繋がっているようで繋がっていない100のお題

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  072 腕一杯で抱きしめても足りない貴方の背中  


 一護の目の前で、手袋をはめた大きな手が実に器用に動いていた。
 突然切れた鼻緒を裂いた手拭で結び直してくれたのは、通りがかりの見知らぬ男だった。
 その手際の良さに、一護は言葉も忘れて見入っていた。どうしてそんなに太い指が細かく動くのだろう。不思議で仕方なかった。
 指先から着物に隠れた太そうな二の腕、分厚い胸板。巨体とも言える彼の全体像を視界に映し、一護はやや紅潮した頬に思わず手をやった。
 か、格好良い‥‥。
「これでよいだろう」
 頭巾の中から聞こえるくぐもった声に、一護ははっと我に帰った。
 男が丁寧な動作で、直した下駄を一護に履かせてくれていた。平均よりも大きい筈の一護の足なのに、男の手が大き過ぎて今はとても小さく見える。それがなんだか気恥ずかしくて、一護の体温はぐんぐんと上昇した。
「あ、ありがとう、」
「いや。儂はこれで失礼する」
 お礼を申し出た一護だったが、彼は頑なに拒み、気持ちだけで結構と言って去っていった。
 丁度夕日が沈む頃。逆光に翳る彼の背中はとても大きく、頼もしく映った。
 なんて格好良いんだろう。
「せめて名前だけでもっ!」
「名乗るほどの者ではない」
 まるで芝居みたいな台詞。
 けれど一護にとってはどんな台詞よりも痺れた。気付けば体は火照り、ふにゃふにゃになっていた。



「‥‥崎! これっ、黒崎!!」
 頭の中では夕日の情景が映し出されていた。
 しかし嗄れた一喝で儚くも消え去り、代わりに視界には訝しむ同僚達の顔、顔、顔。
「あれ?」
 もしかしてここは一番隊、しかも今は隊首会?
 一護の背中を嫌な汗がたらりと落ちた。誤摩化すような顔を総隊長に向ければ、咎める視線が自分に突き刺さっていた。
「黒崎は後で残るように」
 やっぱり。
 居残りは統学校以来だ。学生時代はサボれても、さすがに総隊長の命令からは逃げられまい。
 自分が悪いとはいえ、重い溜息をこぼすと、隣にいた男が心配そうな顔を寄せてきた。
「さっきから溜息ばっかり。何かあったの?」
「別に」
「んもうっ、ちょっとくらいボクに頼ってくれてもいいじゃないっスかぁ」
「うるさいな、押すなよ喜助」
「おっとっと。一護ちゃん、積極的だね」
「わ、ごめんなさい」
 浦原に押された一護が隣の京楽に体を押し付ける形となって、わいわい騒いでいたら案の定。
「そこの三人!!」
「はぁい! おい喜助っ、離れろよ」
 右腕にしがみついてくる幼馴染、今は十二番隊隊長を引き剥がし、こちらを睨みつけてくる総隊長へと一護は愛想笑いを浮かべた。
 ほどよい緊張感のあった隊首会が、今ではすっかり緩んだものになっていることに責任を感じ、それからは殊更真面目に総隊長の話を聞いた。隣ではしつこく袖を引っ張ってくる幼馴染がいたが、気付かれないように背中を抓ったら大人しくなった。
 やがて隊首会は終了し、一護ひとりが居残りに。
 正座で説教させられること三時間。痺れた足で外に出たときには、日は傾ぎ、夕刻になっていた。
 見上げた空には、橙色に混じって夜の気配がした。隊舎の屋根に沈みゆく太陽を眩し気に見つめ、一護の脳裏に浮かんだのは、あの大きな背中だった。
 縁だけが白く光った男の背中。肩のラインや、揺れる着流しの擦れる音まで頭の中で再生され、一護は周りに誰もいないことをいいことに近くの壁をボコボコと殴った。
 巨躯に似合わず、軽い身のこなしだったのを覚えている。
 それから低い声だったこと。くぐもってはいたが、頭巾をとれば、もっと素敵な声に違いない。
 夕日に反射した瞳は明るい色をした鼈甲のようだった。理知的で穏やか。思わず見蕩れてしまった。
 そして何より、困っていた一護を気遣う優しさ。
 行き交う人々は、下駄の鼻緒が切れた赤の他人のことなど気にもしなかったというのに、あの人だけは声を掛けてくれた。用事を済ませて颯爽と去った潔さにも好感が持てる。
 また会えないだろうかと思うも、顔さえ知らない。しかしあれだけの巨躯だ、探すのはそう難しくはない筈。一護の勘にすぎないが、あの身のこなし方は武人のそれだった。出会ったのは流魂街であったが、もしかしたら死神かもしれない。
 何番隊だろうか。少なくとも一護がまとめる十番隊には、同じ背格好の部下はいない。他隊には詳しくないが、夜一辺りに頼めば調べてくれるかも。
 頭の中は彼のことばかり。一護は、恋をしていた。

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