繋がっているようで繋がっていない100のお題

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  088 絡まる四肢  


 最近、あの人の顔が直視できない。
「おはよう、一護」
 この人の声ってこんなに格好良かったっけ。
 朝っぱらから今さらなことを考えてしまう自分はどうかしてしまったのだろうか。もう何千何万回と声を聞いているというのに、朝が来るたびに同じことを思っている。
「‥‥‥おはようございます」
 顔、赤くなってないといいけど。
 頬に手を当て、用も無いのに庭を見る。咲き終わった葛の白い花がたくさん落ちていた。あれを掃除するのが以前の一護の仕事だったが、今は新人隊員の主な仕事になっている。一護が護廷に入隊して、もう二年が経っていた。
「具合でも悪いのか?」
 すぐ近くで声がして驚いて振り返ると、案の定すぐそこに浮竹の顔があった。きりっとした眉が、心配するように下がっている。
 顔に血が上るのが分かった。
「大丈夫っ、」
「ならいいんだが」
 おかしい。絶対におかしい。
 そう思いながら、廊下を歩き出す。隣には浮竹が平行して歩きながら、すれ違う隊員達に挨拶をしていた。中でも女性隊員には特に声音が甘い。いわば病気のようなそれに、めくじらを立てることもないと一護は思っていた。思っていたのだが。
「どうした?」
「いえ‥‥‥」
 今さら、今さら。
 呪文のように唱えながら視線を逸らし、俯くようにして歩いた。変だ、胸の辺りがモヤモヤする。もうすぐ一緒に暮らすというのに、こんなのでやっていけるのだろうか。
 悶々としながらも一護が向かうのは待機室。そして浮竹が向かうのは隊首室だった。分かれ道で、二人は立ち止まる。
「お仕事、頑張ってください」
「あぁ。お前も」
 別れ際、浮竹の指が一護の顎を捉えた。近づく顔に、一護はあたふたと視線を飛ばす。落ち着きの無い一護に焦れたのか、顎を捉える指に力が入る。強引に正面を向かされ、思わず目を瞑った。
 溜息が聞こえたが、すぐに苦しいほどの口付けが待っていた。










 婚約するときには一騒動あった。
「だから儂が後見人を務めると言っておる」
「世迷言を。私以外に相応しい者などおらぬ」
「白哉坊が生意気を!」
「化け猫の出る幕ではない」
 一護の後見人争い、勃発。
 繰り広げられたそれに、閉口したのは当人達だった。
 争いの発端は、浮竹が恩師である元柳斎に一護との交際を正式に報告したことから始まった。
 数百年という長きに渡ってふらふら、いやふわふわしてもういっそどこかに飛んでいくんじゃないかと思っていた教え子の一人が、結婚を視野に入れた交際をしていると告げてきたのだ。しかも近々行う結納にあたっては元柳斎に是非とも仲人を務めてほしいと頼んできた。元柳斎は大変喜び、ついつい隊首会で浮竹を褒めちぎってしまったのである。
 祝福の言葉が飛び交う隊首会。しかし白哉が言った一言で、争いの引き金はひかれた。
「一護には家族がおらぬだろう。後見人はもう決まっているのか」
 義妹ルキアから話は聞いていたのだろう。いかにも貴族らしい疑問を口にした白哉に、浮竹は特に何も考えずに答えを口にした。
「あぁ、それなら大丈夫だ。夜一が務めてくれることになった」
「なんだと」
 その瞬間、浮竹はこう思ったという。
 失敗した、と。
「他の下級貴族が後見につくならまだしも、夜一、お前では浮竹と家格が釣り合わぬ。それでもお前が一護の後見につくというのなら、私であってもよいはずだ」
「後から出てきて何をぬかすか。儂はの、一護が入隊した当初から目をかけておったのじゃ。ゆくゆくは一門に加え、どこぞの貧乏臭い男ではなく、心身ともにしっかりとした男と添わせてやろうと思っておったのじゃぞ」
 貧乏臭いって俺のことかっ、と浮竹が猛然と抗議したが敢えなく無視された。
