繋がっているようで繋がっていない100のお題
077 殴られれば目も覚める
それは、隊首会で起こった。
「‥‥‥‥っい、たぁ‥‥っ」
花柄の羽織が一瞬舞い上がり、そして落ちた。殴られた、と気がつくまでの数秒、京楽の視界に星が飛ぶ。
「びゃ、白哉!?」
浮竹の驚く声が、どこか遠くで聞こえた。殴られたことによる精神的なショックか、鼓膜が破れたか。他人に殴られるという貴重な体験に、しばらく言葉が出てこない。
目の前には、無表情の白哉が立っていた。見た目には涼しい顔をしているのだが、目が美しい容貌とはかけ離れて怒りに染められている。彼から立ち上る霊圧の影響で、隊舎の壁が軋んだ音を立てていた。
「貴族の権威を不当に振りかざす真似、決して許されぬ」
無骨とは言い難い白哉の拳が、京楽の頬を襲ったのはつい先ほどのこと。誰もが動けなかったし、今でも動けない。冷静沈着を人の形にしたような朽木白哉が、まさかいきなり他人に襲いかかるとは誰も思わなかったし思えなかった。今でも何かの間違いではないかと、しきりに瞬きを繰り返す者までいた。
「立て。京楽」
静かに告げると同時に、白哉が斬魄刀の柄に手を乗せた。身を強張らせていた隊長達は、そのときになってようやく白哉を押さえつけるべく一斉に動く。
「動くな。これは私と京楽、二人の問題だ。兄らの手出しは無用に願う」
「しかしっ」
「動くと兄らも斬る」
皆、ぎくりと動きを止めた。元柳斎はまだ来てはいないが、この異常な霊圧を感じてすぐにでもやってくるだろう。それまでに事態を収拾させなければと義務感が働くのだが、少しでも動けば戦いは必至、それは避けたかった。
「いつまで座り込んでいる。私は立てと言ったのだ」
白哉が冗談を言っているとは思えなかった。それに、動けば自分たちよりも先に京楽が斬られるだろう。彼も簡単にやられはしないだろうが、無傷でこの事態が収まるとは到底考えられない。
「‥‥‥‥‥痛いなあ」
緊迫感溢れる室内に、なんとも気の抜けるような京楽の声。白哉の柳眉がぴくりと跳ねた。
「普通、いきなり殴るかい? それも素手で。君らしくないよ、もっと優雅にやらなくちゃ」
へらりと笑って、京楽は立ち上がった。まともに拳を食らうも、足はふらついていない。耳も今は正常に働き、白哉の怒気を孕む声を拾っていた。
「貴族がどうこう、だったね。朽木家に、僕が何かしたかな?」
「‥‥‥‥私の妹に」
「妹ぉ? ルキアちゃんだっけ。たしかに可愛いけど、手は出しちゃいないよ」
飄々とした京楽の態度は、いつもならば場の緊張を和らげる。しかし次第に霊圧を収める白哉の静かな佇まいが、浮竹達を逆にぞっとさせた。
「泣かせた代償、今ここで、貴様の命を以て払ってもらう」
「おいおい、本気かい?」
「貴様にあれは渡さぬ。私が囲い、貴様の目には金輪際触れさせはせぬ」
「‥‥‥‥ちょっと待って、まさか」
「死ね」
それからは大変だった。まず速さで勝る砕蜂が割り込み、隙を突いて冬獅郎が足払いをかけ、しかし避けられたので狛村が後ろから押さえこもうとするも鬼道で弾かれ、振り下ろした斬魄刀を受けとめた剣八がそのまま一対一のタイマン勝負に持ち込もうとしたが無視され、ついでに東仙の説得の言葉もずっと無視、お前がいるからいけないんだと浮竹が京楽を引っ張って逃げようとした、そのときにようやく元柳斎がやってきて、一喝と実力行使でようやく事態は収まった。ちなみに三番隊と五番隊、四番隊の隊長三人は何もせずに傍観していた。ついでに十二番隊隊長は無断欠席。
その日の隊首会は、何も話し合わず怒号とともに終了した。
書類で指を切ったのだと言う。男らしく節くれ立った京楽の人差し指に、赤い線が走っていた。
ーーー虚よりも強いよね。僕、嫌いだなあ。
笑いながら書類をひらひら。たしかに、虚でさえ傷つけられないこの人に傷を付けた書類は凄いのかもしれないと一護は思った。
ーーー女性よりも毎度毎度悩ませてくれるのはこの書類だけだよ。
本当に苦手なんだ。一護はおかしくなって笑った。真面目に向き合えば、怖くはありませんよ。通りがかった七緒が言った。それにさらに一護は笑って、京楽が弱りきった声を出した。
傷はそれほど深くはなかったのだが、血がぽたりと畳に零れ落ちた。口に含んで吸い出そうとする京楽を止め、一護は手拭を差し出した。洗ったばかりだから綺麗だと言い添えて。
ーーーありがとう。ねえ、これ貰ってもいい?
