繋がっているようで繋がっていない100のお題
042 鉄臭い大地をそっと冷ます
あぁ、悪いことをしている。
夫ではない男からの口付けを受けながら、一護は罪悪感を抱いていた。こんなことはやめなければ。そう思うのに、体はまったく言うことを聞いてくれない。男に縋り付き、もっとと強請る。
門限まではあと少し。走って帰れば間に合う時刻。
「帰らないで」
置き時計に気を取られたその一瞬の感情の揺れを、男は見逃さなかった。薄暗い室内で、一護に懇願の眼差しを向けてくる。背中に添えられた手が、行かないでと一護を引き寄せた。
大きな手であった。男の手というものは、皆こうであるのだろうか。
父親以外では、目の前にいる男にしか抱きしめられたことのない一護は、不思議と安堵感を覚えるのだ。両腕で抱きしめられると心が蕩けてしまう。あまりの幸せに、胸板に顔を押し付け泣いてしまったことは一度ではない。
夫からは、指一本触れられたことはなかった。政略結婚。愛は無かった。
けれど、どうだろう。一護を抱きしめる男は毎日のように愛を囁いてくれる。夫でもない、真っ当な恋人でもない、それなのに。
「貴方が戻らなくても、誰も困らないでしょう?」
男は平然と毒を吐く。
そのどれもが真実で、だから一護は傷付きはしても反論はしなかった。自分が屋敷に戻らなくても誰も気にしない。夫も、家人も。一護にまるで興味が無い。
「だからあともう少し」
男は一護の頬に唇を押し当て、耳元に囁いた。腰に響くような男の低い声音が、一護は好きだった。夫の、言っては悪いが軽薄な声音と喋りが好きにはなれなかったから、余計に。
二人の関係は誰にも秘密だった。後ろめたいことをしているのは百も承知。誰かに知られれば不貞だと罵られるだろう。夫と同じ死神の、それも重要な役職に就く男との不倫など誰が許してくれるものか。
けれどやめられない。もう会わないなんて、考えられなかった。
「藍染さん‥‥」
初めて口付けを教えてくれたのはこの人だった。十五になったばかりの一護に、大人の触れ合い方を教えてくれた。
初めて好きになった人。この人と一緒になれたらと思う自分が、いつか読んだ三文小説に出てくるような不倫に走る人妻そのもので、一護は笑わずにはいられなかった。
まるで世間知らずのお嬢様。
横顔は、無防備そのもので。きっと簡単に殺せてしまうだろうな、と物騒なことを考える。それほどまでに無力な子供。
遊び相手にするには、少々力量不足と言ったところだった。
「一護さん」
あどけなさを存分に残す面立ちが、藍染の呼びかけで素直にこちらを向いた。嬉しそうな表情を浮かべ、まるで子犬のように駆け寄ってくる。
「藍染さん!」
貴族の子女であるくせに、平然と着物姿で走るお転婆ぶり。
ほら、躓いた。
「‥‥‥‥あ、ありがと、」
倒れる寸前で受けとめ、そのまま引き寄せる。至近距離で藍染が微笑むと、一護の頬に朱がさした。
なんて容易い。
形だけ取り繕った偽りの夫婦関係だとは聞いてはいるが、あの男は本当にこの子供に指一本触れてはいないらしい。まるで男を知らない初心な反応に、内心で失笑した。
夫の気持ちも分からなくはない。藍染も当初、中々食指が動かなかった。けれど逢瀬を重ねるうちに、これはこれで可愛いものだと思えてくる。
一から教え込むのも面白い。実際には、面白半分で手を出していいような相手ではなかったが。
「一護さん、走っては危ない。ただでさえ貴方は注意力が散漫なのだから」
「ごめん、」
「走らずとも、僕は逃げませんよ」
オレンジ色の髪を指で梳きながら、藍染はわざと耳元近くで囁いた。一護が自分の声に腰砕けなのは知っている。おそらくこれまでの人生において、愛を囁かれたことなど無いのだから、なおさらにクるのだろう。思った通りの反応を見せた一護は、あっけなく藍染の腕の中に収まり大人しくなった。