 現在、浮竹の屋敷ではどちらが一護の後見人を務めるかの審議が行われていた。互いに四大貴族の一角を担う者同士、ここで引けば一族の沽券に関わる。
「のう、白哉坊よ。おぬしには義妹がおったの」
「それがどうかしたか」
「いずれは妹御も嫁ぐ。そのときおぬしが親としての勤めを果たすというわけじゃ。しかし儂には兄弟もおらねば子もおらぬ。親代わりになる機会など、この先ないやもしれぬ」
「だから譲れと言うのか」
「儂はあの子を心底可愛いと思っておるのじゃ。許されるのならば養子に迎えてもよいくらいにの」
 だができぬ、と夜一は溜息混じりに言った。四大貴族の苦労など、どうして愛しい子に背負わせたいと思うものか。
 やや芝居がかって聞こえたが、それは紛れもない真実だった。そこまで一護を思っていてくれたことに浮竹は感謝すらした。
 しかし。
「子がおらぬのは結婚できぬ貴様のせいだろう。私には関係ない」
 幼い頃から空気の読めない子として有名だった白哉の一言に、夜一だけではなく浮竹も固まった。そして来るであろう嵐から逃げるべく、さっさと部屋を後にした。


「っわ、なんだ!?」
 近くでドーンと破壊音がして、一護は茶筒を持ったまま飛び上がった。見ると、隣の棟の屋根から煙がもうもうと上がっている。話し合いはどうやら決裂したらしい。
 申し訳ないことに、自分の後見人を巡って夜一と白哉が互いに反目しているというのだ。二人には同じくらい可愛がってもらったので、正直心中は複雑だった。嬉しいけれど、不安に思っている自分がいた。
 護廷に入隊してからというもの、いいことづくめで逆に恐ろしくてならない。この先とんでもない不幸が待ち構えているんじゃないかと考えて、眠れないこともしばしばだった。
 幸福を目の前にすると、人は躊躇してしまう。一護は特に今までの人生、辛酸ばかりを舐めてきた。そう簡単に幸せになれるものかと過去を振り返り、心のどこかで疑心暗鬼に囚われていた。
「‥‥‥こんなんじゃ駄目だよなあ」
 一人になると弱音ばかりが心を支配する。気を入れ直さなければ。
 結局お茶はいるのかいらないのか、一護が茶筒と煙の先を見比べたときだった。慌ただしい足音が近づいてきたかと思うと、髪を振り乱した浮竹が台所に駆け込んできた。
「一護っ、逃げるぞ!!」
「え?」
「茶はいいから! おいで!!」
 返事もしないうちに一護は抱え上げられて、浮竹共々屋敷を飛び出していた。肩越しに、屋敷の屋根が吹っ飛ぶのが見えた。


 被害の及ばないところまで来ると、ようやく浮竹は立ち止まった。遠くのほうでは、土煙と断続的な破壊音が上がっている。周辺の住民がなんだなんだと騒いでいるのが恥ずかしくて、喧噪から逃れるように二人はさらに離れ、散歩でよく訪れる神社に足を踏み入れた。
「やつら、祝福してるのか邪魔してるのか、一体どっちだ」
「たぶん邪魔してるとは思わず祝福してるんだと‥‥‥‥」
「タチの悪い」
 浮竹は悪態をつきながら石階段を上り、境内へと入った。屋敷から抱き上げられたままの一護は、誰かに見られてやいないかと気が気ではない。幸い、平日の昼間という時間帯に参拝する客はいないようだった。
「ついでだ、祈っとくか」
「二人が仲直りするように?」
「いや、俺の屋敷の被害が最小限に済むように、だ」
 それはいくら神様でも無理じゃないだろうか。
 思ったが、一護は口には出さず袖の財布を探った。両手の塞がっている浮竹に代わり、賽銭箱に銭を放り投げる。そこで願ったのは、屋敷のことではなかった。
「難しい顔をしてどんなお願いごとをしたんだ?」
「内緒。言ったら叶わなくなる」
 覗き込んでくる浮竹の視線から逃れるようにして、一護は周囲を見渡した。どこかに座われる場所がないだろうかと探していると、浮竹が心得たと境内の奥のほうへと入っていく。本殿の裏手には大きな石が連なって置かれていて、そのひとつに浮竹は腰を落ち着けた。膝の上には一護を乗せて。
