜えていた。
「いっ、一護!?」
逃げようとする浮竹の指に、一護は逃がすまいと歯を立てた。驚く男の表情を上目遣いに見つめながら、一護は舌を這わせていた。浮竹の指の皮膚は硬くて乾いていて、しかし同じ刀を扱う自分のそれとはどこか違う気がした。
「ん‥‥」
薬の味がする。苦くて、甘い。浮竹の味だ。一護は爪先辺りをちゅっと吸い上げて、舌で何度も舐め上げた。
「‥‥っ、一護、もういいっ、」
「‥‥やだった?」
「まさか! むしろ良すぎて、その、‥‥‥色々と我慢がきかなくなりそうだ」
少し火照った頬と切羽詰まったその声に、一護はまたもや泣きたくなった。
嬉しいのか恥ずかしいのか悲しいのか、それすら分からない。どうしてこんなに苦しいのか、自分の気持ちの正体が掴めない。
「‥‥‥‥好き」
自然と唇から出た、初めて言葉で伝える自分の気持ち。浮竹の目が自然と見開かれる。
「‥‥‥‥子供も、いつか産むからな!」
浮竹の口があんぐり開いて硬直するのを確認もせず、一護は赤ん坊を抱えて走り出していた。