繋がっているようで繋がっていない100のお題
061 夜の帳に紛れて逃避行
ようやく熱が引いた頃、一護は広い一室に移された。その部屋はかつてはルキアの姉が静養の為に使用していたという。たしかに病人にしてみれば心癒されるところだろう。寝込んだ病人の目線に合わせて作られた庭が、一護の目を楽しませてくれた。
ルキアと白哉も毎日顔を見せてくれるし、朽木家の人々も優しく接してくれる。しかし後者の人々は、一護が朽木家に入るものだと認識しているらしく、「一護様」や「お嬢様」と呼んでくる。このことが一護の気を滅入らせていた。
白哉は本気なのだろうか。本気で自分を妹にするつもりなのだろうか。
恋次が言うには、あの冷徹な顔で冗談を言うこともあるらしい。だから妹云々ももしかしたらとは思うのだが、あの後何のフォローも無かったことが一護にことの信憑性の高さを突きつけていた。
四大貴族である朽木家が相手では、上級貴族といえども手を引かざるを得ないだろう。あの人達には悪いが、養子の話は流れるに違いない。けれど代わりに、朽木家に養子に入ることになる。根本的には何も解決していない気もするが、見ず知らずの人間と家族になるよりも、白哉達と家族になるほうが抵抗感は遥かに薄い。
「‥‥‥いやいやいやっ、何その気になってる!」
布団から飛び出し、一護は畳の上をごろごろと転がった。広いのでぶつかることもない。ひとしきり転がった後、庭に向かった体勢で止まった。今夜はそれほど寒くはないからとわずかに開けられた障子の隙間から、月明かりに照らされた庭が見える。
「家族かぁ‥‥」
欲しくないわけではない。けれど、同時に気後れしてしまう。
流魂街にいたときにかなりスれてしまっていたので、今でも優しくされたりすると挙動不審になる自分がいる。幸せになりたくないわけではないが、立ち止まってその幸せとやらが本当に自分にとって大丈夫なものかどうかを確かめたくなってしまうのだ。そうしているうちにチャンスを逃して、後で悔しがるタイプであるとは自覚している。
そんな一護に対してルキアが言うには、「お前には、ぐいぐい引っ張ってくれる人間が必要だ」らしい。しかしそう言うルキアや、白哉、恋次に修兵、乱菊‥‥上げるとキリが無いが、一護を取り巻く人々は押し並べて強引であり、既にもうぐいぐい引っ張ってもらっている気がする。
だからこれ以上望むものは無い。家族を与えてもらっても、どうしていいのか分からない自分には宝の持ち腐れだ。死神という危険な職業に就いてはいるものの、衣食住は保証されているし友人にも恵まれている。これ以上望めば罰が当たりそうだ。
‥‥‥よし、決めた。明日、朝一で白哉に養子の話を断ろう。
厚意を無碍にするようで心が痛むが、うん、仕方ない。
気持ちに整理を付けると、一気に眠気が訪れた。一護は布団に戻り、肩までしっかりと掛布を被った。
瞼が下りる瞬間、京楽のことを考えた。彼についても決着をつけなくては。
大丈夫。ぐいぐい引っ張ってくれる人達が一護の周りにはいるから、きっと乗り越えられる筈だ。養子の話も、彼に対する気持ちにも。
だから大丈夫。言い聞かせながら、一護はゆっくりと眠りに落ちた。
深夜、眠る一護に近づく影があった。身を守るように体を縮めて眠る一護を見て、唇だけで笑い、頬に触れる。
やがて一護の体を薄い掛布ごと抱き上げると、まるで風のように無音で部屋を後にした。
「おかあさま」
ぺちぺち。
「おかあさま、おかあさま」
ぺちぺちぺちぺち‥‥。
止むことの無いそれに、一護は逃げようと寝返りを打った。けれど今度は体の上に跨がってきたのか、腰がずしりと重くなった。ルキアの悪戯か。やめろよ、と手で押しのけようとしたが躱され、挙げ句の果てには飛び跳ねる。
痛くは無いが煩わしい。一護は身を竦ませると、ゆっくりと瞼を開けた。
「おかあさま」
「‥‥‥‥‥‥‥」
一護は目をゴシゴシと擦り、しきりに瞬きを繰り返した。
体の上に子供が乗っている。まだ幼い。女の子で、三歳くらいだろうか、見覚えの無い子供だ。
「‥‥‥どこの子だ?」
「おかあさまー!」
ぎゅ。
抱きつかれて一護は声も出せなかった。夢か、これは夢なのか。
「お、お母様‥‥?」
起き抜けで鈍かった頭の中が、途端に慌ただしく動き始める。嘘、まさか、いやあり得ない、と否定の言葉がぐるぐると回り出し、一護をさらなる混乱に陥れた。
お母様というのはつまりは母親のことだ。しかし産んだ試しは一度もない。ということはこの子の勘違いか、もしくはお母様というのはどこかの方言でお早うございますの意味かもしれない。そうだ、そうであってほしい。
「‥‥‥‥お前、どこから入ってきたんだ?」
「おかあさまー」
「じゃなくてだな、お前の」
「おーかーあーさーまー!」
何かの間違いだ!
自分は体調を崩して朽木家で静養していただけだ。決して子づくりなどしていない。絶対違う、潔白だ。
「おかあさまー!!」
「もうっ、お前はちょっと黙ってろ!」
小さな口を掌で押さえてやると、子供は何かの遊びだと思ったのか、一護の腕にしがみついてきゃらきゃらと笑い始めた。その姿は可愛いのだが、今の一護にとては悪夢の象徴だ。
じゃれる子供をそのままに、一護は周囲を見渡しぎょっとした。知らない内装、匂い、何より庭に面した部屋ではない。眠っている間に別の部屋に移されたのか。いや違う。
心臓が急に鼓動を速めていくと同時に、一護の背中を冷や汗が伝った。自分はやはり夢を見ているのだろうか。一度、頬を強めに張ってみたが、痛いだけで頭もはっきりしている。何より子供が目の前にいる。
「おかあさま?」
不思議そうに見上げてくる子供に、一護は戸惑った顔を向けた。知らない場所、知らない子供。もしかしたら知らないうちに産んでいたとか。
「‥‥‥無い無い無い! なあっ、お前の母さんは?」
「一護ちゃん」
心臓が止まるか、もしくは飛び出るかと思った。背後から掛けられた男の声に、一護は全身を緊張させた。
ゆっくりと足音が近づいてくる。後ろからそっと肩に触れられて、一護は体を大仰に震わせた。
「良かった、もう大丈夫そうだね」
「‥‥‥きょ、京楽、さん‥‥?」
恐る恐る顔を向ければ、優しい眼差しと出会った。いつも羽織っているような華やかなものとは違う、落ち着いた色合いの羽織を肩に掛けた京楽が優しい笑みを浮かべていた。
「やだなあ、その呼び方はもうよしてよ。奥さん」
ちゅ、と頬に口付けられて、一護は石のように固まった。それをいいことに、京楽は顔中に次々と唇を落としていく。ときどき髭がちくりと当たって、一護はうわずった声を上げた。
「朝餉は食べられる?」
耳元で囁かれるバリトンボイス。正直、痺れた。
「そうか、良かった。じゃあ一緒に食べようね」
知らず頷いていた一護の頬にもう一度口付けて、京楽は子供と一緒に部屋を出ていった。
一人になった一護は両手で顔を押さえ、ふらふらと布団に突っ伏した。顔が痛いほどに熱い。あの人の唇の感触が、はっきりと残っている。
「嘘だろ‥‥」
夢であってほしい。喜んでいる自分が、信じられなかった。