繋がっているようで繋がっていない100のお題
033 広げられた腕は抱きしめてくれることはしない
痛い! 痛い! 死にたくない!!
暗闇の中を駆けていた。
背後から複数の松明の光が追いかけてくる。狛村は灯ひとつ持たずに木々の隙間をすり抜け、死にものぐるいで走っていた。
着物が枝にひっかかり、裂けて嫌な音を立てた。それでも走ることをやめなかった。やめられなかった。捕まったら殺される。嫌だ、死にたくない。
水流の音が、鋭敏な聴覚を刺激した。導かれるように、足は勝手にそちらへと向かった。次第に迫る怒号。怪我さえしていなければ易々と撒けるものを。
「いたぞ!」
突如、目の前が明るくなった。挟まれた! 思うと同時に聞こえた獣の断末魔。自分のものだと気付いたときには、肩に鋭い痛みが走っていた。
ぎゃうぎゃうと情けない悲鳴を上げて、狛村は前後から迫る追跡者から逃れ、脇へと走った。次第に近くなる水の音。川にたどり着いたからといってどうにかなるものではないと分かっていたのに。
走って走って走り抜けて。
地鳴りのような音を立てる滝壺を、いつしか覗き込んでいた。落ちたら死ぬ高さだと獣の目でなくとも十分に分かる。狛村は背後をふらりと振り返り、そして。
「左陣?」
明るい茶色が間近に見えた。先日、元柳斎の屋敷で御馳走になった茶の色と似ている。名前は覚えていないが、とても美味しかったことは覚えていた。
その茶の色だ。どうして儂は、茶を覗き込んでいるのだろう。
「左陣、寝ぼけてるのか」
頭巾越しに頬へと触れられた。
「痛いっ!!」
はっと息を呑む狛村の目の前に、苦痛に歪む一護の顔があった。細い手首を握りしめているのは、自分の手。
「申し訳ないっ」
慌てて離し、平身低頭した。心臓が激しく鼓動を打ち鳴らしている。今の状況、場所を思い出し、全身の体毛が逆立った。
「いや、俺こそ驚かせてワリぃ。頭上げてくれ」
恐る恐る頭を上げた狛村の視界の先で、茶の色をした瞳が申し訳無さそうに揺れていた。しかし目が合うと、ぱちっと瞬きをして今度は違う色を見せた。動揺。羞恥? 一護はそわそわしだした。
「つ、疲れてるのか? こんなところで寝てるなんて、珍しい、な」
こんなところというのは、十番隊隊舎の裏庭である。枯葉を集めて焼却するのが左陣の役目であった。しかしいつのまにか木の根元に座り込んで眠っていたらしい。死神になってからは一層気を張らねばならないと思っていたのに、気を抜いて眠りこけてしまった自分を恥ずかしく思った。
「ここ、気持ちいいだろ? 俺も死神になりたての頃はさ、よく寝ちまって」
先輩に叱られたり、それでも懲りずに何度か寝こけてしまったらしい。苦笑いしながら話す一護が、隣にすとんと腰を下ろした。白い羽織と黒の死覇装が擦れ合う。間近に座られ、狛村は驚いて声も出せなかった。
「あっ、俺は怒らねえから安心しろよな! ‥‥‥な、なあ、やっぱり疲れてんのか? 仕事、辛いか?」
喋らない狛村に不安を覚えたのか、下から伺うように覗き込んでくる。狛村はわずかに身を後ろに引いた。真っすぐに目を見つめてくるのは癖であるらしい。
「左陣?」
一護の目の中に自分の姿が映っている。それがひどく申し訳ないことのように思えた。
「いいえ、ご心配には及びませぬ」
「苛められたりとか、ないか?」
「そのようなこと! 親切な方達ばかりで助かっております」
本音を言えば、あまりによくしてくれるものだから困っている。やれ飲みに行こうだとか、飯食いに行こうだとか、人を避けて暮らしてきた狛村にとっては過剰とも言える構い方だ。気後れしてしまう自分に問題があることは分かっていたが、それをそのまま一護に言うほど愚かではなかった。慎ましい言い方で、ただ助かってますとだけ伝えた。
「じゃ、うちにいてくれるんだな?」
不思議なことを訊いてくる。首を傾げると、一護は唇を突き出してぶちぶちと言った。
