繋がっているようで繋がっていない100のお題

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  011 君はきっと自分で戦うのだろう  


 フラスコの中の液体がちゃぷんと音を立てた。
「できてる」
 その一言に、一護はどれほど打ちのめされたか。ぽかんと口を開け、ふらりと後ろに倒れ込みそうになった。
「おいおい大丈夫か」
「だい、じょーぶ‥‥‥」
「じゃなさそうだな。そこに寝ろ」
 阿近に支えられ、近くのソファに運ばれた。頭がぐらぐらする。
「できて‥‥え‥‥でき‥‥えれきてる‥‥?」
「現実逃避は結構だが、俺は『できてる』と言ったんだ」
 阿近の冷静な口調が一護の動揺を鎮めてくれ‥‥‥るわけがなかった。指をガジガジ噛んだり、頭を抱えてわーわー叫んだり、終いにはソファに突っ伏して一護は泣いた。
「誰か嘘だと言ってくれ!」
「嘘だ」
 ありがとう。でもまったく意味が無い。その言葉が既に嘘だ。
 ソファに沈んでめそめそ泣いていると、阿近が無言で膝枕をしてくれた。上から液体を啜る音がした。きっとビーカーに入ったコーヒーだろう。頭を撫でてくれる冷たい手を感じながら、一護は固い膝にしがみついてしばらく嗚咽した。
 コーヒーの香ばしい香りが途切れた頃、阿近が言った。
「相手は?」
「言いたくない‥‥っ」
「修兵か」
「なんで当てちゃうんだよ!」
 撫でていた手が、一護の頭をこんと叩いた。
「馬鹿が。あんなちゃらんぽらんと付き合うからだ」
「だってっ、」
 好きなんだもん、と可愛らしく言い返すと、今度は本気の拳骨が頭に落ちた。結構痛い。
「あいつはどうせ責任なんかとらんぞ。そういう奴だ」
「分かってる‥‥」
 どうして好きになったのか自分でも分からない。不誠実を人の形にして『69』と書いたら修兵ができあがるほど、女にだらしない男だ。一護は恋人という立場ではなく、ただ抱いてもらったに過ぎない。修兵にしてみれば、遊びの一つだったに違いない。
 だからといって、たった一度でできるなんて!
「阿呆。やったらできるんだよ、当たり前だろうが。命中率を甘く見たな」
「でもっ、そんなん言ったら今ごろ修兵さんの子供だらけになってるだろ!」
「まあな。だが避妊だけはきっちりやってたようだぞ。後々面倒くさいことにならんためにな」
 そういうところはしっかりしてる、と阿近は皮肉たっぷりに言った。一護だって知っている。だがあの日は、避妊、していただろうか。よく思い出せなかった。
「男ばかり責めるな。相手任せにしていたお前も悪い」
 ぴしゃりと言われ、一護は項垂れた。忘れかけていた涙がぶり返し、すんと鼻を啜った。ちり紙を顔に押し付けられ、ぐりぐりと鼻を拭かれた。阿近の手がまた一護の頭を撫でていた。
「で、どうするんだ?」
「‥‥‥‥どうしよう」
「今のお前の給料を考えてみると、育てるのは大変だぞ。下ろすか?」
「大根みたいに軽々しく言わないでくれ‥‥」
 一護の涙が、阿近の技術開発局の制服を濡らした。次第に大きくなる染みを見つめながら、これからのことを考えた。平隊員、危険な任務、安月給と、思い浮かぶのは碌でもない事実ばかり。将来なんてひどくあやふやで、何一つうまくいかないんじゃないかと思えてくる。
 ‥‥‥うまく?
「うっ!」
「なんだ? どうした? もう産気づいたか?」
「‥‥‥っう、うぅっ、」
 うわぁあああああん!!
 突然の大号泣に、さすがの阿近も目を見開いて固まっていた。一護はそうとも知らず、声を上げてわんわん泣き叫んだ。
「お、おい、」
「俺ってバカ! バカバカだっ」
「いや、うん、‥‥っあ、待て、泣くな、」
 狼狽える阿近なんて滅多に見られるものでもないのに、一護はまったく眼中に無かった。それどころじゃない。手で押さえても後から後から涙が溢れ出す。溺れそうだと泣き喘いだ。
「生みたいとか思ってるっ、生みたいの前提で、考えてるっ、うっうっ、‥‥ほんと、どうしようもねえっ、」
「修兵に言うのか?」
「言えるわけねーじゃんっ、ひっ、一人でっ、育てるー‥‥っ」
「できるのか? 言っておくが、俺は手を貸さんぞ」
「俺の子供だもんっ、ひっく、誰の、手も借りねえよっ、う、グスっ、うぅっ、」
 ぼろぼろ涙を零しながら一護はやおら立ち上がった。袖で乱暴に顔を拭って、いまだ呆気にとられている阿近を見下ろすと、頭を下げて出ていった。



