繋がっているようで繋がっていない100のお題

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  045 爛れた心を洗い  


 その赤ん坊を育ててみようと思ったのは気まぐれからだった。赤ん坊を傷つけさせず飢えさせず、更木を生き抜いてみる一種の賭け。流魂街を彷徨って数年、随分と非人間的な考え方をするようになっていた。
「あー」
 まだ喋れない赤ん坊をやちると名付け、一護は日々戦いに明け暮れた。汚い襤褸切れでやちるを包んで肩から下げると邪魔にならなかった為か、いつしか赤ん坊をくっつけたままで戦っていた。子連れの鬼と有名になった。
「あー、うー」
 やちるは泣かない子供だった。むしろよく笑う。早く喋らないだろうかと期待した。随分長く、誰とも話していなかったから。
「いちごー」
 初めて名前を呼ばれたときはただただ驚いた。誰かに呼ばれたことは実に数年ぶり。呼ばれるたび、涙腺が緩むから困った。涙はとうに涸れたものだと思っていたが、人間らしい部分はまだ残っていたらしい。
 劣悪な環境の中、やちるはすくすくと育った。与えれば与えるだけ食べるものだから、一護が面白がって食料をやったせいだ。ころころと丸みを帯びた赤ん坊を、不謹慎にも美味そうだと思ったのは一度じゃない。
 逆に一護は痩せて骨の浮いた体になってしまった。そのくせ筋肉はついているので不格好としか言いようがない。やちるにばかり食べさせて、自分を疎かにした結果だった。スタミナが早く切れ、敵とは長く戦えなくなった。けれど一護は反省するどころかますますやちるに食べ物を与え、丸く太らせた。いつしか成長する姿を見るのが楽しみになっていた。
 やがてやちるが、はいはい歩きからよちよち歩きに変わった頃、一護は更木を出る決心をした。
「いっちー」
「腹減ったのか?」
「ううん、休も。やちる、疲れた」
 一護の背中にくっついて移動しているやちるが疲れる筈がないのだが、一護は言う通りに近くの木の根元に腰掛けた。息切れがする。最近では貧血も多くなっていた。
 森の中はひやりと涼しく、昨夜から熱っぽかった一護の体を幾分冷ましてくれた。獣の襲撃に備え、刀は手放さずに休みを取る。夜盗の類いはそれほどの脅威ではない。見るからに手持ちの無い一護達を襲うほど馬鹿な連中ではないと知っていた。
 吐き出した息は、疲れとしか思えない重苦しさがあった。やちるが体を擦り付けてくる。温かい。その熱と優しさに、一護はいつも救われる心地がした。
「あした、また歩こ?」
「いや、まだ陽が高い。夜になるまで一気に歩いちまおう」
「‥‥‥やちる、じぶんで歩く」
「遅いから駄目だ」
 ぷくっと膨れた頬に一護は苦笑した。血色の良いやちるの肌に安心した途端、瞼が下りてくる。いけない、眠ってしまっては。
「いっちー、おねむなの?」
 やちるの小さな手が膝に置かれ、一護を心配そうに見上げてくる。優しく笑いかけたつもりで、一護はすうっと意識を手放した。



 木々のざわめきが人の話し声に変わった瞬間、一護の眠りは終わりを告げた。慌てて起き上がり、抱きしめていた刀を構え、ようとしたが適わなかった。刀がない。それどころか、ここは森ではなかった。
 建物。白い壁。ベッドに寝かされていた。清潔なシーツにぞっとしたものを感じ、一護は急いでベッドから降りる。揃えた草履が置かれていたがそれを蹴散らし、部屋に唯一の窓に駆け寄った。カーテンを掻き分け、窓を開け放った。
 見知らぬ光景が一護の眼下に広がっていた。呆然としながら一歩、二歩と後じさる。ここはどこだ、森の中で、ちょっとのつもりで休憩を取ったんじゃなかったのか。不安から思わず体をかき抱いた一護だったが、今度こそ腹の底からぞくりとした。
 体がおかしい。柔らかく、肉付きがよくなっている。驚いて掌を見下ろしてみると、剣ダコは相変わらずだったが手首の細さがまるで違った。爪は健康的に色づき、それは足にも同じことが言えた。別人の体に意識だけが乗り移った錯覚に怯え、一護は鏡を探した。部屋の中にあった引き出しから手鏡を探し出し、一護は祈る気持ちで覗き込んだ。
「‥‥‥‥俺、」
 自分だ。少しふっくらとはしていたが記憶にある顔と同じだった。何より髪の色がオレンジ色。一気に力が抜け、一護は床に座り込んだ。随分と人間らしい体つきになってはいるが、どうやら自分は自分らしい。
 少しだけ冷静になった途端、一護はまた恐慌に陥った。やちるがいない。それほど広くはない室内に自分一人が寝かされていたのか。
 直後、扉がノックされた。ゆっくりと開けられる扉を、一護は冷徹な眼差しで見やった。
「副隊長、起きたんですか?」
 知らない男だった。敵意はまったく感じられない。しかしそんなもの、一護にはどうだってよかった。
「あ、なんだ起きてるじゃ、‥‥‥‥!?」
「やちるはどこだ」