「十一番隊の隊長が、お前をよこせって、」
よほど腹立たしいのか、拳を握って恨み言を吐き出している。あのブタ野郎、という言葉を左陣は聞かなかったことにした。
「お前はうちの隊員だからなっ、行っちゃ駄目だからなっ」
「はぁ、十番隊におりますが、」
「俺のところに!? さっ、左陣!!」
なぜか興奮して肩に掴み掛かってくる一護を、狛村は思わず避けてしまった。勢いよく木にぶつかった一護を見下ろし、狛村はしまったと思ったが後悔はしなかった。
「‥‥‥‥申し訳、ありませぬ」
隊務に慣れた頃だった。季節は獣達が長い眠りにつく時期。山での暮らしが思い浮かぶも、狛村は死神として精力的に働いていた。
頼まれた書類を各隊に振り分けていたときのこと。そよと吹いた冷たい風に、思わず身を竦ませる。同時に、狛村の鼻孔を薬剤に似た匂いがくすぐった。くん、と鼻を動かした直後。
「君が、狛村左陣君?」
背後に男が立っていた。警戒する間もなく近づかれていたことに狛村は驚愕した。
「前にもお会いしましたねえ」
「‥‥‥‥浦原、隊長」
これが隊長格というものか。内心冷や汗をかき、狛村は恭しく頭を下げた。
「聞いたんです」
「は?」
そのまま通り過ぎるかに思われた浦原だが、ぐるりと狛村の回りを歩き始めた。足音も立てず、廊下も軋まない。元二番隊出身だと知らない狛村は、素直に驚いていた。
「最近、一護さんが可愛がってる隊員がいるってね」
「‥‥‥はぁ、黒崎隊長が、」
「ええ、そう。だからどんなものかと思って見に来たわけっスよ」
浦原の視線が真っすぐにこちらへと注がれている。気に入りの隊員とは、まさか自分のことなのだろうか。脳裏に溌剌とした一護の笑みが浮かんだ。
「どんなにいい男かと思ったら、なーんだ、大したことなくて安心しました」
ぐ、と息を呑み込み、狛村は顎を引いた。侮辱されたことによる不快感というよりも、戸惑いを覚えた。冷たい双眸は、これまでに注がれてきたものとはどこか違っていたからだ。その目には、闘志が垣間見える。
「顔も見せられないような人間、話にもならない。でもどうして一護さんは気にかけるのかなあ」
「‥‥‥‥そのようなことは、ありません。隊長は平等に接してくれています」
「そりゃそうっスよ、隊長ですもの。一護さんには、部下を平等に守る義務がある」
浦原はぐるりと一周すると立ち止まった。はるか上にある狛村を見上げ、言った。
「優しい子だ。でもね、一護さんは結構薄情なところがある。皆大事、皆好き、そうやって一括りにするところがね」
まただ、また闘志、いやもう敵意に変わっている。排除するというそれは、狛村にとっては馴染みのものだ。だが色が違う。これは何だ。
「で、君はどうなのかなーって」
笑みを向けられた瞬間、怖気が走った。死覇装の下でびりびりと立ち上がる体毛を撫付けたい衝動を覚えるも、狛村は努めて平坦な声を出した。
「ただの、部下に過ぎません」
「それは君の意見だ。興味ないっス」
だったら聞くな、と狛村は珍しく苛立った。
「黒崎隊長のいないところで、このような話はされるべきではありません。直接お尋ねしてはどうか?」
「お、言うっスねえ」
「浦原隊長は誤解しておられる。貴方の言う通り、儂は取るに足らない者です。そのような者を気にかける人間がおりましょうか」
「いません」
「だったら、」
「でもね、一護さんは違うかもしれない。あの子は昔から、こっちが理解できないようなものに執着することがあった。ボクにしてみれば、くっだらないものにね」
浦原が一歩足を進め、狛村に近づいた。思わず後じさったが、冷たい壁に阻まれる。身長差をものともせず、浦原は狛村を圧倒していた。
「そう、君はくっだらないんでしょうね。だから一護さんは心惹かれたんだ」
浦原の手が伸びる。一瞬だった。一瞬で。
「‥‥‥‥へえ」
秘密を、暴かれていた。