繋がっているようで繋がっていない100のお題
074 離してとは言えなくなった
化け物と言われ、顔を切りつけられた。
血飛沫がやけにゆっくり飛んでいる。人は極限状態に置かれると、感覚が研ぎすまされるというのは本当らしい。
って、そんなことを考えている場合じゃない。逃げないと。
茶碗や鍋を投げつけ、相手が怯んだ隙に裏口から駆け出した。今日は真子が帰ってくるからと用意していた料理が台無しになってしまった。まさかあんな奴らに食らわせることになるなんて。
顔、痛いな。
手をやるとかなりばっくりとやられていた。眉間の下辺りから髪の生え際を越えた上のほうまで。脳みそはみ出てないといいけど。
くらくらする。出血のせいだろうか。こんなに血が出たのは初めてだ。
あぁ、息が切れる。まっすぐ走れない。木が邪魔。どこに向かって走ってるんだろう。痛い。転けた。
「真子‥‥っ」
夫婦になろうって本気だろうか。年下のくせに、生意気な。
お前を毎日叩く女の子ってやつは、たぶんお前のこと好きだぞ。好きな子ほど苛めたいんだ、不器用な子、そっちのほうを大事にしてやれ。
おっと、危ない。
カラカラと落ちる小石、崩れる土。高い崖だ。落ちたら死ぬかな。いくらなんでも無理、飛べるわけない。
でも後ろから男達が迫ってきてる。くそ、なんで俺を狙うんだよ。ちょっと耳から毛が生えてるだけだろ。耳の穴から盛大に毛の生えたジジイとか珍しくねえじゃねえかよ。
「はぁ‥‥‥」
駄目、もう考える体力もない。ついでに立つ力も。体が後ろに傾いでいく。
真子。何も言わずいなくなったから、びっくりするだろうな。
「なんかボク、隊長になっちゃったみたい」
浦原喜助、一護の拾い主。決して御主人様とか飼い主だとかではない。
その彼が、このたび大出世をしたのだと言う。
「おめでとう」
「それがめでたくないんだなぁ」
来い来いと手招きされたので一護が寄ると、ひょいと抱き上げられて膝の上に座らされた。一護の耳をふにふにといじりながら、浦原は溜息を一つ。
「隊長なんて責任とか責任とか、あぁ責任とか。そういうので雁字搦めにされて好きなこともできやしない。犯罪スレスレ行為もできなくなるんスよ?」
「スレスレどころかやってんのは犯罪ばっかだろ」
「ま、可愛くない口。塞いじゃいますよ」
後ろから頤を捕われ上向けられる。秀麗な顔が一護の唇を奪おうと距離を縮めた。
「ふがっ」
「こういうことは犯罪じゃねえのかよ」
綺麗な顔に鼻フックを仕掛けてやった。美青年も形無しだ。しばらくいたぶってやった後、一護は男の膝から下りた。
「俺はどうすれば?」
鼻を押さえて呻いていた浦原が不思議そうな顔をした。
「記憶も戻ったし、もう一人で生きていける。出ていったほうがいいのかって聞いてるんだ」
得体の知れない子供、それも獣じみた耳の生えた子供を拾って面倒を見てくれた男に、尊敬はしていないが恩義は感じている。だからこそ、隊長になったというのなら自分は出ていくべきである。
「‥‥‥君がそんな恩知らずだとは知らなかった」
「ん?」
「死にかけてた挙げ句、記憶まで失ってパッパラパーになってた君を世話してあげたのに! なのに機を織るどころか出ていくって!? これだから猫は薄情なんっス!!」
おーいおいおい‥‥。
と嘘泣きを始める大の男を見下ろし、一護は呆れた顔を隠しもしなかった。けれど心の内はそうではない。素直に顔に出さないだけで、本当は少しだけ嬉しかった。
「ごめん。‥‥‥ありがとう」
「いいや許さない! ご主人様許してニャンっ、て言ってくれたら許してあげる!」
「出てく。さよなら」
あぁあ待ってー、と追い縋ってくる男を足蹴にしてやった。
護廷は広い。いや、世の中は広い。
自分の正体以上におかしなものはないと一護は思っていたが、技術開発局というところはまさに奇人変人の集まる場所だった。頭巾なんかいらないでしょう、と浦原に言わしめるほどに。けれど技局を一歩出ればやはり不安である。一護は常に顔を隠し、耳を秘めてきた。
