繋がっているようで繋がっていない100のお題
068 流した涙を君は甘いと言う
一護ちゃんは処女なんだよ、最っ高だよね!
とは、つい先日倒れたというのにもう復活した京楽の言葉である。恋愛に関する厳格なルールはどこに行ったんだ。聞いたときはもちろんぶん殴ってやった。
で、処女の話に戻る。貴族というものは京楽の恋愛ルールと違って実に厳格な決まり事のある社会である。中でも結婚に関しては家同士の繋がりとあって、儀式や習わしその他諸々面倒くさい制約には枚挙に暇がない。
初夜は女が十六になってから。というのもそのひとつである。一護がいまだに清い身であることを考えれば、相手の男はその制約を履行して‥‥‥‥るわけではなくただ単に一護に興味が無いだけだろう。飼い殺しか。浮竹はますます気が重くなった。
京楽は京楽で、毎日とは言わないが時間を作っては一護に会いに行っていた。それに毎回付き合わされているのが浮竹である。こっちは暇ではないんだが、と思うものの何か間違いがあってはいけないという思いから友人に利用されていた。
「二人きりじゃ会えないって言うんだもん」
一護はしっかりとした貞操観念を持っているようだった。十五歳にして、ご近所の目というものを理解し、防波堤を築いている。その護りを突き崩そうというのが我が親友である京楽春水、悲しいことに護廷の隊長という責任ある身分。ちなみに歳の差は恐ろしくて計算できていない。ロリコンだぞ、ロリコン、ポップコーンとは訳が違うんだぞ!
「罪の意識に耐えきれない。元柳斎先生の顔を見てると特に‥‥」
「気をしっかりと持て! 大丈夫、僕と一護ちゃんが結ばれた日に、その罪の意識とやらからは解放されるだろうからさ」
「人妻‥‥淫行‥‥略奪愛‥‥‥あぁあああ!! お前っ、道を踏み外したどころの話じゃないぞ!!」
「うるさいなあ。僕だって悩んだんだよ。お陰で激痩せ! また鍛え直さなくっちゃ、一護ちゃんに見せられないや」
「見せんでいい! お前みたいなオッサンの裸、一護に見せたら気の毒だ」
こいつは、この男は、ヤる気万々だった。
一護の歳を考えろと何度説いてみせてもどこ吹く風。十六になったら夫よりも先に手を出すつもりなのは見ていて明白だった。十五歳で永遠に時を止めてくれないだろうかと思うほどに、京楽の本気度は高い。二人きりで会わせたが最後、一護の花は桜の如く儚く散ってしまうだろう。
それを阻止するためにも、お邪魔虫よろしく浮竹は今日も一護の家に訪れていた。隣の部屋では、一護と京楽が楽しそうに会話をしている。あのやにさがった顔。ありとあらゆる女性達を虜にし、手の上で転がしてきた男と同一人物とは思えない。
最近思うのだが、男二人が家を訪ねるというのも随分外聞の悪い話ではないだろうか。今度事情を話し、伊勢にも来てもらうのはどうだろう‥‥‥いや、駄目だな、京楽が殺されるな‥‥‥‥いや、それでいいのか、どっちだ。
「お茶のおかわりはいる?」
縁側で悶々と考え込んでいる浮竹に、一護が急須を片手に話しかけてきた。
「あぁ、いただこう。京楽は?」
「最中が食べたいっつったら、買いに行ってくるって。しばらくは帰ってこないよ」
隣に腰を下ろし、一護が空になった湯飲みに茶を注いで言った。ちなみに湯飲みは持参だ。この家には一護ひとり分の食器しか存在しない。あ、やばい、考えたらまた涙が。
「あの人も飽きねえよなあ。友達使ってまで俺に会いにくるなんてさ」
「もう来るなとはっきり言ってやったらどうだ?」
「それは駄目。京楽家っつったらすげーいいとこの貴族だろ。手玉に取れってダンナが言ってる」
夫のことをまるで記号みたいに言う。皮肉などではなく、本当に実感が無いからなのだろう。