 ‥‥‥なんかおかしい。
 見上げると、満足した顔の浮竹と目が合った。
「このままでいいじゃないか。草履を履いてないだろう」
 攫われるようにして屋敷を出てきた一護は素足のままだった。足首から甲を撫でられ、一護はもうそれ以上は言えなくなる。思わず持っていたもので顔を隠してしまった。
「茶筒を持ってきたのか」
「あ、ほんとだ」
 なにせ突然のことだったので、持っていた茶筒はそのまま一護の手にすっぽりと握られていた。なんとも間抜けだ。ますます恥ずかしくなって、一護は茶筒で顔を隠した。
「最近、そうやってばかりだな」
「え?」
「俺と目を合わせようとしない。違うか?」
「それは、」
「俺のことなど見たくもないか?」
 まさかそんなことを言われるとは思っていなくて、一護は羞恥を忘れてまじまじと浮竹を凝視してしまった。一護に対してはどこまでも強気な印象があったので、弱気な発言に耳を疑ってしまう。
「隊長?」
「十四郎だ。そろそろ慣れてくれんと」
 困る、という続く言葉は重なった唇の中に消えていった。一護の背筋がぴんと伸び、茶筒が地面に落ちて硬い音を立てる。初心な反応を愛おしむように、大きな掌が背中を何度も往復した。
「っこ、ここ、外っ」
「あぁ。大きな声を出すなよ」
 にやりと笑った顔はやはり直視できるものではなかった。高鳴る心臓のある辺りに手が置かれる。え、え、と動揺している間に強く唇を吸われ、同時に着物の上から愛撫が加えられる。
「そ、外だって、」
「誰も来ないさ。ほら、跨がって」
「うわぁあああっ」
 胸を押し返し、涙目で睨みつける。少しの沈黙の後、浮竹がぷっと吹き出した。
「か、からかった!?」
「いや、そういうつもりじゃ、‥‥‥ははっ」
 からかったんだ。
 一護は抗議を込めて胸を叩いた。痛い痛いと訴える浮竹は、まだ笑っている。
 いつもそうだ、子供扱いして。そうやってからかって俺が困っているのを見て楽しんでいるんだ。
「わ、笑うなよ‥‥っ」
「すまん、はは」
「笑うなったら!」
 なんでこんなにも泣きたいと思うんだろう。
 鼻の奥がツンとして、視界がぼやける。喉の奥から何かがせり上がってきて、言っては駄目だと思ったが、一護は言ってしまった。
「‥‥‥‥もう、やだ」
「一護?」
「やっぱりっ、けっこんやめる‥‥っ」
「なに!?」
 ぽろぽろと流れてくる涙をそのままに、一護は我慢していた本音を吐露した。
「だっておれ、おれ、不安なんだもん‥‥」
「だもんって、お前、」
 可愛いな。口元をだらしなく緩めてでれでれしている浮竹の膝の上で、一護はなおも言った。
「夢なんじゃないかって、夜、寝るときいつも思うんだっ、怖くて、こんな幸せいつまで続くんだろうって、卑屈なのは分かってる、でも、やっぱり不安でしかたないんだっ、」
 困惑する浮竹を見ていられなくて、一護は袖で顔を隠した。ここまできて結婚を取りやめるなんて非常識も甚だしいのは分かっていたけれど、あとでひどく傷つけられるくらいなら、と考えてしまう。
「隊長のこと、好きだけど、顔も見れないくらい好きだけど、一緒にいると、俺嫉妬してばっかで、前の、彼女のこととか考えて、そうじゃない人にも、優しくしてるの見ると、お、俺のなのにって、みっともないのは分かってるけど止められなくて、嫉妬してっ、だから、‥‥‥だからもう、やめよ? 俺のこと、忘れてください」
 そう、人は大きな幸福を目の前にすると躊躇してしまう。
 今まで『少しだけ』で我慢していた一護には、結婚なんてあまりにも大きすぎて、自分にはもったいなさすぎて、だから引き返そう、そう思った。
 けれど一護は勘違いをしていた。浮竹という男を、真の意味では理解していなかったのだ。
「いつも俺ばかりがと思っていたが」
 指の隙間から浮竹を見た一護は驚いて息を呑んだ。
 なんでこの人は泣きそうな顔をしているんだろう。
