繋がっているようで繋がっていない100のお題
049 暖色に染まる海に浸って
『さようなら』
居間の食卓には紙切れ一枚が置いてあり、その言葉だけが書かれていた。
なんだろう、これ。
帰ってきた浦原は暗号か何かだろうかと首を傾げた。調味料のさしすせそ的なものかもしれない。刺身、羊羹、うどん、奈良漬け、らっきょう‥‥‥最悪の食い合わせだ。
「一護さん?」
台所にはいなかった。私室にも厠にも庭にもその姿はない。特に私室は、箪笥を開けると着物が何枚か無くなっていた。浦原が買ってやった着物だけがそこにあり、一護が最初に持ってきたものは細々としたものを含めすべてが消えていた。
何かの冗談に違いない。浦原は急に焦り出す自分を落ち着かせようと蔵に向かった。どこにもいないときは大抵、庭の隅にある蔵で資料整理をしているのだ。増え続けるばかりの書物や資料を内容別に分けて保管するのは一護の役目、今日もそこにいるのだろう。
期待して開け放った重い扉の先は、真っ暗だった。灯り一つ無い。書棚の影から驚かそうと待ち伏せするような子でもないことを知っていたから、浦原はさっさと扉を閉める。
周囲はとても静かだった。居間に戻ると、やはり一護はいなかった。
捨てられたんだ。
そう理解した途端、なぜか父親の顔が思い浮かんだ。それもあっかんべーとか、お尻ぺんぺんしている姿が。
あまりにもムカついたのとショックとで、その夜、浦原は一睡もできなかった。
「なんなんアイツ、どないしたん?」
まさに意気消沈。元々やる気の無い顔をしていたが、今は生気すらない。隊首会でもずっと上の空。元柳斎に注意されても気付きもしない。
平子の指差す先で、浦原がぼけっと突っ立っている。隊首会が終わったというのに、帰る素振りも見せない。副官のひよ里が、そんな上司を連れ戻すため、わざわざ迎えにやって来ていた。
「一ヶ月前からあの調子や。噂じゃ女に逃げられたんやと」
「うはっ、ほんまか。へー‥‥」
愉快愉快と頷きながら、ちょっかいをかけようと近づいた。いつもは綺麗に整えられた浦原の顔は、今はところどころ髭が生えていた。女に逃げられたというのは本当らしい。面白くなって、平子は顔面をちょいちょいとつついてやった。
「おい、真子っ、やめたれ」
「なんでやねん。ほれ、お前も日頃の恨み晴らしたらどないや? 今ならやり放題やぞ」
「お前はほんまに小さい男やな!」
「なんやとこのジャリん子!」
ぎゃあぎゃあ騒ぎ出す二人から、浦原は音も立てず離れていった。まだ正気は失っていない。ただ考え事をしていると魂の抜けたような顔になるだけだ。
一護がいなくなって一ヶ月かそれくらい。正確な時間の経過は覚えていない。家に帰れば一護がいない日々が続くだけの毎日だった。家はますます汚くなっていくし、整理のできていない書類や資料が溜まっていく。バランスのとれた食事どころか、食べ物の摂取さえ最近はまともに行っていなかった。日に日に痩せ衰えていく局長及び隊長の姿に、ひよ里以下、部下達は同情的だった。
「儂の言った通りになったな」
現れたのはしたり顔の幼馴染。腕を組んで塀の上に立ち、浦原を見下ろしてくる。
「一人に戻った感想は?」
「寂しくて死にそうです‥‥」
「ほう、素直じゃな」
よろしい、と教師のように頷いて、夜一が隣に並び立った。何がそんなに珍しいのか、憔悴しきった浦原の顔をじろじろと眺め回してくる。
「いい感じに弱っておるの。結構結構」
「嫌味を言いにわざわざやってきたんですか」
「まさか。助けにきたのじゃよ」
いまいち信頼性に欠ける物言いだが、浦原はふっと唇を歪めて笑った。
「だったらあの子を探して。あの子を見つけて。ボクのところに連れてきて。さあ、早く! 本当は何一つしてくれないくせに、偉そうなこと言わないでください!」