「‥‥‥っ、いちょ、な‥‥にをっ」
「子供はどこにやった?」
 黒い着物を身に纏った男は驚愕の眼を一護に向けていた。信じられないという男の表情が、一護には心外だった。憎悪を押し込め、喋りやすいよう首に食い込ませた指をわずかに緩めてやった。
「桃色の髪をした子供が俺と一緒にいただろう? あの子をどこにやったんだ」
「副、隊長‥‥?」
「焦れったい奴だな。もういい。死ね」
 男が腰に差していた刀を都合が良いとばかりにすらりと抜き取り胸に当てた。しかし、力を込めようとした瞬間、別の気配を感じた。また見知らぬ男が部屋へと入ってきたのを見てとると、一護は舌打ちとともにすばやく男を人質にとり、刀を喉に押しやった。
「お前ら何やってんだ?」
「っい、っい、っ一角! 助けて!!」
「はぁ?」
「なんか変なんだよ! 副隊長が副隊長じゃない!!」
 黒い着物は揃いに見えた。何か特別な集団だろうかと、一護は相手の様子を注意深く観察した。流魂街にいそうな破落戸にも見えるが、荒んだ雰囲気が無い。人質の男は切り揃えられた髪や整えられた爪先に洒落者のこだわりすら伺える。ここは流魂街ではないのかもしれない。
「いきなり殺されそうになったの! ‥‥って、おいコラ笑ってんじゃないっ、本当なんだって!」
「少し黙ってろ」
「‥‥‥‥‥っ」
 軽く刀を食い込ませ、一護は新たに入ってきた男に視線をやった。スキンヘッドが特徴的で、そして人質の男より手練と感じた。
「そこのお前。やちるって名前の子供がどこにいるか教えろ。じゃないとコイツ、殺すぞ」
「‥‥‥‥おいおい、マジかよ、」
「あぁそうだ、こっちは真面目に聞いてんだよ。あいつに何かしてないだろうな」
「してねえよ、できるわけねえだろ」
 間合いを計っている男を警戒しながら、一護は立ち位置を微妙にずらし続けた。目の前の男が刀に手を掛けたなら、人質を押し付けて二人一緒に斬ってしまおうと算段を立てる。
「ここはどこだ?」
「どこって‥‥‥‥四番隊の救護室だ。覚えてねえのか?」
「四番隊? 流魂街じゃないようだが」
 男二人が視線を交わし、驚いている様子が伝わってきた。何も分かっていないのが自分だけだという状況に、一護は苛立ちを募らせる。
「護廷だ。分かるか? 瀞霊廷の中なんだよ、ここは」
「‥‥‥貴族が住んでるっていう街のことか?」
「貴族だけじゃねえ、死神もいる。お前も死神だ。‥‥‥おいまさか、それも分からねえって言うんじゃねえだろうな?」
 男は一護の表情でそれを理解したようだった。形容し難い顔で無い髪の毛を掻きむしる。どうなってんだよと叫んでいた。叫びたいのはこっちのほうだ。
「現世の任務で怪我してここに運ばれたんだ。たった昨日のことだぞ? なんで忘れてやがんだよ!?」
「そーだそーだ!」
 人質の男は殴って黙らせた。
「信じられるか。とにかくやちるを連れてこい」
「そのうち来る。その前に弓親離してやれ」
「こいつは人質だ。やちると交換する」
「あぁもう分かんねえ奴だな! 俺達は敵じゃねえよ!」
 それが信じられないというのだ。窓を背中にして、一護は早く連れてこいと命令した。ここが話で聞いたことしかない瀞霊廷であるとか、自分が死神であるとかはどうだってよかった。やちるが無事ならそれで、それだけで。
「てめー‥‥まさか更木隊長のことも忘れてるって言うんじゃねえだろうな?」
「それって人間か?」
「人間だ! ‥‥一応」
 自信の無さそうな答えに一護は不審感も露に男を睨みつけた。更木という名前の不吉さと言ったら無い。
 いっそう警戒を強めた一護の耳に、外からの足音が聞こえた。部屋の前で止まる。いっそのこと同時に来てくれたらいいものを。またかと呆れ、八つ当たり気味に人質の首を絞めてしまった。
「隊長っ、」
 現れたのは図体のでかい男だった。しかしこれまでと違う圧倒的な存在感と威圧感に、一護は知らず息を呑んでいた。一目見たら分かる。この男は、自分よりも強い。
「いっちー!」
 呑まれそうになった寸前、男の後ろから飛び出してきたのは間違いなくやちるだった。嬉しそうな顔で駆け寄ってくるやちるを、人質を放り出して一護は抱き上げていた。
「やちる! 何もされてないか!?」
 柔らかい頬を包み視線を合わせる。大きな目が不思議そうに瞬いていた。男達と同じ黒い着物を着せられていたのが気に入らないが、どうやら危害は加えられていないようだった。ほっと息を吐き出し、小さな体を抱き込んだ。
「‥‥‥‥やちる、お前大きくなってないか?」
「前からこんなだよ。‥‥‥どうしたの、なんか変だよ。傷、痛む?」
 言葉も達者になっていた。何より腕にかかる重みが以前と違う。やちるであるのは間違い無い筈なのに。
 認めたくない一つの事実を前にして、一護の足は少しずつやちるから離れていく。いつしか口の中が干上がっていた。
「いっちー?」
 男達はなんと言っていた?