「しかしびっくりした。俺、ロリコンっていうのに初めて遭遇した。貴族って結構アブノーマルな趣味の奴が多いよなあ」
腕を組んでうんうんと頷く一護にあまり危機感は見受けられない。ロリコンの標的にされているという自覚はあるのだろうか。
「あの人にはもっと大人で色っぽくてでも優しくて髪が長くて笑顔の素敵な人が似合うと思うんだ」
「具体的だな」
「俺の理想とする女性像かな」
「自分がそうなろうという気は無いのかい?」
「素材がなあ。漬け物の材料で高級和菓子は作れないだろ」
「漬け物も美味いと思うが‥‥‥」
俺はどちらかというと漬け物のほうが好きだ。いや、疾しい気持ちは抜きで純粋な意味として。
一護は色気の無い笑みを浮かべて「ありがと」と言った。最初に少年と間違ったのも頷けるほどに、そこには女性特有の甘みというものがない。清々しくてさっぱりしている。春よりも夏が似合いそうだと思った。京楽はこの子のどこを好きになったのだろう。
「人生って、」
一護がぽつりと呟いた。
「人生って、難しいよな。生きたいように生きられない。努力が足りねえのかな」
「一護?」
「もっともっと頑張らなきゃいけねえのかな。でもどうやったらいいのか分かんねえんだ。あの人は、京楽さんは、素直になればいいって言ってたけど、でも‥‥‥」
できない。
両手で顔を覆って一護は項垂れた。あぁ、そうか。浮竹は唐突に理解し、視線を落とした。賢い子供だ。自分の想いを秘める術を心得ている。子供のように好きだと口にするのが京楽ならば、この子はすべてを忍し隠す覚悟なのだ。
そのときだった、勢いよく風が吹き、桜の花弁を吹き飛ばす。思わず顔を上げた一護の目が一瞬鋭くなり、すばやく手が動いた。しかし、花弁は一護の手をすり抜け、地面へと落ちていく。
「‥‥‥‥失敗。俺、一度も成功したことないんだ」
「一護ちゃんと何を話してたの?」
帰る頃には、空は黄昏に染まっていた。一護の髪と似た色の空を眺めていた浮竹は、隣を歩く京楽に視線を移す。
「ただの世間話だ」
「世間話にも色々あるだろう?」
「そうだな。そう、少しだが、あの子のことが分かった気がする。お前がどうしてあの子に惚れたのかもな」
京楽が不満そうに唇を尖らせた。惚れた相手に対して第三者が知ったように言うのが気に入らないのだろう。窶れたり悩んだり拗ねてみせたり、まるで普通の男だ。普通の恋をしている。二人の背景がまったくもって普通じゃないが。
「お前と正反対だ。悲しいほどにな」
春とはいえ、まだ肌寒い。浮竹は少し早足になった。歩調を合わせ、京楽が隣に並んだ。
しばらく二人は無言だった。重苦しいとは感じなかった。
「十六歳か‥‥‥‥昔過ぎて、もう思い出せないな」
不意に京楽が呟いた。
十六歳。形だけとはいえ、夫である男は一護に手をつけるだろう。貴族の義務を果たすために。ままならない一護の人生がさらに歯止めの利かないものとなる。
「なあ、京楽。お前は以前、言っていたな。より良い人生を送るために必要なことは、運と努力だと」
「そうだけど?」
「簡単に言ってくれる。お前らしいとは思うがな。だが、いくら努力を重ねても報われないこともある。運に一生恵まれないこともな。そういう人間はそっとしといてやるのが一番だ。周囲が掻き乱してはいけないんだ。お前のように生まれや力に恵まれた人間は、特に関わってはいけない気がする」
「僕に身を引けって? それでさらに不幸に陥る人間がいてもいいとお前は言うのか?」
「そうじゃない。視界に入ったのなら、それも何かの縁だ、助けてやるといい。だが後は放っておいてやれ。人生に押しつぶされる人間の気持ちなど分からないお前が、あの子の傍にいていい筈が無い」
