繋がっているようで繋がっていない100のお題
056 長い睫が頬にそっと影を落とす
入隊して数日目、初春。
護廷の案内を引き受けてくれたルキアの隣を歩き、一護が十番隊付近に差し掛かったときだった。
まるで文句の付けようもない美しい少年が、一護の目の前を通り過ぎていった。
思わず凝視したほどの美人だった。背景に花を背負っていた気がする。幻覚か。とにかく凄い。
颯爽と歩き去った背中には大きく十の文字が見えた。十番隊の隊長、あんなに若いのに。
「一護、口ぐらい閉じろ」
「いや、だってあれ、すげぇだろ‥‥」
「日番谷隊長だ。あれではない」
「なんで普通に歩いてんだ? 保護しなくていいのか?」
「隊長だぞ。一体誰に襲われるというのだ」
入隊してすぐに仲良くなったルキア曰く、彼の名前は日番谷冬獅郎というのだそうだ。
なんでも百年に一度の天才と名高く、実力も素晴らしいが、何よりあの容姿が護廷の女性隊員の心臓を鷲掴みにして離さないという。霊術院時代から騒がれもてはやされ、数多の乙女達が突撃しては玉砕した。
入隊してからは、彼はあっという間に昇進。今ではおいそれと声を掛けることもできない高嶺の花になってしまった。
しかし彼女達は諦めていなかった。ファンクラブを作り、周りを牽制しつつ出し抜こうと、見えないところで恐ろしい戦いを繰り広げているのだという。
「日番谷隊長ファンクラブ。別名『猟友会』だ。覚えておくといい」
「‥‥‥‥おっそろしいな」
「会員はまさにハンターだ。いいか、一護。日番谷隊長に話しかけるときは必ず二名以上で話しかけること。会員でなくともこれは適用される。知らなかったでは済まされんからな」
恐るべし、ハンター。
比喩でも何でもなく、一護はごくりと唾を呑み込んだ。
「ちなみに日番谷隊長は女嫌いだ」
「あぁ‥‥‥ハンター云々でだいたい想像つくな」
「いっそ男色に走ってしまえば、彼女らの為だというのに」
「お前エゲつないな‥‥」
ルキアはといえば、日番谷隊長にはそれほど興味はないらしい。一護は後に彼女の義兄を目にすることになるのだが、身近にあれだけの美形がいれば、そりゃそう簡単にはぐらつかないなと納得することになる。
ルキア自身、十三番隊を代表する美少女だ。毎日鏡で見ていれば、慣れるものなのかもしれない。
「で?」
「あ? なにが?」
「猟友会。入るのか?」
「‥‥‥‥俺が入るように見えるか?」
「見えんな」
良かった、とルキアは安堵の息をつく。珍しくできた友達だから、ハンターにならなくて安心したらしい。
「彼女らは少し苦手なのだ」
苦笑の裏に何があったのかは、敢えて聞かないことにした。
古今東西、女という生き物は嫉妬や蔑み、その他諸々決して甘くないものでできている。生から解放された尸魂界でもそれは変わらぬことらしい。
男みたいな思考を浮かべながら、一護は低い位置にあるルキアの頭をなでなでしてやった。
入隊から半年ほどが経った頃だった。
「お客様‥‥?」
「おう。粗相の無いようにな」
雨乾堂に、浮竹を訪ねて大事な客があったらしい。湯飲みと茶請けを盆に乗せて渡され、行ってこいとのお達しに、一護は嫌そうに眉根を寄せた
「ルキアのほうがいいんじゃ?」
「何事も経験だ。ほれ、行ってこい」
「‥‥‥‥はぁーい」
一護は渋々海燕に従った。密かにきゃあきゃあ言わせてもらっている男性の頼みを断れる筈がない。実は一護とルキアだけの質素なファンクラブが存在するのだ。
ちなみに、ファンクラブは隊長ごとにあって、一護が所属する十三番隊、浮竹隊長には、割とおとなしめの女性達を中心に、あとは純粋に尊敬する男性も若干名含まれて形成されているのだとか。余談だが、十一番隊隊長のファンクラブは過半数が男性であるとの噂。
そして数あるファンクラブの中でも規模の大きさで言えば、日番谷隊長のところに勝るものはない。規律は厳しく、まるで軍隊のようだと一部では噂されていた。
「失礼します」
雨乾堂の廊下にて、一護は丁寧に障子を開き、深くお辞儀をした。ルキアに叩き込まれた礼儀作法を反芻しながら、一護はゆっくりと顔を上げ、
「ひぃいっ」
仰け反った。
頭の中で、嫌にリアルな発砲音が再生された。
「どうした。入れ」
顎でしゃくって入室を促され、一護は意識を呼び戻した。室内を見渡すと、彼一人。浮竹隊長もいるかと思いきや、当ては外れ、今はまさに二人きり。
ぎくしゃくとかなり固い動きで部屋に足を踏み入れると、カタカタ震える手で茶を差し出した。
日番谷隊長に話しかけるときは必ず二名以上であること!