 覚えていないのか、忘れたのか、ここは護廷で、自分は死神。四番隊。副隊長。誰が、俺が。
 眠っていたのはどのくらい?
 貧相だった体が今はまるで違っている。体が変化するほど長い間眠っていたというのか。そんな筈は無い。
 ーーー忘れている、だけだ。
「一護、どうした?」
 肩を戦慄かせ、一護は恐る恐る背後を振り返った。知らない男が不気味で堪らない。やちる以外の他人が自分の何かを知っていると思うと怖気が走る。
「一護?」
「っひ!」
「隊長。一護のやつおかしくなってます。俺らのこと覚えてねえどころか、ここがどこだかも分かっちゃいねえ」
「何? おい、一護」
「‥‥‥っ、来るな!」
 信じられない、自分に触れようとした。自分に、自分に!
 更木という男の腰にある刀を警戒し、一護はすばやく窓から下を見下ろした。三階。逃げるという選択肢しかない屈辱に、一護はきつく唇を噛み締めた。
「いっちー、怖いの?」
 心配そうに見上げてくる大きな目を、状況も忘れて一護は思わず魅入ってしまった。姿形に変化はあっても、これだけは変わらない。森の中で自分を見上げてきた大きく愛くるしいやちるの瞳。
「一護、俺のことも忘れたって本当か!?」
 上から覆い被さるようにして男が一護に詰め寄った。
 一瞬だった。一護は持っていた刀で男を斬りつけていた。
「剣ちゃん!」
 やちるの悲痛な叫びがやけに遠くで聞こえた。真白な床に断続的に滴り落ちる血の雫を呆然と見つめる一護の中で、漠然とした不安感が一気に波となって押し寄せてくる。
「一護っ、おいっ、」
 不意に足下が不安定に揺れた。床に崩れ落ちる寸前で太い腕に支えられた一護は、ぼんやりとした視界の中で腕の主を見上げた。知っている。懐かしい感覚が、知らない男から感じとれた。
「俺はいい。俺は大丈夫だ」
 一護の体が小刻みに震えていた。自分のしてしまったことに愕然としている。斬ってはいけなかったんだと後悔している。
 体だけは知らない男のことを覚えているようだった。健気に震える自分が、一護にはまだ信じられない。
「やちるだけは忘れねえってのがお前らしい‥‥」
 苦笑とともに、男の大きな手が一護の髪を後ろに撫でつけた。親密な行為に対し、不思議と抗う気にはなれず、むしろ泣きたくなるような切ない気持ちにさせられた。
「忘れたってのなら仕方ねえ。そもそもお前は人の顔を覚えるのが得意じゃなかったからな。いいか、俺は剣八っていうんだ。更木で会ったな」
 更木で?
「あぁ、そうだ。やちる連れたお前と会って、斬り合って、色々あったが俺がお前に惚れて、今は一緒に住んでる」
 色々‥‥。
「聞くな」
 聞きたい。
「‥‥‥‥俺に言わせるな。本当に大変だったんだぞ」
 剣八の指が責めるように一護の頬を引っ張った。と同時に、下からやちるの声がした。両手をいっぱいに広げているのは抱っこのサインだ。一護が動く前に、抱き上げたのは剣八だった。二人の慣れた様子が一護の知らない時間を物語っていた。
「また最初に戻るだけだ。てめえのオトし方はもう心得てるから覚悟しとけ」
「いっちー頑張ってね!」
 小さな手が一護の頬に添えられた。温もりが、そこからじんわりと体中に広がっていく。唐突に森の中の光景を思い出し、一護は急に眠たくなって剣八の胸に寄りかかった。意識が奥へ奥へと引っ張られる。必死に睡魔と戦ったが、瞼は勝手に下りていった。目覚めたら、今度は森の中なのだろうか。
「いっちー、おねむなの?」
「やちる‥‥」
 いけない、眠ってしまっては。もう忘れたくない。
「手を握っててあげる。こうしたら、傍にいるって分かるでしょ?」
 瞼が重い。手が温かい。森の中で目覚めたら。
「剣ちゃんもいるからね。おやすみ、いっちー」
 大丈夫。また最初に戻るだけ。

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