繋がっているようで繋がっていない100のお題
039 白くしなやかな腕が振り下ろされ
地下に作られた牢獄に辿り着くまでに、およそ半日かかった。そして戻るのにも半日。つまりは一日かけて、『それ』は執り行われていた。
通常、処刑の決まった囚人は、塔の中に閉じ込められる。見せしめだ。また死に逝く囚人に外の風景を見せてやるための措置でもある。それは最後の情けなどではない。決して手に入らぬ自由を目の前にぶら下げる、罰の一部でもあった。
しかし地下に収監された囚人には、外の光も、人との接触も制限されてしまう。この先出すつもりはない、という意思表示である。多くは気に狂いが生じるが、わずか小数、馴染む者がいた。
その馴染んだ者の一人に、一護はこれから会いに行くところだった。
重い鍵束を腰に嵌め、燭台ひとつを手に持ち、ひたすらに階段を下っていた。途中、何度も扉に遭遇し、そのたびに鍵で開けていった。背後でひとりでに閉まる扉の音を聞きながら、一護はまた一段、階段を下った。
蝋燭が短くなっていた。替えの蝋燭を懐から取り出し、燭台に取り付ける。火が揺らいだ。小さく開けられた通風口が、地下から地上へと空気の流れを作り出していた。まるで虫の巣にいるようだと一護は思った。ならば自分は外敵にほかならない。看守といっても、ここに住む囚人こそが巣の主と言える気がしたからだ。
最後の扉を目の前にしたときだった。ここで、いつも一護の意志が挫けそうになる。
不気味だった。おそらくこの感情は、間違ってはいない。扉の向こうに行きたくない。引き返したい。子供が癇癪を起こすように、泣きじゃくり、地団駄して、行きたくないんだと叫びだしたくなる。
だがそれは無理だ。任務を終えなければ、通ってきた扉は開かない仕組みとなっていた。これではどちらが囚人だか分かったものではない。苦しみ、恐怖を感じているのが看守のほうだというのだから、理不尽を通り越していっそ滑稽だった。
この任務に就いたときに書かされた遺書の意味が知れてくるというものだ。残された家族の保障、見舞金、その他諸々が書かれた書類の内容が、一護の頭を虚しく通り過ぎていった。
替えたばかりの蝋燭が、随分と短くなっていた。時間の経過に自分でも驚き、少しだけ冷静になることができた。
鍵の束からひとつを取り出すと、頭上高くそびえ立つ扉の小さな鍵穴へとゆっくり差し込み、左に回した。
「おはよう、黒崎君」
暗闇の向こうから男の声がした。随分と前からこちらの来訪を予期していたかのような落ち着きぶりを感じる。
ここには太陽の光は届かず、ましてや時計も存在しない。食事は不定期。それなのにこの男は正確な日時を把握していた。
燭台をかざし、一護は用心深く歩を進めた。次第に露になる石牢の、その奥に囚人はいた。
「やあ、よく来てくれたね」
わずかな灯りの中、浮かび上がった微笑みに一護は全身を総毛立たせた。それでも表面上は平静を装いながら、石牢へと歩み寄る。
今だ、今だけ耐えるんだ。暗示のように言い聞かせ、一護は準備を始めた。
役目を終えた後は、常に吐き気と目眩に襲われ、恐怖に浸食された体は震えが止まらず、精神を均衡に保つ薬剤は手放せないものになっていた。
目の前にいるのは数多の看守を破滅に追い込んだ男。
「藍染惣右介」
かつて、尸魂界の転覆を画策し、多くの死神を殺めたという。一護が死神になるずっと以前の話だ。
「いつも通り、壁に向かって立て。おかしな真似は」
「しないよ」
一見、優男ふうの青年だった。犯罪歴を見なければ、誰もがそう評したことだろう。
当時も、この外見や演じていた人柄に騙された人間が数えきれなかったと聞いている。恐ろしい計画と大量殺人が露見しても、まさか彼が、と信じない隊員が護廷の大半を占めていたとか。
恐ろしい男だ。それを知っている一護は、慎重に牢の鍵を開け、足を踏み入れた。
言われた通り、藍染は手枷の嵌められた体を壁に向けていた。まったくの無防備。それに油断するどころか警戒して、一護は慎重に近づいた。
一歩、距離を縮めるたびに、植え付けられた恐怖心が目を覚ます。
「そろそろ冬だね。空気が変わった」
「喋るな」
体中を掻きむしり、叫び出したい衝動に襲われながら、一護は震える指先に霊力を集中させた。
「固いことを言わないでくれ。僕の話し相手は君しかいないのだから」
振り返った藍染と視線が合い、一護の喉がおかしな音を立てた。呑み込まれるという安易なものではない。