首尾よく一緒になれても、他人の視線が付きまとう。護廷の隊長が人妻に手を出し奪ったとなれば外聞の悪い話だ。そして苦しむのは京楽じゃない、一護のほうだ。あの子には京楽のような大それた人間は必要ない。花びら一枚分でいい、ささやかな幸せが似合う。
いつの間にか握りしめていた拳を解き、浮竹は袖に入れた。その頃にはもう黄昏は一切の闇に変わっていた。
京楽春水が失踪した。
報告を受けた浮竹は重い溜息をついた。
「屋敷は?」
「いません。ご実家のほうにも」
「歓楽街を探してみたか? どこぞの遊廓にでも転がりこんでるかもしれん」
「それは今、隊員達を差し向けているところです。おそらくいないでしょう。浮竹隊長、他に心当たりはございませんか?」
「あのなあ、伊勢。俺はたしかにあいつとは長い付き合いだが、すべてを知ってるわけじゃない」
「そうでしょうか? 少なくとも京楽隊長が横恋慕している人妻のお屋敷の位置は御存知でしょうに」
湯飲みに伸ばしかけた手を強張らせ、浮竹は七緒を凝視した。彼女は平然とこちらを見つめ返している。
「知ってたのか? それで、まさか、い、行ったのか?」
「いいえ。いきなり押し掛けては迷惑でしょう。ですから今日は、浮竹隊長にお願いしに参ったのです」
「俺に行って、京楽を連れ戻してこいと?」
「お願いします」
頭を下げると、「では、これで」七緒はあっさり帰っていった。控えていた海燕が至極真っ当な意見を述べる。
「京楽隊長、人妻に手ぇ出してんだ」
それだけじゃない、まだ子供だ。つまりはロリコンだ。
会ったらこのロリコン野郎と罵ってやろう。浮竹は何もしないうちから既に疲れ切った表情を浮かべ、重い腰を上げた。
呼び鈴を鳴らしても応答が無かったことから、浮竹は仕方なく上がらせてもらうことにした。そして荒れに荒れた室内を目の当たりにし、浮竹は立ち尽くしてしまった。
「なんてことだ‥‥っ」
子供の一人暮らし。いくら瀞霊廷の中とはえ、危険がまったく無いわけではない。
抵抗したのだろう、花瓶やら本やらが散乱していた。
「一護? いないのか?」
それほど広くはない家の限られた部屋を順番に開けていった。いなければ七緒に連絡し、京楽以外にも失踪者が増えたことを伝えなければいけない。
頼む、いてくれ。もし何かあれば俺の精神衛生上非常に良くないことが起きる。怒り狂った京楽を止められる自信など自分には無い。
最後の部屋の前に立つ。祈るような気持ちで、襖に手を掛けようとした。
「あれ、浮竹?」
襖は内側から開き、濃密な空気とともに友人が顔を出す。寝ぼけ眼で見返され、浮竹は呆気にとられていた。そういえば失踪者その一である京楽を探すことが本来の目的だったと思い出す。
「い、いた、のか?」
「いたよ〜」
「ごう、強盗が、」
「あぁ、あれ。いやいや、強盗なんかじゃないよ。一護ちゃんがもう暴れに暴れてさあ。はは、参った」
額の隅っこに青あざひとつ。頬には引っ掻き傷もいくつかあった。しかし表情は生き生きとしており、そう、とても満足した顔。その顔の向こうに、浮竹は見てはいけないものを見てしまった。
‥‥‥‥‥声すら出ない。
友人の登場とともに感じた空気の正体。布団にうつ伏せになって眠る一護の姿。
掛け布団から覗く肩は剥き出しで。泣いたのだろう、目元が赤い。首筋についた赤い痕が見え、浮竹はようやく悲鳴を絞り出した。
「きょっ、京楽っ」
「しー、静かに。さっき寝たとこなんだ」
さっきということは、さっきまで二人は口にするのも憚られることをしていたわけで。
まだ十六には達していないからどこか安心していた。京楽はユルいとはいえ上級貴族。どんなに自由に振る舞ってはいても、根は生まれついての貴族の慣習には逆らえないと思っていた。
しかし、相手が京楽春水ということを忘れてはいけなかった。