逢瀬はいつもの料亭で。貴族御用達のそこは、従業員も事情を心得ている。誰それが通っているだとかは外部に決して漏れない。それが貴族に好まれ、贔屓にされている理由だった。
二人きりになってすぐ、一護を抱きしめた。夫から蔑ろにされているこの子供は、愛情に飢えている。縋り付いてくる手が、その心情を雄弁に語っていた。
一護の体は薄くて細く、丸みも柔らかさも不十分だった。もしかしたら初潮すらまだなのかもしれない。
そんな子供相手に、体が反応するかと言えば、正直分からなかった。己の好みとする範疇ではないことだけは確かだ。
そうだというのに手を出そうなどと思ったのには、ちょっとした遊び心から。そこには、あの男をからかってやろうという軽い気持ち以外に、明確な嫉妬があった。自分よりも先に隊長職を射止めた男への、浅ましい嫉妬が。
「藍染さん、どうかした?」
「いえ‥‥」
自嘲気味に吊り上がった口元の歪みをうまく消し去り、藍染は無防備な一護へと自然な動作で顔を近づけた。紅すら塗っていない一護の唇は、実は気に入っている。変な味がしない唇というのは案外貴重なものだ。
「‥‥っん、」
それほど広くはない室内に、口付けの音だけが鳴った。息を荒げながらも何とか応えようとする一護がいじらしい。
子供といえど人妻だ。最近、それ相応の色気というものを身につけつつある一護に、藍染は満足感のようなものを覚えていた。
このまま手の中で育てていくのも一興か。そろそろ、抱いてしまってもいいのかもしれない。
「一護さん。この僕に、すべてを任せてくださいますか‥‥?」
真摯な物言いで、藍染は嘘を吐く。
すべては遊び。痛む胸など、持ち合わせてはいなかった。
奥さん。
浦原は、かの妻をそう呼んでいる。十五歳になったばりの、妻になるには早過ぎるその子供、一護を。
そして子供が自分を呼ぶときは、旦那様。
若干、棒読み。まあいいけどね、と浦原は敢えて指摘しない。
相手がこちらを嫌っていることは重々承知しているし、浦原とてこんな子供に興味は無い。父も宛てがうのなら、もっと年の近いのにしてほしかった。家格がどうたらと説かれても浦原には知らぬことだ。
手は一切出していない。これからもない。女らしく着飾らず、童子のように短い髪で色気も皆無。こちらの関心を惹こうという気勢がまったくもって感じられない一応性別女に対し、性欲など持てるかと問われれば、答えは否だ。
互いに好き勝手やっていこうと、結婚初日に言い渡した。一護は「はい、そのように」とあっさり頷き、驚く素振りも見せなかった。
可愛くない。少しでも動揺してみせれば、優しい言葉くらいは掛けてやったというのに。
夫婦と言っても、同じ屋敷に住んでいるだけ。姿すら見かけない日もあるくらいの、愛の無い関係。貴族同士の婚姻なんてそんなものだ、珍しくもなかった。
いつか跡継ぎ問題も出てくるだろうが、そのときはそのとき。いっそ試験管の中で作ってしまえばいいと、浦原は軽く考えていた。
そんなある日のこと。家人から耳打ちされた内容に、浦原は珍しく驚いた声を上げた。
「へえ、あの子が」
浮気。
まあなんとも変わった趣味の男がこの世の中にはいるものだ。
して相手は、と聞けば、これまた面白い名前が出てくるものだから、浦原は怒るどころかますます楽しくなってしまった。これはきな臭い。
ひとまず見つけた暇つぶし。浦原は、その日から妻の観察を始めた。
相変わらず子供っぽいと思っていた一護だが、見ているとその変化はたしかにあった。見た目はまったく変わらないというのに、雰囲気や仕草が、以前とは明らかに違っていることに浦原は目を見張った。