二束三文で買ったようなそれをどうしてとは思ったが、一護は了承した。それから彼が、その手拭をずっと持っていたことなんて一護はずっと知らずに過ごしてきた。
だからしばらくして見たときは、驚いたし、どうしてだろう、嬉しくもあった。
「一護」
呼ばれた気がして、一護は瞼を押し開いた。自宅とは違う天井が見える。どこだろう、ここは。
「一護、薬の時間だ。眠いだろうが、起きてくれ」
視界の端に、親友の顔が映った。ルキア、名前を呼ぼうとしたが喉が張り付き、一護は咳をした。
「大丈夫か? ほら、水だ。ゆっくり飲むのだぞ」
上半身を起こされ、口に湯飲みが当てられる。ぬるめの水を、一護は時間をかけて飲み干した。それから薬。苦いなんてものじゃないそれに、一護は一気に眠気が吹き飛んでしまった。
「‥‥‥ここ、お前んちだよな? なんで俺、」
「覚えておらぬのか?」
ルキアが言うには、自分は散々泣いた後に熱を出して昏倒したらしい。たしかに今も熱っぽい。ルキアに促されて、一護はまた布団に潜った。
「連日、腹でも出して寝ていたのだろう」
「んなわけねえだろっ、」
理由は分かっていた。けれど、どちらもそれを言い出さなかった。
傷ついた、のだと思う。しかし体調を崩すほどだとは思わなかった。見合いの席以降、あまりよく眠れていなかったこともあるのだが。
「お前が倒れた後に、兄様がお帰りになられたのだ。珍しく狼狽えておられたぞ」
ルキアが優しい表情で言うものだから、一護も照れてしまう。彼女の義兄が、自分を目にかけてくれていることは知っていたので余計にだった。
「しばらくここで静養するといい。あぁ、帰ると言うなよ、兄様がお怒りになるからな」
でも、と言いかける一護の唇をそっと押さえ、ルキアは首を横に振った。心底案じている目がそこにはあって、一護は熱のせいではなく頬が熱くなるのを感じた。
「ルキア様」
控えめな声が、襖一枚隔てた先から掛けられた。白哉が帰宅した旨を伝えると、気配は去る。出迎えに行こうとするルキアだったが、相手は先にこちらに着いたようだ。突然開け放たれた襖の向こうに立つ白哉に、一護はルキア共々驚いた。
「‥‥‥っお、お帰りなさいませ、兄様、」
威圧感が半端じゃない。護廷で何かあったのだろうか。不機嫌も露に部屋へと入ってくると、白哉は横になる一護に一瞥をくれた。
「具合はどうだ」
「大丈夫だけど、‥‥あの、」
「なんだ」
怖い。ルキアに目配せするも、余計なことは言うなと視線で制される。しかし最低限の礼儀だけはと思った一護は、控えめに言った。
「‥‥‥えっと、お、お帰りなさい‥‥」
白哉の目がくわっと見開かれた。そして一気に距離を詰めてくる。
やべえ怒られるっ。
危機感から一護は思わず枕で防御した。
「うわあごめんなさいごめんなさいっ、馴れ馴れしくてすいません!」
高級羽毛枕を盾代わりに一護は謝罪の嵐を展開する。しかし何の反応も無かった為、そおっと盾から顔をのぞかせた。
「一護」
「ひい!」
白哉のどアップ。美し過ぎて怖すぎる。
枕を投げ出し身を引く一護の両肩を、白哉が捉え、そして言った。
「朽木家の養子に入れ」
ルキアが息を呑む。一護が声を失う。白哉がさらに告げた。
「お前を、私の妹にする」
有無を言わせぬその声に、一護はやはり何も言えなかった。