久し振りに声を荒げると息が切れた。情緒不安定なのか、怒りやすくなっている自分に自嘲がこみ上げる。
夜一は泰然とした眼差しで、取り乱す浦原を見つめていた。その余裕の表情が気に入らない。
「誰かに恋い焦がれる心地はどうじゃ?」
「‥‥っハ、何を」
「一護はまだ子供じゃが、少なくともお前よりは賢く大人だ。自分の気持ちに早々と気付いておったぞ」
一護のことを知ったふうに話されるのは面白くない。そうやって名前を呼ぶだけでも、今の浦原の癇癪を刺激する。詰め寄った浦原に、夜一は言った。
「愛しているがゆえに身を引くこともある。恋の上級編じゃ、覚えておけ」
「訳の分からないことをっ」
「喜助」
ぱち、と音がした。夜一が頬を優しく張ったのだ。困惑する幼馴染を、彼女は弟でも見るかのように見つめ返す。
「今日はもう家に戻れ。猿柿には儂から言っておく」
とんと背中を押され、ふらつきながらも歩き出す。振り返ると、夜一が大きく手を振っていた。
誰もいないけどただいま。
昔の口癖が、今になって再び口を衝いて出る。もちろん返事は無い。誰もいないのだから。
「お帰りなさい」
ぽかんと口が開いた。誰もいないのに、一護がいる。浦原は目を疑った。
「食事にする? お風呂にする?」
「うそ‥‥」
「それとも俺?」
「一護さんにします‥‥」
「冗談だ」
食事にしよう、と一護は居間へと消えていった。
現実、なのだろうか。分からない、もしかしたら幻覚かもしれない。だって触れなかった、触れておけばよかった。ひどく後悔した。
居間へ行くのが怖い。一護がいないのかもしれない。もしいなかったら、自分は衝動的に何をするか分からなかった。
「なんで来ねえんだよ」
目の前にまた一護が現れた。首を傾げて顔を覗き込んでくる。もう、幻覚でも何でもいい。
「っう、わぁ!」
抱きついて押し倒して唇を奪う。悲鳴だとか体温だとか抵抗だとか、まるで本物だった。鮮やかなオレンジ頭を撫でて掻き回し、感触を味わう。鼻を寄せて匂いを嗅ぐ。風呂上がりの良い香りがした。無精髭をじょりじょりと擦り付けると嫌がる声を出す。全部記憶の中の一護と一致した。
「すごいっ、本物みたいっ、」
「おっ、重い!」
「やっぱり胸が小っちゃいっ、一護さんだ!」
「てめえ殺すっ、絶対殺す!」
口の悪いところも手足をばたばた暴れさせるところも一護そのもの。なんて忠実な幻覚だろう。
どこまで本物と近いか確かめたくて、抵抗する一護の着物を剥ぎ取ろうとした。確認なんてものは建前で、幻覚でもいいから一護と繋がりたいというのが本音だったが。
「っちょ、調子に、乗るな!」
ガツンと脳天に衝撃が襲った。分厚い書物が視界の端に見える。角を振り下ろされたに違いない。
「玄関先だぞっ、わきまえろ!」
「い、痛い‥‥っ、本物‥‥?」
息を乱す一護の頬に、そっと触れた。形を確かめるように左右を包み込むと、一護が手を重ねてくる。
本物だ。途端に感情が堰を切ったように溢れ出す。
「いきなりいなくなってっ、今までっ、どこに行ってたんですかぁ‥‥!」
甘えるように頬を寄せて一護を詰った。ごめん、と呟く唇を何度も啄む。
「謝って許されたら死神はいらないんですよっ、帰ったら突然いなくなってるんだからっ、ボクがどれだけ傷ついたか分かります!?」
あれから一ヶ月、夢には一護じゃなくて死んだ父親が出てきて馬鹿にしてくるは指を差して笑ってくるはで碌に眠れなかった。部下には同情されるは同僚には笑われるは、散々の毎日。
「ボクがいつまで経っても責任取らないから逃げたんだ! だったら責任取りますっ、今すぐ結婚しましょう!」
この数年、一度も言わなかった言葉だった。そのくせ体はいただいちゃっているので、だから一護は嫌気がさして逃げたに違いない。結婚でも何でもしてやる。
けれど一護は首を横に振った。
「バカ、誰も結婚してほしいなんて思ってない」
「だったら何でっ、」
