繋がっているようで繋がっていない100のお題
013 何もかもを敵に回したとしても
あの人のことが好きだった。初めて好きになった人だった。
『ギン』
あの人の唇から自分の名前が奏でられる、その瞬間が好きだった。低めの澄んだ声音。
声を上げて笑うところは見たことがなかったけれど、自分を見下ろし困ったように笑う顔が一番の気に入りだった。
髪の色が好きだった。鮮やかなオレンジ色。
伸ばしたら綺麗なのに。そう言うと、あの人は決まってこう言った。
『面倒くさい』
洗うのが楽なんだとか、水だけで整えられるんだとか色々言って、結局は短いまま。触るとふわふわしていて、自分のまっすぐの髪とは全然違っていた。
あの人の強さに憧れていた。藍染とは違う、純粋な強さに。
何度負かされたことか、何度腕を引っ張って立たせてもらったことか。焦らずゆっくり強くなれ、そう言われても余計に気持ちは急くばかりで、ギンは早くこの人よりも強くなりたいと願った。近々、十一番隊の副隊長に抜擢されるらしく、そうなる前に一矢報いたいと。
付き合いの長い藍染よりも、東仙よりも、自分こそがあの人のことをよく知っていたという自負があった。隙間を埋めたくてしきりに話しかけ、誰よりも構ってもらったのはこの自分。一緒にご飯を食べたり夜更かししたり、月明かりだけを頼りに二人で散歩をしたり。そう、あの人のことをすべて分かっていた気になっていた。
「どないしたんです? 怖い顔してる」
「‥‥‥あぁ、なんでもない」
いつからか、あの人は黙って考え込むようになった。斬魄刀の柄を撫でながら、意思の疎通をして。その顔が徐々に曇っていく様を、ギンは何度も見ていた。
「何かお困り? 相手は人? ボクが殺してあげましょか」
役に立ちたかった。だからそう言ったのに、あの人は唐突に自分の頬を張った。
「バカっ、」
そして抱きしめてくれた。初めて他人に抱きしめられたときの感動と言ったら無い。顔に押し付けられる膨らみ、匂い、力強さ。そのどれもがギンを幸福にさせた。
「ごめん、ごめん‥‥っ」
あの人はずっと謝っていた。
雨だった。
「‥‥‥‥殺してしもたん?」
あの人が死んだ。死んでしまった。
藍染様に、胸を貫かれて。
切っ掛けは何だったろう。計画が本格的に動き出したとき? 仲間の死神を殺した辺りだろうか。
もしかしたらそのずっと前からかもしれない。あの人はあまり変えない表情の向こうに繊細な心を抱えていた。誰よりも真っすぐで歪んでいない正義を持っていたと、ギンは知っている。
その正義が、藍染を許せなかったのだ。
「‥‥‥‥痛い、」
あの人に斬られた脇腹から、血が流れていた。傷は浅い。どうしてもっと深く斬り込まなかったのだろう。
「‥‥痛いっ、」
どうしてか今になって、初めて抱きしめられたあの光景が脳裏をよぎった。何よりも幸福だった瞬間が、今のギンをこれでもかと苦しめる。
「痛いっ、なんでっ、」
なんでそんなに穏やかな顔で死ねるのか。笑ってさえ見えるその死に顔が憎らしい。
自分は裏切られたのだ。それなのに。
死ぬと分かっていてそれでも正義を貫いたあの人のことが、ギンはやはり好きだった。好きなままだった。
「ギンって呼んで」
握った手は温かい。触れた髪はオレンジ色のふわふわで。垂れ目なのに鋭い眼光。低めの声。記憶の中からそのまま抜け出してきたあの人が、目の前にいる。
名前は一護。それだけが違った。
「‥‥‥市丸、」
「ううん。ギンって呼んでくれなアカン」
「‥‥‥市丸、ギン」
「名前だけで」
すると口を閉ざしてしまった。残念。
「‥‥‥なんか用?」
警戒心も露な視線。茶色の目に自分が映る。それだけのことなのに、ギンは唇を吊り上げてにんまりと笑った。
両手に余る大きさの箱を開け、猫みたいにこちらを警戒心たっぷりに伺う一護に中身を見せてやった。
「お靴。まだ履いてないやろ?」
裸足のままでは寒いと思い、わざわざ持ってきてやったのだ。そのもったいぶった言い方に、一護はうんと嫌そうな顔をしてくれた。表情豊かだ、まだ十五年しか生きていないからだろうか。
「座って。履かせてあげる」
「自分で」
「はい、あんよは上手」
すばやく近寄り片足を取ると、一護は慌てた声を上げながら後ろの寝台に倒れ込んだ。スプリングの利いたそれに気を取られているうちに、ギンは膝を折りさっさと靴を履かせてやった。
「昔と反対やね。ボクに靴を履かせてくれたのはセンパイやったのに」
「‥‥‥‥誰だよ、先輩って、」
「教えてあげませーん」
ちゃらけた物言いに一護の視線が鋭く尖った。何か言おうと口をぱくぱく、結局何も言わずに黙り込む。けれど苛立ちは拳となってシーツにぼすりとめり込んだ。
それからは話しかけても完全無視。終いには沈黙が落ちる。けれどそれは、ギンが唐突に一護に覆い被さったことで打ち破られた。
「っぎゃー! っな、何だっ、何なんだっ!?」
「センパイ」
「だから誰だよ!」
「抱っこ」
ひぃいっ、という一護の情けない悲鳴を自分の胸へと仕舞い込むようにして抱きしめ、ギンは勢いよく寝台へと倒れ込む。
「センパイ、センパイ、」
「ちょ、ちょっとっ、」
駄目、もう駄目、抑えがきかない。
自分はよく我慢した。だからちょっとくらいと言い訳して、ギンは暴れる体を散々に抱きつぶし、嫌がる一護の顔中に唇を押し付けた。
「センパイの顔、しょっぱいなァ」
「‥‥‥っな、泣いてるー!?」
「へ? ‥‥‥‥っう、うぐ‥‥うそぉ」
本当、泣いてる。目の奥が焼けるほど熱い。
一護のせいだ。だって匂いが同じだった。あの人の匂いが、一護から香ってくる。
やっぱりこの人がセンパイなんだ。自分が好きになった人。
「何なんだよ、お前‥‥大丈夫か?」
指の隙間から一護を覗くと、困ったような顔でこちらを見ていた。
あぁ、駄目、そんな顔をされたら、もう。
「センパイ、センパイっ、」
どうしようもなく懐かしくて愛おしくて一護の胸にダイブした。顔にぶつかる膨らみは、やはり、なんというか、
「ちっさい」
「ぉおおおお前今何つった!? どこが!? どこが小さい!?」
貧乳を気にしてるところもセンパイと同じ。大丈夫、自分は小さめも好き。
あぁ、それにしてもなんて良い匂い。ふにゃふにゃになってしまいそう。
ギンは安心しきった顔で目を瞑り、困惑する一護の胸に擦り寄った。心臓の音が聞こえる。あの日、雨に打たれて徐々に体温を失っていった人が、今は温かく鼓動を打っている。なんて幸せ。
「これからはボクが靴を履かせてあげる。ボクが抱きしめて頭を撫でてあげる。転んだら、ボクが起こしてあげるから。センパイがしてくれたこと、今度はボクがお返しする番や」
背が伸びた。力も強くなった。お前はどんな大人になるのだろうと、ボクの成長を楽しみにしてくれていた人。
「お帰りなさい、センパイ」
もう離さない。藍染からも、貴方を守る。