霊術院を通過せずに護廷入隊は異例であるが、そこは浦原の隊長特権。技局の小間使い程度であるならばと、その存在を許された。もちろん戦えと言われたら戦える。浦原に手ほどきを受けた一護は、並の隊員以上の働きはできると自負していた。
それでも目立ってはいけないことを一護自身がよく理解していた為、十二番隊の敷地からは極力出ないよう心がけていた。まあでも、ゲテモノ揃いの技局出身だと言えば、納得してもらえそうな気もしたが。
「平子隊長」
仕事に慣れた頃だった。その名前に体が否応にも反応して、一護は思わず立ち止まった。
「どこに行くんです、これから隊首会と言ってあったでしょう?」
「そうやったっけか?」
相変わらず適当な男だ。頭巾の下でくすりと笑った。
久し振り。
声には出さずに一護は再会の言葉を告げた。
「腹減ったなあ。隊首会の前にメシ食わんと立ってもいられへんし、ここはちょっと食堂に寄り道でも」
「前回みたいに、おにぎり食べながら隊首会に出席すればいいでしょう」
「アホ。あれ、山元のジジイにごっつ怒られたんやぞ」
背が伸びた。髪も長くなって。なにより男らしくなった。
並んだらどんなに首を上向けなければならないことか。けれどそうなることはない。己の存在を知らせるつもりは、一護には無かった。
「おい真子!」
ドタドタと派手な音を立ててやってきたのは十二番隊副隊長。普段よく顔を合わせる彼女の登場に、一護は一歩身を退けた。
「お前んとこの書類に煎餅のカスが付いとったやろが! お前の仕業やろ!」
繰り出される拳を避けながらのらりくらりと文句を躱す。仲睦まじい。互いに信頼しあっている雰囲気は、見ていて感じとれる。
結婚、しないのだろうか。
ふと思い浮かんだ考えに、一護の胸は予想外に痛みを覚えた。あぁ、だから正体を明かさないと誓ったのだ。
逃げるように技局に戻った。息を切らせて帰ってきた一護を、局員達が不思議そうに眺めていた。
真子のことは誰にも言っていない。浦原にも。ずっと胸に秘めておくつもりだった。でも一度だけでいい、近くでその顔が見たい。成長した年下の男の顔を。夫婦になろうと言ってくれた男の顔を。
それがいけなかった。
「一護!」
後ろから追いかけてくる声に一護は飛び上がった。振り返らなくても分かる。
「おいコラぁっ、待てっ、待たんかいっ、なんで逃げるんや!」
なんで追いかけてくるんだ。
あれから何年経ったと思ってる。忘れていないのに驚きだ。
一護はここ数年で覚えた瞬歩を使って逃げに逃げた。四楓院のお姫様に手ほどきを受けたのだ、隊長といえどそう簡単には追いつけないに違いなーーー。
「捕っ、まえっ、たっ!」
後ろからお腹に回った手が一護を囲み抱き上げる。ばたばたと足が宙で回転した。背中に当たる胸板が固い。最後に別れたときは背も同じくらいの子供だったくせに。
「っあ、あぁあ‥‥っ」
「ふん。可愛い声出しても逃がしたらん」
抱き上げられたまま手近にあった部屋へと連れ込まれる。資料の並ぶ室内を奥へと進み、ようやく下ろされたときには一護は息も絶え絶えになっていた。それでも逃げようと床を這ったところ、後ろからすぽーんと頭巾を奪われた。
ぎゃっ、と悲鳴を上げて両耳よりも顔を覆い隠した。体を丸めて小さくなる。ぶるぶる震える耳が、つんと引っ張られた。
「一護」
「見るな!」
体をひっくり返されそうになり必死に抵抗した。亀だ、亀になるのだ。
暗示をかけた直後、あっさりとひっくり返された。それでも顔の傷だけは見られまいと固く腕を押し当てた。しかし、それも簡単に剥がされる。
すべてを晒され、一護はひどく悲しくなった。幼馴染の驚いた顔が、涙でぼやけていく。
そりゃ元々秀でた顔立ちはしていなかったが、顔の傷は結構ショックだったんだ。浦原はニヤニヤしながらときどきこの傷を指で辿るけど、あれはあれで超気持ち悪い。記憶と一緒に消えてくれたらよかったこんな傷。
