繋がっているようで繋がっていない100のお題
067 柔らかな太腿に縋りついて
京楽春水が倒れた。
その報告は八番隊から各隊に発信され、もちろん十三番隊隊長、浮竹十四郎の耳にも届くこととなった。
「嘘だろう? えーと、あれだ、え、えいぷりる、ふー‥‥‥駄目だ、思い出せん。とにかくその日はもうとっくに過ぎてるぞ、海燕」
「そこまで言っといて思い出せないとか大丈夫ですか。とにかく、嘘だと思われるかもしれませんが本当のようっすよ。八番隊はひどい騒ぎになってます」
「‥‥‥‥本当か? あの京楽だぞ?」
「浮竹隊長が倒れたってんならまだしもねえ」
本当らしい。俄に信じられないが、彼も人の子。そして重責を担う隊長だ。女の子を追いかけてばかりいるようで実は仕事をこなしている筈なので、知らず知らずのうちに疲れを溜め込んでいたのかもしれない。こうはしていられないと、浮竹は四番隊に足を運ぶことにした。
卯ノ花に出迎えられ、向かった病室には面会謝絶の表札。「そんなに悪いのか」思わず卯ノ花に訊くと、彼女にしては珍しく曖昧な表情を浮かべて言った。
「どうも精神的なことが原因かと」
「精神‥‥‥‥あいつほどふにゃふにゃ且つ強度バッチリな精神の持ち主はいないと思うんだが」
「まあ、彼も人の子ですし」
何があってもおかしくはない、人の子であるのならば。
長い付き合いだが、親友である京楽が落ち込んでいるところを見たことがない。そうは見せないようにしていたのかもしれないが、浮竹の知る限りでは、彼は常に余裕を持ち、前を見据えていたように思う。精神的に追いつめられて倒れるという事態は初めてのことだった。
「京楽、俺だ。入ってもいいか?」
扉の外から反応を待つ。面会謝絶の表札だが、それは単に京楽が誰にも会いたくないという意思表示なのだという。副官の七緒すら拒絶して病室に引きこもっているなんて、まったく親友らしくない。扉を開けたら明るい表情で迎えてくれることを期待し、浮竹は声が掛かるのをひたすら待った。
やがて、中から掠れた声で入室を許す声が聞こえた。卯ノ花から薬を受け取り、浮竹一人だけが病室に足を踏み入れた。
「どうしたんだ、一体‥‥」
背後で扉が閉まると同時に、浮竹は部屋の暗さにぎょっとした。照明がついていないせいもあるが、空気がとにかく重苦しい。
ベッドの上には、襦袢一枚をだらしなく身につけた京楽がいた。上半身を起こし、薄く笑みを浮かべている。しかしその覇気の無さといったらどうだ。何年も病気と闘ってきた末に諦めたような、いっそ絶望感すら漂わせた雰囲気に、浮竹は息を呑む。
「やあ、我が友よ」
色っぽいと評判の渋めの声が、今ではただの低音にしか聞こえない。浮竹はベッド脇にあった椅子に腰をかけると、まじまじと親友の顔を凝視した。
見慣れた筈の精悍な顔立ちが見る影も無く、その頬が痩けている。さりげなく整えられていた髭は伸び放題。目の下には隈ができ、悲壮感を際立たせている。腐心とまではいかないが嗜みとして、この男は己を飾るということに手抜きをしてこなかった。それがなんという有様だろう。心労という域をもはや越えている。
「何があった?」
「‥‥‥‥そうだね、うん、‥‥‥聞いてくれるかい?」
喋るのも一苦労と言うように、溜息を織り交ぜながら話す親友を見て、浮竹は急に不安になってきた。聞いてはいけないような気がする。だがここで席を立つような無情な真似もできない。
浮竹の内心を知らずに、京楽はぽつぽつと語り始めた。
「僕はねえ、自分という人間が好きなんだよ。とても、とてもね、好きなんだ。そう思ってた。‥‥‥あぁ、なんだい、その顔は?」
「いや、続けてくれ、」
「いいとも。ええと、なんだっけ? そう、僕は自分が好きだ。正確には、僕自身の生き方が好きなんだ。思ったように生きてるからね。自由に人生を謳歌するっていうのは並大抵のことじゃあない。生まれつきの運と、努力、他には何が必要かな‥‥‥‥まあいいや、とにかく僕は満足していたんだ。ああなんて人生って素晴らしいんだろうって」
浮竹の不安は心配へと変わった。この親友は大丈夫だろうか。正気だろうか。言葉を挟まず、また挟めず、じっと耳を澄ませる。
「人生で一番の楽しみが、女性との交際さ。彼女らは美しく可愛い、男と違って魅惑的な体をしている。男に生まれてきて良かったと思う瞬間だ。僕は僕が好きだけれど、僕に抱かれたいとは思わない。女じゃないからね、こんな筋肉ばかりの体のどこがいいのか僕にはよく分からない。‥‥‥んん、何か変な話になっちゃったね」