 あれだけ泣いていたのが嘘のように、翌日顔を見せにきた一護は晴れ晴れとした表情をしていた。四番隊の友人に打ち明け、定期的に検診に通うことが決まったと報告して、またなと言って去っていった。どうやら覚悟を決めたようだ。今まで以上に仕事に打ち込み、席官入りを目指しているらしい。
 かたや修兵は相変わらずだった。
「最近、一護が遊んでくれねー」
 死ね、と正直思った。こいつ一人がいなくなったら、世の中少しはよくなるかもしれない。一護だって泣かずに済んだ筈だ。能天気に喋る腐れ縁の男に、阿近はわずかばかりの殺意を抱いた。
「誘っても仕事仕事ばっか言ってよ、なんか避けられてるんだよなー」
「どうせお前が避けられるだけのことをしたんだろう」
「分かる? 分かっちゃう? おい聞いてくれよ、俺、一護とやっちゃった」
 殺したい。
 なんだこの不快感は。同じ男としてこいつの軽さが許せない。一護の泣き顔を見たせいか。まだガキのくせに生むと宣言して頑張っている姿を知っているせいか。
 自分の中の人間らしい感情の動きに気がつくと、阿近は少しだけ冷静になれた。ここで感情のままにメスをぶん投げても仕方ない。むしろ不審に思われるだけだ。誰にも言わないでくれと一護に頼まれたのだから、ここは平常心を保つことにした。
「照れてんのかな。俺と話すとき、顔が真っ赤になってんだぜ」
 椅子に反対向けで座り、縁に顎を乗せて修兵は面白そうに語っていた。この罪作りめ。やっぱり死ね。
「俺のこと好きなんだと思う。な、お前もそう思うよな?」
「知らん」
「そうなんだよ、間違いねえって!」
 だからといってほいほい手を出したこいつは馬鹿だ。避妊もしくじりやがって、特大級の馬鹿だ。一護も馬鹿な男に惚れたものだ。二人まとめて馬鹿だ。
 今頃、一護は現世で任務をしているかもしれない。体調に支障が出るまでは仕事をして、少しでも給料を稼ぐつもりだろう。現世の任務は数をこなせばこなすほど、虚を倒せば倒すほど給金が加算される。お腹の子供を考えつつ、考えていない矛盾な状態に一護はいた。
 虚に腹を裂かれたらどうする。投げつけられたらどうする。危険と分かっていて、でもそうするしかない。人間一人を育て上げるのだ、大金がいる。隊が援助してくれるわけでもない。自分一人の力で生きていくのがこの世界だ。
 だが。‥‥‥だが、と考えがループした。このままでいいのか。いつか限界が来るんじゃないか。
「どうした、阿近? 手が止まってんぞ」
 実験途中であることも忘れ、阿近はぼんやりとしていたことに気がついた。目の前に並べられている、グロテスクな生物がホルマリン漬けで詰まっている瓶に、自分の間抜けな顔がいくつも映っていた。
「‥‥‥お前は一護のこと、どう思ってるんだ」
「あん? なんだよいきなり」
「答えろ」
「可愛いなーとは思ってるけど」
 他の女へと向ける感想と同じだった。そこには薄めて溶かした愛情があるだけだ。いくらでも生産されるそれを、色んなところでばらまいて、誰かが泣いているかもしれないとは欠片も思わない。薄情なところが自分とよく似ていた。だからこそこの男とはウマが合ったのだ。
 他人を、ずっと軽く見ていた。しかし一護はそうじゃなかった。いつだって真面目で全力で嘘が無かった。新しい命に絶望して泣いて希望を見いだして、一人で頑張るとか言って。
 気付けば瓶を掴み、背後の修兵に向かって投げつけていた。
「な、何すんだよっ、つーか何だコレっ、キモ!!」
「用事ができた。出ていけ」
「あぁ!? んだよっ、せっかく来てやったのに」
「誰も呼んでない。もう二度と来るな」
 修兵を追い出し、遅れて阿近も研究室を飛び出した。向かった場所は十三番隊の隊舎。知った顔を捕まえ、一護の所在を聞き出した。
 案の定、一護は現世に出ていた。ここ最近、多いのだと言う。わざわざ同僚の任務を代わってまで現世に赴き、着実に虚を討伐するもお陰で生傷が絶えない。なぜか本人超やる気、とのほほんと答える知り合いにイラっとさせられた。
「阿近さん?」
 不意に後ろで声がして、振り向くと一護が立っていた。左腕を押さえている。黒い死覇装の一点が濃さを増していた。
「お前っ、怪我したのか!?」
「うん、ちょっと」
 何をへらへら笑ってるんだ。思わず殴りつけてやりたくなった。
「腹だったらどうする。出血が多かったらどうする。死ぬんだぞ」
「‥‥‥‥うん」
 少しだけ俯き、一護は控えめに笑った。心配されて嬉しいと思う心が透けて見えた。
 あぁ、と阿近の唇から溜息が漏れた。無事な右腕を掴み、一護を四番隊へと引っ張っていった。
「現世の任務はもうやめろ。せめて生まれるまでは大人しくしておけ」
「駄目。俺、貯金あんまりねーし」
「俺が貸してやる。いいか、貸してやるんだぞ。後でちゃんと返せ。だから今は危険な任務につくのはやめろ。頼むから」
 一護が立ち止まって腕を振りほどこうとしたが、強引に引っ張った。今、どんな顔をしているのだろう。振り返って確認する気にはなれなかった。
「‥‥‥痛えよ、阿近さん、」
「うるさい。喋るな」
 苛々した。一護に、違う、自分にだ。俺は何をやっている。
 面倒を見てやる気になっている自分が、どうしようもなく馬鹿だと思った。馬鹿三人か。くそ、嫌になる。
「お前は書類相手にせこせこ金を稼いでいればいい。暇ならガキの名前でも考えていろ」
 掴んだ腕からわずかな振動が伝わってきた。泣くな、鬱陶しい。歩きが遅くなったが、歩調を緩めてなどやらなかった。
「腹が目立ってきたら、仕事は一切休め。相手が誰か聞かれたら、」
 細い腕を強く握って言った。
「俺の名前を出せばいい」

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