繋がっているようで繋がっていない100のお題
071 指の廻りきる君の手首
初めて心奪われた人は、統学院の教師だった。
オレンジ色の短い髪に鋭い眼差し。一見すると男性のようで、けれどそうではなかった。荒っぽい口調は不思議と下品ではなく、むしろどこか気高い雰囲気すら感じることがあった。噂では上級貴族の出身らしい。他人に対して一線引いた態度と冷たい目をしていた。
「誰か分かる奴は?」
護廷の歴史についての講義。知っても知らなくても生きていく上ではほとんど役には立たない、と最初に言ったのはこの人だ。しかし、知識が深まることは良いことだと言い添えて、俺の講義で寝たら殺すと脅しが付いた。
「はい」
「では、藍染」
教鞭で差し当てられ立ち上がった生徒に「さすが」と教室中の視線が集まった。淀みなく答えを述べる優等生ぶりに、特に女子からは感嘆の溜息が零れる。
「いいだろう。座れ」
表情を微塵も動かさない教師は再び淡々と講義を進めた。低めの声は、今日は少し掠れている。前日、いや前夜、何かあったのだろうかなんて、藍染は下世話なことを考える。
先生、恋人はいるのですか?
以前、馬鹿な生徒が質問したな。そのときのことを思い出し、藍染は笑みを浮かべた。先生の答えは実に人を食ったものだった。
『お前も加わりたいのか?』
初心な生徒は顔を真っ赤にさせていたっけ。あぁでも、是非と答えたならば、本当に恋人の一人に加えてくれたのだろうか。先生は、年下のことをどう思っているのだろう。
先生。先生。黒崎先生。
抱きたい。
講義が終わるまで、頭の中はそんな妄想でいっぱいだった。
黒崎先生は、かつて隊長にまで登り詰めた人らしい。歴史の教科書を開けば、名前がちゃんと載っている。
肖像画では、髪を伸ばし今よりも目尻の下がった幼い先生を見ることができた。甘い顔立ちに緩めた唇。たおやかな姿は上級貴族の令嬢に相応しい。際立って美しいわけではないのに、先生は目を惹く容姿をしていた。
夫がいないのが不思議なほど。家族関係までは教科書には載っていなくて、藍染はそっと頁を閉じた。護廷に入隊すれば色々と聞けるかもしれない。でもそのときまでには、先生と仲良くなっておきたいと思うのだが。
ある日、藍染は校長室に呼び出された。はて悪事はすべて証拠隠滅してきたのだが、と表面だけの優等生は最初首を捻った。
「卒業‥‥‥ですか?」
言い渡されたのは飛び級に飛び級を重ねた早期卒業。実に名誉なことだよ、と名前も覚えていない校長はふくよかな腹を揺らして笑っていた。
同じ部屋に黒崎先生もいた。第一組の担任教師とは別に、かつて隊長だった経験もある先生が同席して、藍染の優秀ぶりを認める発言をした。
「しかし、僕にはまだ学ぶべきことが、」
「何も無い。すぐに入隊してもやっていけるだろう」
なんて素っ気ない人。やるべきことはまだあるんです。黒崎先生、僕はまだ貴方に触れてすらいない。
などと言えば卒業取り消しどころか退学になりかねないので黙っておいた。代わりにじっと熱い視線で先生を捉える。
「護廷は万年人不足だ。使える者は随時卒業させていくべきでは?」
校長もうんうんと頷いている。藍染の卒業は、あっさりと決まった。
校長室を辞した後、廊下の先を歩く先生に藍染は追いついた。後ろから腕を取ろうと伸ばしたが、触れる直前で躱される。
「なんだ」
「‥‥‥僕はまだ卒業したくありません」
「そうか」
それだけ。先生は踵を返して歩き出す。まるで興味無いという態度に藍染はむっと眉間に皺を寄せた。自分で言うのもなんだが、これまで女性に軽く扱われたことは一度も無い。経験豊富とは言い難いが、あしらい方には慣れている藍染にとって、こうも扱い辛い人は初めてのことだった。
「先生は、護廷には戻らないのですか」
「戻るつもりは無い」
「どうして? 現役でも十分やっていけると思います」
「そういう問題じゃない」
じゃあどういう問題なんだ。さらに言葉を重ねようとしたとき、先生が立ち止まった。見ると、教員室。黒崎一護と掲げられた札が視界に入る。
「荷物を纏めておけ。今週中に退寮だからな」
視線も向けずに先生は言う。扉にかかった手を、藍染は今度こそ捕まえた。
「その前に、お願いがあります」
初めて触れた先生の手首は細く、まるで少女のようだったと記憶している。その後聞いた掠れた声も、その後感じた温かい体も、藍染はずっと忘れることはなかった。