男を知れば、こうも変わるものであるのか。
あどけない顔に浮かぶ表情は、もう子供のものではなかった。
「奥さん」
出かけようとする一護を呼び止めたのは、日没が迫ろうかという時刻。夕焼けを背に振り返る一護は、美しかった。
「こんな時間に、どちらに?」
一護は少しも動じなかった。むしろ堂々とした顔で、男のところに、と言ってのける。
随分と逞しくなったものだ。初めて顔を合わせたときは、子供らしく怯えていたというのに。
「浮気とは、感心しませんねえ」
「互いに好きにしようと言ったのは、あんたじゃないか」
あんた。
旦那様とすら呼ばなくなったか。面白いと思うよりも、気に入らなかった。反抗的な態度をとられ、腹を立てている自分がいる。放っておいてもいい筈なのに、浦原の中にある貴族特有の傲慢さが、妻の勝手を許すなと突き動かす。
浦原はいつしか緩んだ表情を消し去り、一護に詰め寄っていた。
「戻りなさい。外出は許しません」
「いきなり亭主面か。そうしていると、まともに見えるな」
美しくはなったが、可愛くはない。こうも簡単に嫌味を言うなんて。
「藍染君は、そんなにいいですか」
一護が息を呑むのが分かった。強張った表情でしばらく押し黙り、無言で睨みつけてくる。そういう顔は魅力的だ。熱くなりやすい質なのだろう。
もっと困らせてやろうと、嗜虐的な衝動が芽生える。こちらの優位にことを進めて、みっともなく取り乱す一護の姿が見たくなった。
「君は勘違いをしている。彼は君が思うほど、優しい人間じゃない。遊び程度にしか思われていないことを知りなさい」
言い返してくるだろうと思っていたが、実際にはそうではなかった。一護はすべてを悟りきったかのように、澄んだ瞳を向けてきた。
「俺も、あんたが思うほど子供じゃない。それくらい分かってるさ」
「‥‥‥分かっているのなら結構」
今度こそ連れ戻そうと、浦原は手を伸ばした。
直後に、弾かれた。
「触っていいのは、あの人だけだ‥‥っ」
自分の手を大事そうに胸の前へと置き、一護は苦し気に吐き出した。
その姿に溜息を禁じえない。まるで分かっていないじゃないか。
優しく声を掛けてきた男にふらつき、好きなのだと錯覚している。きっと初めての男だったのだろう。鬱屈した生活の中で、刺激を求めてしまったのは仕方の無いことなのかもしれない。
「君ねえ、」
「うるさいっ、来るなっ、お前なんか大っ嫌いだっ、」
吼える姿は駄々を捏ねる子供そのものだ。中途半端な大人ほど、扱いにくいものはない。仕舞いには涙まで浮かべて威嚇してくる。
「あの人が好きなんだっ、遊ばれてもいいっ」
「君は、ボクの妻だ。勝手なことは許さないと言ってるんです」
もう我慢できないと、一護が言った。
「だったらなんでっ、俺のこと放っておくんだよっ、無視するんだよっ、他の女の人抱いて、平気な顔して帰ってくるんだよっ、そんなのズルいじゃねぇかっ、俺ばっかり、こんなに悲しいの、‥‥‥俺っ、俺だって、好きな人と、結婚したかった‥‥っ」
大粒の涙を零し、一護はしゃくり上げた。
「あの人が好きだって言ってくれて、嬉しかったっ、わ、分かってるんだ、俺みたいなの、誰も相手にしてくれないことくらい、嘘だってことくらい、わかっ、分かってたっ、‥‥‥でも、嬉しかったんだよっ、」
「一護さん、」
「そうやって名前で呼ばれると、死んじゃいそうなくらい、ここが痛くなるんだ、‥‥きゅうっ、て、痛く、なる‥‥っ、あ、あの人に抱きしめられると、溶けて、なくなりたいって、思う、」
胸を押さえ、一護は一つ一つの体験を涙混じりに告白した。浦原はどうしていいか分からなくて、上げた手を無意味に彷徨わせた。