「お前、隊長だろ。もう立派になったんだから、俺みたいなのと暮らしてないでちゃんとした嫁貰えよ」
今度は書物の角を胸に振り下ろされたような衝撃を覚えて浦原は固まった。言葉が出てこない。代わりに涙腺から何か出てきそうになった。
「‥‥‥‥そう言ったら、どうする?」
小悪魔だ、この子。
全身の力が抜けて、一護に覆い被さった。一護は重いと言わずに受けとめてくれた。
「今のは、結構本気だったんだ。今でもそう。だから出ていったのに、お前が死にそうなほど弱ってるって聞いたから、また世話しに戻ってやったんだ」
「最初に言ったでしょ、奥さんなんかいらないって。ボクの世話は君がやってください」
「子供ができたって言っても?」
「え」
がばりと起き上がり、一護の腹を凝視した。薄っぺらいこの腹に、子供が。
「ボ、ボクがいない一ヶ月に一体どこの馬の骨と!? キィイイイ!!」
「ぉお落ち着けっ、冗談だ! つうか普通に考えたらお前の子供だろうが!」
「ボクの!?」
一瞬目の前が薔薇色になったが。
「だから冗談だっつうの! 嬉しそうな顔すんなよ‥‥」
なんだ違うのか。喜んで損した。
がっくり項垂れる浦原に、一護が疲れたように溜息をついた。そのとき一瞬だけ見せた嬉しそうな顔を浦原は知らない。
「仕方ねえ、また面倒見てやるよ」
顔を上げると、一護が困ったように眉を下げていた。手を伸ばし、無精髭を撫付け、よれた死覇装を指で辿る。一護がいなければまともに自分の格好も整えられない。けれど明日からその心配が無いのだと思うと、浦原は無邪気に笑った。
「お帰りなさい、一護さん」
「なんじゃ。結局今まで通りか、おぬしら」
後日、一護は一ヶ月世話になった夜一の屋敷を訪ねていた。ことの詳細をすべて話し終えると、案の定呆れた顔をされた。別に構わない、自分でも呆れている。
「だってあのバカ、好きだっていまいち自覚してねえんだもん」
「親父殿に面白可笑しく育てられたせいで、情緒面がちょっと‥‥な」
夜一が遠い目をした。どんな父親だったんだ。
言われた通り、一護と浦原の関係は今までと同じ、何も変わっていない。元の鞘に納まったとも言える。けれど愛人みたいな生活に、一護は不満など感じていなかった。
「まだ子供なんだ。大人になるまで待つ」
「大人になって、よその女とできたらどうする」
「そのときはそのとき。でもたぶん、身を引くかな」
浦原が自ら選んだ相手だ。自分よりかはずっといい筈だ。
「行くなと縋ることはみっともないことではないぞ?」
「そう? 俺はいつだって格好良いとこ見せたいって思うけどな」
それはまだ好きだからだと言われると、なるほどそうかもしれないと思った。実際どうなるかは一護にも分からない。もしかしたら捨てないでと縋り付いてしまうのかも。
想像した未来にちょっとだけ落ち込んでいたら、夜一に抱きしめられた。豊満な胸は亡くした母親を思い出す。擦り寄ると優しく頭を撫でられた。
「忘れるな。本当はおぬしが子供なのだ。無理をして大人になるな」
慈愛に満ちた声をもっと聞いていたい。甘えるように夜一の背中に手を回したときだった。
「夜一さぁん! 一護さんがまたいなくなったぁああ!!」
門の方向から、子供みたいな叫び声が聞こえてくる。あやつめ‥‥と夜一が頭を抱えた。
それからすぐに、一護は暇を告げた。
帰っていった一護の背中を見送った後、夜一は猫になって屋根に上った。見下ろした先には、一護に駆け寄る幼馴染の姿が見える。
勝手にいなくなるなとか、一人で出歩くなとか、それはもう勝手なことばかり。自分と然程歳が変わらないとは思えぬ程の我が儘ぶり。あの男に、一護はもったいない。
けれど、一護は嬉しそうに帰ると言った。眉を下げてふっと笑った顔は子供ながらに母性が滲み出ていた。
存外、似合いの二人やも知れない。
「のう、親父殿」
屋根の上で、猫が鳴いた。