結わえていない髪をかきあげ、京楽は立てた膝に頬杖をついた。まだ本当に言いたいことを言っていない気がして、浮竹はやはり黙って聞いていた。
「お前は知ってると思うけど、僕って薄情な男だろう? どんなに女性を大切に扱い敬おうとも、結局僕は僕が一番可愛いのさ。彼女達を愛している、けどそれは自己愛が前提にあるからこそだ。僕は僕の良さがよく分からないけど、自分が一番大切なのは分かってるよ。だから面倒くさい交際は避けてきた、気楽な恋愛ばかりを楽しんできたんだ」
「では、今まで一度も本当の恋をしたことが無いと?」
「あぁ、そうさ。これでもね、ちゃんとルールを決めて彼女達と付き合ってきたんだ。山じいはだらしないとか節操がないとか言ってるけどさ。実は厳格な決まり事があってだね」
まずひとつ。
「処女には手は出さない。‥‥‥だって可哀想だろう? それに初めての相手が僕じゃ、ハードル高すぎるよ。他の男がヘタクソに思われちゃ、それこそ悲惨だ」
随分な自信だが、この男が言うと実際にそうかもしれないと思えるから困る。
「次に、人妻には手を出さない。これはね、本当面倒くさい。当人同士の問題に留まらないから厄介だ。外聞悪いしねえ」
かつてこの親友が幾人かの人妻と交際していたことを浮竹は知っている。夫にバレての刃傷沙汰は数えきれない。京楽が上級貴族であることがさらに問題を根深くし、声には出せない夫達の不満が妻に向くことさえある。修羅場に巻き込まれた過去を振り返り、浮竹は二度と御免だと溜息をついた。
「お前の恋愛に関するルールはよく分かった。で、つまりは何が言いたんだ?」
「急かすなよ」
「お前がナルシストのくせして自分の良さがよく分かってない、こっちも何言ってんだかよく分からないややこしい奴であることは分かってる。そんなお前が、一体どうしたらそんなに窶れてしまうんだ?」
「あぁ‥‥僕って今、そんなにひどいことになってる?」
「今のお前を好きになる女はいないと断言できるほどにひどい」
肌はかさかさ。髪の艶も無い。今の京楽を見て熱を上げる女はいないだろう。
京楽は大きな体を老人のように丸め、低い声音で呟いた。
「傷つきたくないんだよ。‥‥‥‥僕は、自分がこんなに臆病な人間だとは思いもしなかった。認めたくない、こんなの僕じゃない」
「京楽?」
「でもあの子のことばかり考えてる。自ら傷つきにいこうとしてるんだ。僕の人生が台無しになると分かっていて、それでも構わないと思ってる。自分を一番に据えることで、自分を守ってきたのに、」
それは初めて見る、弱音を吐く親友の姿だった。瞠目する浮竹から視線を外し、京楽は告白した。
「つまりは何が言いたいのかというとね‥‥‥‥‥僕は、人妻に恋してしまったんだよ」
満開だった桜がもう散り始めている。季節は春。麗らかな陽射しの下、大柄な男二人が陰気な顔で歩いていた。
「まだなのか」
「この先だよ」
会話は少ない。そういえば今年はまだ花見に行っていないな、と散りかけの桜を見上げて浮竹は思った。いつもは京楽に誘われ、寝床から這い出るという有様だったのだが、当人がこれでは花見どころではない。きっと頭の中は『人妻』のことでいっぱいで、桜が咲いていることにも気付いてなさそうだ。
京楽が不意に立ち止まった。目の前は突き当たり。左側の壁にぴたりと体を押し付け、角からそおっと覗いている。
「変質者みたいだぞ」
「しっ! 静かに!」
なるほど、角を曲がった先に想い人の家があるというわけか。こそこそと見やる京楽を無視して、浮竹はひょいと覗き込んだ。
屋敷と呼ぶには小さな一戸建ての門前で、箒を持った少年が通りの掃除をしていた。下働きの子供だろうか。せっせと箒を動かして、次々と落ちてくる桜の花びらと格闘していた。
「あの家だな? よし、在宅中かどうか、あの子に聞いてみよう」
「はっ!? お、おい、浮竹っ、待て!」
「ちょっと、そこの君」
慌てる京楽を置いて、浮竹は行動に出た。
「奥方に会いたいのだが、いらっしゃるだろうか?」
目線を合わせ、友好的な態度で申し出る。少年は最初こそ警戒していたものの、浮竹の物腰の柔らかさから危険人物では無いと判断したらしい。箒を握りしめていた手から力を抜き、伺うように見上げてきた。