「あんたに悪いって何度も思った、こんな子供押し付けられて、それでも夫婦を演じていかなきゃならないんだ、でもっ、これからもずっと、俺、俺はひとりで、ひとりぼっちで、‥‥‥‥死のうと思ってた、あのとき、散歩に出かけて、橋の上で、こっ、ここから落ちたら死ぬかなって、そう、思ってたら、あの人が声を掛けてくれたんだ、」
「そんな、」
「俺、泣いちゃった、‥‥‥は、はは、あの人、びっくりしてたけど、何も言わずに、抱きしめてくれて、」
「‥‥‥ごめんなさい」
「あぁ、こんな人と、結婚できたらなぁ‥‥って、」
「ごめんなさい、一護さん」
知らなかった。そんなに追いつめられていたなんて、知らなかったんだ。
「‥‥‥‥‥行かなきゃ、」
生気の無い声で呟き、一護は唐突に駆け出した。待って、と別人のように悲痛な声が自分の口から飛び出した。
行かせてはならない。義務か、同情か。浦原は追いかけ、一護を後ろから抱きしめていた。
「行かないで、駄目、駄目だったらっ、」
「嫌だっ、離せよっ、なんで邪魔すんだよ、」
「嘘でもいいんなら、ボクだって言ってあげるっ、ねえ、好きですよ、だから行かないでっ、ねえ!」
驚くほどあっさりと一護の抵抗が止んだ。腕の中で力が抜け、地面にズルズルと崩れ落ちていく。
「好き、好きですよ、君が好き‥‥」
へたり込んだ一護を抱きしめ、頬に頬を寄せた。熱い体温が愛おしい。
戦慄く体に触れてみて、この子がこんなにも小さく頼りないものなのだと初めて知った。
まだ十五歳。これから花開くというのに、散々に踏みつけてしまってごめんね、と謝った。
「‥‥‥愛してる、ボクの奥さん。さあ、家に戻ろう? 今日はうんと可愛がってあげるから、ね?」
顔を覆い、わっ、と一護が嗚咽した。
それが悲哀なのか歓喜なのか、浦原には分からなかった。
月日は流れて、季節は秋の趣。冷たくなった風が、護廷に吹き降りる。
「どうも、藍染君」
「こんにちは、浦原隊長」
二人の男が、偶然にも廊下で出会った。互いに和やかに挨拶を交わし、すれ違おうとしたとき。
「うちの奥さんがお世話になったようで」
藍染は淀みなく振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。どういたしましてと言うように。
一護との逢瀬は既に無い。自然消滅した二人の関係に、特別な感慨などなかった。
「君のお陰でいらぬ苦労をかけられましたけど、ボク達、今はとっても仲良しなんですよ」
「それは羨ましいことです」
「えぇ、ほんとに。君のお陰だ」
にこにこと笑む表情の裏に、どす黒い感情が渦を描いているのが見えた気がした。藍染は負けじと笑みを深め、それでは、とその場を退出しようとする。
「ねえ、良かったらうちに来ませんか?」
内心、ぎょっとした。しかし噫気にも出さず、「新婚夫婦の家にお邪魔するのはちょっと」と控えめに断りの言葉を口にした。
相手はこちらを揺さぶろうと機を狙っているのだろうが、そうはいくものか。
「そう、それは残念だ」
「うちの隊長からは一日も目が離せませんから」
五番隊隊長の怠け癖は有名なもの。苦労する副官を演じ、困ったように藍染は溜息をついた。
浦原は相変わらず張り付いたような笑みを浮かべていたが、然程の執着は見せず、それ以上は誘ってはこなかった。けれど去り際に一瞥、妙な視線を寄越してきた。
「ありがとう、藍染君」
「え?」
「君には感謝してるんスよ。ボクの奥さんをーーー」
その先は聞こえなかった。けれど動いた唇は。
「”救ってくれて”‥‥?」
遠ざかる背中を見やり、藍染は首を傾げた。
秋風が、澱んだ空気を押し流すように、二人の男の間を吹き抜けていった。