「‥‥‥‥痛いか?」
ぐすぐす泣いていると、顔を持ち上げられた。手、大きいな。そんなことを思う。
「探したんや、お前のこと。ずっと、ずーっとや、流魂街の隅々まで。でも可愛い耳したお前の話なんて、一度も聞かんかった」
「‥‥‥瀞霊廷に、いた、から、」
「そおか、どうりで、見つからん‥‥」
真子の目がくっと細まった。厳しい顔で、次にはもう抱きしめられていた。
容赦の無い力に体が軋む。でももっと強く。一護からも力を込めて抱きしめる。さらりと流れた真子の髪に頬を埋め、あぁ、と苦し気な吐息を零した。
「い!?」
がぶりと耳を噛まれる感触。思わず体を離すと今度は顔を舐められた。舌が傷をなぞる。そのゆっくりとした動作に一護の背筋が震えた。視線が絡む。そうすることが当たり前のように、二人は唇を重ねた。
「‥‥‥ん、お前の舌、思ったより、ざらざらしとらん、」
「ぷはっ、‥‥お、お前っ、」
口の中を舐められたどころか舌まで吸われて、大人のキスに一護は顔を真っ赤にさせた。でもあまりの気持ち良さに力が抜けてくたりと身を預ければ、喉元辺りを指でくすぐられ、猫みたいな声を出してしまう。
「マズい‥‥」
薄く目を開けて見上げると、真子がやけに周囲を気にしてきょろきょろしていた。よっしゃイケると言ったのは、数秒後のことだった。
やけに丁寧に体を横たえられ、唇を啄まれる。顔の両脇に真子の手が置かれ、まるで檻のように囲われた。そうされると体格差がやけに大きく感じられる。立派な大人の男に成長した真子に対し、一護はそれほど変わっていない。子供をちょっと成長させたくらいの、中途半端な体格。
真子の目は、そんな一護の体を上から下までくまなく見つめていた。まるで視線でなぞられているみたいで居心地が悪い。
「真子‥‥、あの、」
恥ずかし気に身を捩ると、大きな手が一護の体を床に押さえつけた。
「なあ、一護」
指が死覇装の衿へと伸びて、その合わせ目を弄ぶ。そして。
「夫婦の契り、交わそか‥‥?」
熱っぽい声音で言われた台詞を一護は理解できなかった。きょとんと見上げると、真子はうっ、と怯んだ声を上げた。
「なんつー無垢な瞳っ! あかんっ、一護っ、さっきの発情した雌猫みたいに俺を見てくれ!」
「誰が雌猫だ!!」
立てた膝が真子の腹に直撃した。蹲る真子に追い討ちをかけようと拳を振り上げたとき、背後で扉の開く音がした。
「ボクのニャンコっ、いるなら返事をしてください!」
「誰がニャンコだっ、どいつもこいつも!」
駆けつけた浦原によって、夫婦の契りは未遂に終わった。
「むぐるまのあにきー! お茶をぉおおあああー!」
「熱ぅう! あぁもうお前は動かんとそこにおっちんしとけ!!」
ガッシャーンの後に真子の怒声。眠っていた一護は目を覚ました。
時計に目をやると、もう夕飯の支度の時間。起きようと体を起こしかけた途端、吐き気がこみ上げる。目眩も相まって、布団に逆戻りした。
「おい、真子。お前、料理なんかできんのか?」
「任せい。こいつが腹におったときも、俺が代わりにこなしとったんや」
「あたしも手伝いましょーか?」
「やめとけ。こいつは火鉢に生卵を放り込んでゆで卵を作ろうとした女だ」
来客。
体が震えた。四番隊の卯ノ花隊長を始めとした数人の隊員とは顔見知りだが、それ以外はまったくの面識が無い。真子が連れてきたのか、どうして。
「むぐるまのあにきっ、ましろのあねごっ、座布団をよういしたのでこちらに!」
やけに興奮した息子の声に一護は目を瞬いた。耳がぴんと立っているのが容易に想像できる。随分と気を許しているのが声だけでも伝わってきて、一護はふぅっと体の力を抜いた。あの子が大丈夫なら。
起こされるまで夢の続きでも見ていようか。居間の喧噪を耳にしながら、一護はとろとろと眠りに落ちていった。