(お、俺はまだ喋ってないっ、だからこれはセーフ!)
さっさと退出してしまおう。
「待て」
イヤー!
内心絶叫した。顔は崩れていない筈。
一護は、お前しか頼れるものはないと言わんばかりに盆を胸に抱きしめた。この場を目撃されてみろ、自分はハンターに間違いなく殺られる。
「浮竹が戻ってくるまで、俺の話し相手をしろ」
「‥‥‥‥はい、日番谷隊長」
死んだら恨んでやるからな。
気まずい。
浮竹にと持ってきた茶請けを己の腹に収め、一護は目の前に座る日番谷を上目遣いに見やった。早く解放してくれないだろうか。浮竹隊長はどこに行っているんだろう。
「黒崎、だったな」
「はぁ、」
「この間の合同演習でお前を見た。うちの第八席を負かしてくれたな」
「えっ、と‥‥‥すいません」
「いや、違う。褒めてるんだ」
「どうも‥‥‥」
だから気まずいんだって。
慣れない正座で足はもう限界だし、会話も弾まない。ここは手水を理由に退席してしまおうか。
こんな美少年相手に切り出すのはなんだか恥ずかしい気もするが、ええい背に腹は代えられん。
「あのー、」
「入隊してまだ半年だと聞いた。席官にはもうなったのか?」
「‥‥‥‥‥‥いいえ、」
「そうか。うちなら、すぐにでも席次を与えてやれるのに‥‥」
「でも、俺、じゃねぇや、自分は鬼道がからきしなんで」
「そうなのか?」
「霊術院じゃ、先生からも見放されました。追試も全滅でしたし。卒業式の前日まで先生が粘ってくれたけど、結局駄目でした」
「‥‥‥‥っ、す、すまんっ、」
いいさ、笑ってくれ。
泣いてたなー、あの鬼道担当の教師。「お前はやればできる子だ」と何回言われたことか。結局一回もできなかったけれども、彼は元気にしているだろうか。
「だが、その分剣術に打ち込めたということだろう? 演習を見ていたら分かる。浮竹は、いい新人をもらったな」
「恐縮です」
一護だっていい隊に入れたと思っている。他隊がどうかは知らないが、海燕のいる十三番隊は和気あいあいとしていて馴染みやすい。浮竹はよく寝床に臥せっているが、会えば菓子をくれる親切な人だ。
「そうだ、茶請けがもうありませんね。ついでに茶のおかわりも持ってきます」
「あぁ、もう結構だ」
「いやいや、遠慮なさらず」
「いい、いらない」
「いやいやいやっ、もっと食べてください。育ち盛りでしょう、日番谷隊長!」
「なんだお前、さっきから何度も出ていきたそうにしてるな。俺の気のせいか?」
気付いてたんなら、そうさせろよ!