喰い、殺される。恐怖が、背筋をもの凄い速さで駆け抜けた。
「さあ、やってくれたまえ」
叫びを上げる寸前で、藍染が元の体勢へと戻っていた。
全身から汗がどっと噴き出し、一護は喘ぐように呼吸した。頭がぐらぐらする。体が極度に冷えていた。
どうしてだ、どうしてこうも苦しめられてまで、俺は職務に忠実であろうとする。中央は、なぜこの男を処刑してしまわない。一体どれだけの犠牲を払い続けて生かしておくつもりなんだ。
放り出してしまいたい誘惑に駆られるのは常のことだった。しかし、思い直すのも常のこと。
気力だけで震える足を肩幅に揃えて開き、一護は痺れ始めた指先に再度霊力を込めた。小刻みに震える指先を藍染の背中へと伸ばす。
何も考えるな、感情を閉ざせ。
一護は、白装束を剥ぎ取った。
光を浴びない白い背中。衰えない筋肉が目に映る。一護は頸椎の一番上に指先を押し当てた。
「‥‥‥っ、冷たいな」
戯言は聞き流し、一気に霊圧を上げた。硝子を引っ掻くような耳障りな音が牢屋に響き渡る。藍染が、わずかに呻き声を上げた。
決まった量の霊力を流し込むと一護は指先を引いた。立ちくらみに膝をついたが、どうにか呼吸を整える。こめかみを伝った汗をぬぐい去り、一護は壁に向かって佇む男を裏返し、乱れた着物を整えてやった。
「君の霊圧も心地良くて好きだけれど、こうして世話してもらっているときが一番好きだよ」
一護は何も答えなかった。ただ黙々と作業を続けた。
藍染の体に埋め込まれた特殊な殺気石。これにある一定の霊圧をかけることが、一護の、看守の役目だった。
一週間だ、この男を無力にさせることができる。
たったの、一週間。
どの看守も、一月と経たずに死んでいった。
発狂。自害。看守の悲惨な末路は数え上げればキリが無い。次は自分だと、一護はよく分かっていた。
今の任務についてから、もうすぐ半年。精神は限界まで擦り切れていた。皮一枚繋がった理性が、これ以上の犠牲を出すなと一護に言い聞かせている。
果たして、藍染を生かす意味があるのか一護には分からない。史上類を見ない大罪人、そう簡単に死刑にはできないという上の意志がこの男を異常なまでに永らえさせていた。
ときどき、錯覚してしまう。
自分たちの命は、この男に捧げる為にあるのではないのかと。燃え盛る炎の中に舞い落ちる不幸な枯葉のように。ただ燃え尽きるその一瞬、音を立てるだけの瑣末な存在が、この自分なのではないか。
藍染は、そうやって消え逝く枯葉を眺め、楽しんでいる。
「ーーーーーっ!!」
「大丈夫かい?」
一護は口を覆って身を折り曲げていた。胃液とともに、口内で鉄臭さを感じる。堪えきれず数雫が零れ落ちた。
血だ。
極度のストレスが、一護の体を蝕んでいた。血の付着した掌を見下ろし、一護は呆然とした。
「俺は、」
‥‥‥‥死ぬのか?
零れ落ちた言葉に対してか、藍染が嗤うのが耳の端で聞こえた。何がおかしいのだろう。苦しむ人間を見て快楽を得る人間がいるとは聞くが、この男もその類いであるというのか。
「君はよく頑張っているよ。驚嘆に値するほどだ」
「黙れ、」
「そう、その意気。私に言い返してくる人間は君だけだよ。今までの看守は面白くなかった」
「‥‥‥だから、殺したのか、」
「殺した? おかしなことを言うね。この状態で、私に何ができるというんだ」
手枷の嵌められた両手を掲げ、藍染は首を傾げてみせた。物腰柔らかな様子で、虫すら殺せないという顔で。
「私は何もしていない」
「追いつめただろうっ」
「話をしただけだよ。でも残念なことに彼らは無口でね、会話という会話はできなかったな」
違う、恐怖で口がきけなかっただけだ。
この男は、暴力を用いずとも人を破滅に追いやることができる。それを自分自身、よく知っている。
「楽しいかっ、それとも、そんな価値すらないか、俺達は暇つぶしの道具なんだろう!」
「今日はよく喋るね。嬉しいよ」
「どうしてお前はここにいる!? 逃げ出すことなんて簡単な筈だっ、なのに、どうして、なにが目的だ!?」
いっそ逃げてくれたほうがどれほど救われることか。
ーーーいや、何を弱気になっている。逃がすくらいなら、いっそここで。
「何をする気だい?」
護身用の刀を、腰から引き抜いた。恐怖を通り越し、狂っていたのかもしれない。
「そう、そうか。いいね、君は。実に‥‥」
面白い、と藍染が笑った。
脇差しを抜き、迫ってくる一護を歓迎するかのように、彼は無防備に立った。
「その刃を自分の喉に向けないところが君らしいよ」
らしい?