「どちらさん?」
「京楽春水という男を知っているか? 俺はそいつの友人で浮竹という者だ」
「あぁ、あの人の」
「で、あいつが、君のところの奥方と、‥‥‥ええと、親しいようなのだが、本当なのだろうか?」
「うん。会ったら話するし、ごはん奢ってくれるし、他にも色々よくしてくれる」
「そうか、本当なんだな‥‥‥」
ずばり肉体関係は、とはこんな少年に聞ける筈も無い。ものすごく気になるが。いや、やめておこう。
「今日は何しに来たんだ?」
「だから、奥方に会いに」
「うん。で、用は?」
「直接彼女に話したいんだが‥‥」
「どうぞ、言ってくれ」
「は? いや、だから」
会話が噛み合ない。もしかしてこれは暗に帰れと言っているのだろうか。浮竹が邪推したときだった、背後でうおっほん、となんともわざとらしい咳が聞こえた。
「や、やあ、一護ちゃん」
ずっと様子を伺っていた京楽がようやく姿を見せる。一護と呼ばれた少年は、京楽を見て目を丸く見開いていた。
「京楽さん?」
身を整えてきたとはいえ、普段に比べると男っぷりの下がった様子に驚きを隠せないようだった。京楽は珍しく照れた顔で近づいてくると、道中買った小さな花束を一護に差し出した。
「会いにきたよ。友人も連れて来たから、家に入れてくれるよね?」
まさか。
見上げる少年の頬が薄らと色づいている。困ったような表情を浮かべる子供を見て、浮竹は己の勘違いを悟り、愕然とした。
「可愛いでしょ?」
茶を入れてくると席を外した一護の後ろ姿を見送り、京楽が言った。こじんまりとした家の縁側に座った浮竹は、先ほどから難しい顔で腕を組んでいる。
「まだ子供じゃないか」
「うん。十五歳なんだって」
「本気なのか?」
京楽は何も言わず、家に見合った小さな庭を眺めて薄らと微笑んだ。本気だ。浮竹はうぐうと唸った。頭の中では今後どうするか、京楽の両親兄弟、元柳斎の顔が浮かんでは消えていく。祝福される筈が無いということだけは分かっていた。
「抱いたのか」
「うわっ、いきなり何言い出すんだお前は!」
「大事なことだ。あの子には旦那がいるんだろう? 肉体関係があるのとないのとでは今後の対応も変わってくる。何も無ければ今すぐ身を引け。それだけだ」
隣で京楽が不満顔を浮かべているのが分かった。
「あの子にはもう家庭がある。それを壊してまで、お前は幸せになりたいのか」
「なりたい」
「京楽!」
「大きい声出すなよ。一護ちゃんが怖がるだろ」
胸ぐらを掴まれ今にも殴られそうだというのに、京楽ときたら実に平然としていた。後に、開き直った人間の神髄というものを浮竹は知るのだが、今はまだその走りに過ぎなかった。
「家庭といっても、大したことないさ。一護ちゃんは貴族だよ? なのにどうしてこんなみすぼらしい家に住まわせてると思う?」
「貧乏な貴族は掃いて捨てるほどいるだろう。俺の実家だってそうだ」
「ところがだよ、旦那はちゃんと立派な本宅に住んでる。ここは別宅。使用人はいない。ときどき様子を見に来る下男がいるくらいだけど、実質一護ちゃんは一人暮らしなんだ」
「‥‥‥‥どういうことだ?」
「旦那は本宅で愛人とイチャイチャ暮らしてる。一護ちゃんは結婚してすぐここに追いやられて不遇の身。家庭なんて最初から壊しようも無いのさ」
浮竹は絶句した。脳裏に、つい先ほどまで通りを掃除していた一護の姿がよぎる。いくら貧乏とはいえ、浮竹の実家にも使用人は数名いた。だが一護は一人でこの家を守っているのだ。夫に相手にされず、まだ十五歳の子供が。
「ふっふっふ。同情しちゃうだろう? だったら僕にもらわれていったほうが百億倍も幸せだと思っちゃってるだろう?」
「そっ、それとこれとは話が別だ!!」
だが、だが。
ここまで聞かされて憐憫の情を抱かない人間などいるのだろうか。特に情にもろいと言われている浮竹だ。そう、京楽はそれを見越してあっさりここまで案内したのだと思い至る。
「俺を利用したな!?」
「あ、バレた? でもお互い様だよ。お前、一護ちゃんに会って僕をフってもらうようお願いするつもりだっただろう?」
図星である。浮竹はバツの悪い顔を背け、京楽から体を離した。
どこからか桜の花びらが風に運ばれて舞い落ちてくる。あのひとつをつかみ取ることができたのなら幸せになれるという迷信が、浮竹の脳裏を通り過ぎていった。