「合意はとったんだろうな!?」
「もちろん。‥‥‥‥‥起きたらとるつもり」
「貴様こっち来い! 裁判にかけるまでもないわっ、俺が介錯してやる!!」
「いっててててて」
耳を引っ張って部屋の外へと連れ出そうとしたとき、布団の中からくぐもった声がした。二人は息を止め、様子を見守る。
一護は布団から身を起こすと、幼い子供のように目をこすった。壁を見つめ、ぼうっとしている。徐々に視線は下へ行き、己の裸体を見下ろした。
絶句。
一護は頭から布団を被った。
「一護ちゃん」
布団の山が揺れた。その頂きに京楽はそっと触れ、甘く囁く。
「一護ちゃん、一護ちゃん。浮竹が迎えに来た。僕は護廷に戻らなくちゃいけない」
「‥‥‥‥行くんですか?」
「すぐに戻ってくるよ。それまでに君はお風呂に入ってご飯を食べて、出かける支度をしていてほしい。出かけると言っても、もうここには戻れない。だから必要なもの、持っていきたいものを纏めておいて」
息を詰める気配がした。やがて布団がもぞもぞと動き、一護が顔を見せる。
「もう戻れないって、でも‥‥っ」
「うん。僕の屋敷で暮らすんだ」
浮竹は見ていた。一護の眦から涙が零れ落ちる瞬間を。なんて綺麗な涙なのだろう。一粒一粒が価値ある宝石のようで、それが布団に落ちて染みとなって消えていく様を、浮竹はただじっと見ていた。
京楽の言う通り、合意は今とられたのだ。
次々と涙を零しながら、一護が嗚咽混じりに言った。
ーーー待ってます。
「あ、そうだ。離縁状の書き方って知ってる?」
「あン?」
「なんでやさぐれてんの。離縁状だよ、離縁状。七緒ちゃんに訊いたら教えてくれるかなあ」
護廷へと続く一本道を、一人は晴れ晴れとした顔で、一人は鬱々とした顔で歩いていた。今頃、一護は風呂に入っている頃だろうか。それともまだ布団の中で余韻に浸っているのだろうか。この先待ち受ける困難も知らずに。
「後ろ指を指されて、辛い思いをするのは一護だ。護廷の隊長様には怖がって誰も何も言わんだろうからなっ」
「そんなに怒るなよ」
「怒りたくもなる。あの子はまだ子供だぞ、何も分かってない」
「子供かなあ。少なくとも僕を受け入れられるくらいには大人だったと思うけど」
「無理矢理捩じ込んだんだろ、悪党め!」
「怒ると下ネタ普通に言う癖、やめてくんない?」
言葉の応酬がしばらく続いた後。
「僕はやっぱり僕が好きだ。一番好き。だから僕の幸せのために、一護ちゃんには犠牲になってもらうことにしたのさ」
立ち止まり、雲一つ無い空を見上げる京楽ときたら。
浮竹は地面を見下ろし、悪態をついた。
「最低だ」
「うん。一護ちゃんにはこれから苦労させると思う。けど今さらだよ。苦労の連続だったんだから。そこに僕という苦労が加わっても大して変わらないさ。僕と一護ちゃんの馴れ初めなんて、そのうち笑い話になる日が来るって信じてる」
「今日という日ほど、お前と友人をやめたいと思ったことはない。勝手ばかり言いやがってっ。もう知らんぞ、元柳斎先生に半殺しにされても助けてやらんからな」
「えぇっ、うわ、ちょっとそれは困るよ! 一護ちゃんが待ってるんだからさあ、頼むよう」
「お前なんぞもう知らん。愛想が尽きた。だが、」
ぽろぽろと泣きながら「待ってます」と繰り返し言った一護は。
「あの子だけは、俺が盾になって守ってやる」
これから降り掛かるであろう悪意から、きっとすべては無理だろうけれど。それでも一護が笑えるくらいには、この身も少しは役立つだろう。
惚れたのか。自問すると、どうだろうなと答えが返る。今は深く探ることはせず、浮竹はそっと胸に仕舞い込むことにした。
いつか、花弁をその手に掴ませてやろう。あれには少しコツがいる。
来年の春を思い、浮竹もまた空を見上げた。