「‥‥‥とにかく一度戻ります。まさかこんなに長居するとは思ってなかったから、海燕さんにも言っておかないと、」
「それなら大丈夫だ。心得ていると思う」
日番谷はえへんとわざとらしく咳をすると、まあ座れと一護を座布団に促した。訳も分からず座った一護の正面で、日番谷はやけに髪を後ろに撫付けたり視線を彷徨わせたりと、まるで落ち着きがなかった。
秀麗な面差しがわずかに上気している。暑いのだろうかと室内を見渡し、一護は首を傾げた。
「く、黒崎一護、」
「なんですか」
「いきなりで、驚くと思うが、聞いてくれ」
正座した太腿の上で強く拳を握り、日番谷が身を乗り出した。逆に一護は後ろに体を反って、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
日番谷隊長のあまり尖っていない喉仏が、わずかに動いたそのとき。
「合同演習で、お前を見初めたんだ、‥‥‥‥俺とっ、交際してほしいっ!」
一護の頭の中で、またも嫌な発砲音が鳴り響いた。
下から上へと、ぶるぶるっと体に震えが走る。交際って、交際ってっ、
「冗談‥‥?」
「じゃねぇよ! 俺は、俺はなぁ、本気でっお前にっ惚れてるんだっ」
紛れもなく本気の告白らしい。
自慢じゃないが、生まれてから死んで今に至るまで、一護はモテた試しがない。強いて言えば幼稚園に通っていたとき、鼻水垂らした男の子に「いちごちゃんすきー!」と言われたのが最初で最後の告白だ。尸魂界でもそれは変わらず、男友達は多いが恋愛に発展する兆候はまったくもってない。
「黒崎、返事が聞きたい」
「本気か?」
「本気だっ、なんだその疑いの目は!?」
だって、おかしい。何の陰謀だ。
まさか罰ゲーム? いやいや日番谷隊長は真面目で硬派な方だと聞いている。だったら何だ、まさか呪い? 薬もあり得るな。茶を持ってきた相手に惚れてしまう薬を盛られたのかもしれない。
「四番隊に行きましょう」
「何でそうなる!?」
両手をぽんと打ち鳴らした一護に怒濤のツッコミ。なんだ、違うのか。
「俺は正常だ! この上なくっ」
「異常な人間は皆そう言うんスよ。はいはい、分かったから四番隊に行こうか」
「真面目に聞け!」
掴み掛かってきた日番谷隊長を押し返し‥‥たが力負けした。小さな体のどこにそんな力があったのか、一護は後ろにひっくり返る。
「いてっ、いてて!」
「わ、悪い! 頭打ったのか!?」
「足がっ‥‥‥‥痺れた」
じーんてするっ、という一護の訴えに、日番谷の頭ががくりと項垂れた。
「お前は、わざとか? わざとそうしてハズしてんのか?」
逆光で翳る日番谷の顔から、一護は視線を逸らした。不満そうに唇を尖らせ、ぶちぶちと愚痴をこぼす。
「普通、疑うだろ。日番谷隊長、自分がどれだけ人気あるか知ってるか?」
「‥‥‥不本意だが、理解はしている。だがそれとこれとは」
「関係あるっ。俺はまだ殺されたくねぇ!」
ただのファンクラブが物騒な別称で呼ばれるだろうか、否。
「それに俺にだって好みっつーもんがあるんだよっ、俺はもっとがっちりしてて筋肉ムキムキなのがいい! あんたっ、細すぎ! 抱きしめたら折れそうだしっ、男なのにそんな表現される体はどうかと思うぞっ!」
「そっ、そんなの言ったらお前だって細いじゃねぇか! 思ってたほど、がっちりしてねぇし、‥‥‥や、柔らかいし、お前‥‥」
なんでぴったりと重なってくるんだこの人はっ。
「日番谷隊長っ、女嫌いじゃねぇのかよ!?」
「お前は、女とかそういう範疇じゃないから大丈夫だ」
びっ、微妙!