今度は一護が笑った。
「前の看守は、お前の目の前で死んだそうだな」
「お陰で死体と一週間過ごす羽目になったよ」
「そんな杞憂も今日で終わりだ」
この身に降り掛かる咎など考えなかったと言えば嘘になる。だが、責任をとって自刃するつもりもない。むしろ胸を張って地上に戻り、藍染を殺したと言ってやる。
確実に殺せるよう、心臓目がけて刀を突き出した。肉を斬る感触が指に伝わる。
これで、すべてが終わった。
目が覚めると、見覚えのある寝室にいた。
昨夜の記憶がひどく曖昧だった。自分はどうやって地下牢から戻ってきたのだろう。
朝の支度を済ませ、朝食もそこそこに一護は家を出た。自ら捕まりにいくつもりで護廷へと向かった。
しかし一護が所属する二番隊は普段と変わらず、そこには予想していた混乱は欠片もなかった。
俺は藍染惣右介を殺害した筈だ。
大罪人の獄中死が問題にならないわけがない。それも看守の手によって殺されたのだ、理由はともかく拘束されていてもおかしくはなかった。
それともあれは夢だったとでもいうのか。
一護は己の手を見下ろした。そこにはあの感触が今も生々しく残っている。到底夢だとは思えなかった。
「黒崎」
背後から声を掛けられ、一護は大きくびくついた。振り返ると顔見知りの同僚が同じように驚いている。
「寝ぼけてたのか?」
「いや、」
「総隊長がお前をお呼びだ。すぐに来いってよ」
何したんだお前、と言われても一護には返す言葉はなかった。
そうだ、何も無い筈が無い。
己の罪は既に総隊長の知るところとなっていたのだ。事件が事件なだけに、公にはならなかっただけのこと。
一護はほっと息を吐いた。安堵の息を。
そのまま隊舎に背を向け歩き出した。一番隊へと向かう道中、緩む口元を抑えることができなかった。
しかし一番隊に到着した一護は、総隊長の口から思いもよらぬ言葉を告げられた。
「副隊長に就任、ですか?」
「そうじゃ」
何の冗談だと思った。
曇る表情に、総隊長は怪訝な顔をした。喜びこそすれ、青ざめる道理が分からないのだろう。一護だって分からない。
「何かの、‥‥‥そう、何かの間違いではないでしょうか」
「いいや。五番隊隊長が名指しでお前を、と言うておる」
「五番隊の?」
初めて隊を聞かされ、一護は眉間に皺を寄せた。
五番隊? 五番隊の隊長とは、一体誰のことだっただろう。
顔が思い浮かばず、一護は開きかけた唇を閉じた。五番隊の隊長などいただろうか。空席‥‥いや、それはない。ではなぜ顔も名前も自分は知らないのだ。
そのとき背後で大扉が音を立てて開いた。
「おお、来たか」
「遅れて申し訳ありません」
その声を、知っていた。
喉が急激に乾きだす。指先の感覚が失われ、全身が細かく震えた。
刻み付けられた恐怖がそこにはあった。いまや息すら吸えぬほどの恐慌状態に一護は陥っていた。
「やあ、よく来てくれたね」
地下牢で最初に掛けられる言葉。恐怖の始まり。
「藍染、この者はお前の副官になるのが不満であるらしい」
「おや、それは悲しいことですね」
肩に触れられた瞬間、悲鳴を上げた。だが実際には声など上げられなかった。
ーーーなぜ、なぜっ、お前がここにいる!?
「黒崎君、君には是非とも僕の補佐をしてもらいたい。君の決断力、そして実行力を、僕はとても買っているんだよ」
胸に手を置くその仕草。それを見た瞬間、一護は大きく瞠目した。
「やってくれるね?」
化け物だ。
そう思ったと同時に、一護の中で何かがプツリと音を立てて切れるのが分かった。それは意思だったのかもしれない。崩れ落ちるように膝をつき、頭を垂れる。
「御意に‥‥」
「そう、よかった」
恐る恐る顔を上げると、そこには地下牢にいた男が立っていた。
優しげな顔立ちで微笑む彼は、果たして本物なのだろうか。
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