 今にも零れそうな男の涙に、ただただ言葉を失ってしまう。自分のせいだとは考えてもみなくて、恐る恐る目の縁に触れた。
「俺だって同じだ。毎日、不安だった」
 秘密をそっと告白するように、浮竹の声は小さく頼りなかった。
「俺達は似てるな。自分を大切に思えないところがそっくりだ。だが、だからこそ相手を想えるんじゃないか」
 涙の痕が残る頬を同じように触れられ、一護は急に胸が切なくなった。何か言わなければ。そう思うのに言葉が見つからない。
「十四郎さん」
 不器用な自分にできることは、不器用に名前を呼んで唇を重ねることだけだった。
 ちゅ、と控えめにくっつけて離れると、浮竹と目が合い「それから?」と言われた。
 それから一護は、恥ずかしさを我慢して浮竹の膝の上に跨がり唇を再度合わせた。一度止まった涙がまた零れてくる。悲しいときに流してばかりだったそれが、今流れるのはおかしい。だって今、こんなにも胸が満たされている。だからだろうか、仕舞いきれなくて外に溢れ出ているのかもしれない。
 唇を合わせたまま、一護は自分の体が浮き上がるのを感じた。そのまま奥の雑木林に連れていかれるのが分かったけれど、ここで抵抗するのは野暮だということくらい一護でも理解できる。
 あとでもう一度、今度は多めの銭を賽銭箱に入れておこう。樹に押し付けられた一護は今度こそ手を合わせて祈った。
 ーーー神様、ごめんなさい。












「見事に壊してくれたな」
 戻った頃にはそこに屋敷はなく、かろうじて屋敷だったものが残っているだけだった。その中心には少しも悪びれることのない二人が立っており、壊すものが無くなった今は互いに互いの責任をなすり付け合っていた。
「白哉坊め、場所も考えずに卍解しおるので抑えようとしたらつい手加減がきかず‥‥」
「千本桜で塵にしてくれようと思ったのだが、こやつが逃げ回るせいでこの有様に‥‥」
 結果、人様の屋敷を木材以下にしてくれたというわけだ。お前たちはひとの幸せをぶち壊しにきたのか、と浮竹は内心罵った。
「しかし決着はついた。儂と白哉坊、一護の後見人になるのは」
「なるのは?」
「両方じゃ」
「げえっ!」
「そうかそうか、嘔吐くほど嬉しいか」
 呵々と笑う夜一が恨めしい。せめて片方なら少しはマシなものを、厄介な小姑が二人もついてくるとはこの結婚呪われているのかもしれない。
「離縁などしてみろ、浮竹、貴様を」
「塵にするんだな。分かった。分かったからもう帰ってくれ。結納まで顔を見せんでいい」
 額を押さえながら双方にはお帰り願った。腕の中の一護が心配そうな顔をして屋敷跡を眺めている。大丈夫、宿泊先には伝手がある。とりあえず今はこの疫病神二人に視界から消えてほしい。
「では帰るとするか。邪魔したの」
「まったくだ」
「フン。‥‥‥‥ん? 一護、髪に葉っぱがついておるぞ」
 髪だけではなかった。背中、お尻、指摘された一護はぼっと顔を紅潮させ、浮竹は明後日の方向を向いた。気まずい空気が生まれる。
「‥‥‥帰るぞ白哉坊」
「なにがあった? なぜ一護は赤くなっているのだ」
「おぬしはときどき元妻帯者とは思えんほど初心じゃな」
 呆れた夜一に促され、白哉たち二人は帰っていった。
 その後ろ姿が消えた頃、うなじまで赤くした一護がぽすりと浮竹の胸に顔を押し付けた。内心激しい羞恥に見舞われているのだろう。浮竹は苦笑し、肩を抱いた。
 屋敷は破壊しつくされたが、その間に心も体も深め合うことができたからよしとしよう。今の自分はとても寛大だったので、無理矢理納得させることにした。
「とりあえず、京楽の家に転がり込むとするか」
 腕の中を覗き込んでそう言うと、一護は無言で顔を逸らした。
 寂しく感じたそれも、今となっては嬉しきこと。
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