思わず頭を叩きたくなったが我慢した。俺って偉い。
「俺の周りの女共ときたら、胸押し付けてくるは、ヒルみたいな唇で喋るは、甲高い声で叫ぶはで、‥‥‥正直怖い。でも、お前は、」
「俺は?」
「雄々しいから好きだ」
これは殴ってもいいレベルの暴言だ。
一護は拳に息を吹きかけた。
「戦ってるときの雄々しい顔も好きだが、普段見せる顔も好きだ。笑ったのが特にな。お前、あんまり声上げて笑わないだろ? 少しだけ唇を緩めて、目を細めるだけで笑うんだ。いつも遠くから見て、いいなと思ってた」
目が合い、極上の笑みを向けられた。
いや、あんたのほうが百万倍凄い。なんて破壊力の高い笑顔だ。こっちがやられそうなんですけど。
好意の有る無しに関わらず、胸の鼓動が高まるのを一護は感じていた。自分でも知らない笑い方を褒められて、嬉しさと恥ずかしさが募る。けれどここで「はいお付き合いしましょう」と流されるわけにはいかないのだ。
「隊長、お気持ちは嬉しいんだけど‥‥‥‥ってぇっ、顔が近えし何しようとしてんだあんた!?」
「接吻だ」
真上から急接近してきた小さな顔を、一護は全力で押し返した。今度は負けられない。しかし上から掛かる力に、下にいる人間は不利なもの。徐々に、その距離が縮まっていく。
「落ち着けぇええ! いいか、隊長っ、一秒間の接吻でなんと約二万個の細菌が互いの口を行き来するんだぞ!?」
「望むところだ」
「ぇえええええ」
ふに。
「んんっ」
くっついてしまった。くっついて。‥‥‥や、柔らかい。
「うぁ、」
「黒崎‥‥」
ふにっ、ともう一度。
今度は噛まれた。けど痛くない。上唇を引っ張られて、舌が、唇全体を舐めてくる。また噛まれて、いや、食まれるって言うのか、とにかくふにふにと唇をいじくられた。
「は‥‥‥どうにかなっちまいそうだ、」
一護が思った同じことを、日番谷が呟いて、また唇が重なった。
どれほど続いただろうか。
一護は放心して座り込んでいた。風呂上がりの、ぼうっとした感じに似ている。熱くなった頬を押さえ、一護は目の前で同じようにして座り込んでいる日番谷に視線を向けた。
「黒崎‥‥俺‥‥」
はぁ、と抑えきれない何かを堪えるような、そんな溜息を零すと。
「‥‥‥すまん、我慢できなかった」
濡れた唇が男にあるまじき色気を放ち。吐息混じりの声音が恐ろしいほど艶っぽくて。
こんな人と唇をくっつけ合ったのかと思うと、一護はとんでもないことをしでかした思いに駆られ、知らず腰を抜かしていた。
最近の日番谷隊長は、美しさにさらに磨きをかけたと評判だった。
曰く、恋をしているのだとか。
「ハンター達が相手を血眼になって探してるらしいぞ」
どこか面白そうに語るルキアの言葉に、一護はまったく笑えないでいた。あれから戦々恐々と日々を過ごしている。いつ撃たれてもおかしくないと思うのは被害妄想ではない筈だ。
「それにしても誰だろうな。日番谷隊長が惚れるほどだ、もの凄い美少女なのかもなあ」
はいはいすいませんね、と内心愚痴る。
自分も大概変わった趣味をしているが、日番谷隊長はそれに輪をかけて変わっている。好きになった理由が「雄々しいから」だなんて。自分でなくてもそこらの野生動物と結婚してりゃいいんだ。
「一護、聞いてるか? おい、一護!」
「なんだよ!」
「日番谷隊長だ」
ルキアが示した先から、副官を引き連れた日番谷隊長が歩いてきた。一護を襲ったとは思えない毅然とした態度で、一歩、また一歩とこちらにやってくる。
顔の判別がつくところまでやってきても、二人の視線は合わなかった。一護など知らないという日番谷の表情にほっとするも複雑な思いを抱き、二人は何事もなくすれ違った。
「隊長? さっきの子達知ってるんですか?」
乱菊は、今しがたすれ違った二人に視線をやりつつ、日番谷に訊いた。すれ違う瞬間、彼にしては珍しく笑みを浮かべたものだから、気になってしまったのだ。
「片方は朽木隊長の妹ですよね、もう一人は知らないなあ」
「黒崎だ」
「え?」
「見知りおいてくれ」
「えぇ?」
唐突に立ち止まった日番谷が、首を後ろに巡らせる。
見られているとも知らないオレンジ頭に視線を定め、乱菊が絶句するほどの凄絶な笑みを浮かべた。